Sr岡のマリアの風通信③スペインの友たちとの旅

160808%e3%83%90%e3%83%81%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%86%99%e7%9c%9f%ef%bc%94ローマでたいへんお世話になったスペイン人神父さまの弟、ホアンが、休暇で日本に来た。

ホアンはわたしに、一年くらい前にメールで連絡してきた。長い間、日本に来たかった、この夢をどのように具体的にしたらよいか、アドバイスをしてほしい、と。正直、ちょっと途方に暮れていたところを、何人かのクラスメートとそのご主人たちの、全面的な協力を得て(感謝!)、東京から伊東、京都、大阪、広島、下関、長崎、そして再び東京…というルート、日程、宿泊、交通手段のプランを立てた。ホワンはとても喜んで、9月13日から30日の「旅」が実現した。わたしは母と一緒に数日付き添い、またクラスメートたちは、京都観光を企画し、同行してくれた。

エンジニアであるホアンは、移動の日付、駅までの行き方、電車の時間、出発ホーム、乗換の仕方、それぞれのホテルの場所…など、インターネットを駆使して詳細に調べ、細かい字で手帳に書き込み、記憶し、その通りに行動する。数字や方向に弱いわたしが勘違いで間違えると、「リツコ、違う」と、ホアンが指摘し、最後には、ホアンが道案内。母に、どっちが日本初めてなのか分からない、と笑われるほどに。

さて…エンジニアとして、東京の街を歩き回ってひじょうに感銘を受け、京都では日本の文化だけではなく、実際に日本人―クラスメートたち-と直接に触れ合い、言葉を交わし、広島は「ひじょうに興味深い」と言い…そして、ホアンは「長崎」に来た。

ホアンはわたしに、自分の国(スペイン)はキリスト教国と考えられているが、若い世代の多くは、信仰と実生活は別物だと感じている-考えている、というより、感覚的に知らない間にそう感じている-と言っていた。

そのホアンが、まず、長崎の外海地方、出津で、フランス、パリミッション会の宣教師ド・ロ神父(Marc Marie de Rotz、+ 1914)の生き方に「触れた」。ホアンは、ヨーロッパ人でありながら、初めてド・ロ神父の存在を知った。キリシタン迫害が終わった後、やせた土地で、貧しく厳しい生活を強いられていた外海のキリスト信徒たち、とくに若い女性たちを、ド・ロ神父は、キリスト教の精神だけでなく、「実践面」でも(神父は、建築、医療、印刷、農業…の知識を持っていた)助けた。つまり、キリスト者であることの根底である、神の似姿として造られた「人間」としての尊厳、その「総合的」な成長を助けた。しかも、こんな「遠い、知られざる国」で…今でも、ヨーロッパにとって、日本は「極東」である。ド・ロ神父の時代、どのくらいのヨーロッパ人が日本の存在に関心を持っていただろう…。

ホアンは以前から、一人の信徒として、実際にエンジニアであることを通して、何か具体的に人々を助けることは出来ないだろうか、と自問していた。ド・ロ神父の生き方は、彼自身の問いかけに答えを出すプロセスのきっかけになったようだ。

外海ではまた、遠藤周作記念館を訪れた。ちょうど、「沈黙」刊行五十周年の特別企画展が行われていて、当時のヨーロッパ、キリスト教思想における、「栄光のキリスト」と、日本のキリシタン迫害下での「みじめで、弱いキリスト」のギャップに悩んだ(と、遠藤周作は解釈する)一人の宣教師の「転び(棄教)」のテーマは、ホアンをひじょうに印象付けたらしい。記念館で英語訳を求めたが販売していなかったので、タイトルを手帳に書き留め、スペインに帰ったら購入する、と言っていた。

その翌日、ホアンは、二十六聖人殉教者たち(その中にはスペイン人も含まれる)と「出会った」。自分の知らない歴史の中で、「極東」の小さな島で、信仰のために命を捧げた「同胞たち-ヨーロッパ人たち-」がいること、そして、彼らにそこまでさせた「内なる原動力」が決して理論だけではないことが、ホアンを深く考えさせたようだ。

…今回も、たぶん、字余り。ここで終わるが、最後に、スペインに帰ったホアンのメールの訳を共有したい。「この旅の経験が、わたしをよりよい人間にしれくれることを、神に祈ります。わたしを、人間として、そしてまたキリスト者として成長させてくれるように…あの、宣教師たちが福音を運び苦労をした場所を見た後で、そしてたぶん、今日もまた、日本に住む多くのキリスト信徒たち、カトリック信徒たちが生きているだろう苦労を思いながら…」。

ホアンは、余った日本円はユーロに替えない、また来るから、と言っていた。

神のわざは偉大。アーメン。

このエントリーをはてなブックマークに追加
2016年11月1日 | カテゴリー :