Sr岡のマリアの風通信① O神父に充てたメールの分かち合い

日本カトリック神学校紀要 第7号(2016年度)が送られてきた。以下、わたしが、編集者であるO神父に充てたメールの分かち合い。

***

O神父さま、いつものことながら、この『紀要』編集を初号から続けておられる神父さまの、忍耐、努力、パッション(熱意)に感謝しています。私の友人の研究に関連していると思う記事があるので、送ってあげたいのですが、購入できるものなのでしょうか?

『紀要』が届いて、わたしは面白くて(??興味深くて)、谷氏、稲垣氏の記事を、一気に読んでしましました。

谷氏の研究(「神化の道行きと、その根拠をめぐって―キリストの十字架と復活―」)に関して言えば、実は今、わたしは、無知ながらも、正教会のイコンを通しての東方霊性に関する本を読んでいるところです。ローマで勉強していた時、正教会典礼について、また、Gregorio Palamasの霊性について授業を受けましたが、当時は、分かったような分からないような…という程度の理解でした。日本に帰ってから、(たぶん日本人だから)自分の中で、東方キリスト教霊性への傾きを感じて、個人的にイコンに関する本(英語、イタリア語が多いのですが)を読み始め、かなり「ハマって」います。十年以上たって、やっと、あの時のGregorio Palamasの授業が分かり始めた、というところですが―今思えば、それを教えてくださったE. Toniolo教授は、全身で、手振り身振りでPalamasの教えの偉大さを伝えて(伝えようと)してくださったのですが、東方霊性に疎いわたしたちは???という感じで、何とも教えがいのない生徒たちでした―。これから、谷氏が挙げておられる日本語文献を読んでみようと思っています。ひじょうに深いところで、わたしの専門、マリア論にも関わりがありますから。

また、稲垣氏の忍耐深い研究(「トマス・アクイナスの聖母神学―試論」)、まさに、わたしがマリアヌム神学院で叩き込まれたことと繋がります。つまり、神学の勉強において「偏見を持たない」ということ。この学者はプロテスタントだから、とか、アジア人だから、女性だから、○○会だから、○○派だから…という色眼鏡から、その人の研究を批判しない。あらゆる「正当、真面目な」研究の実りには、必ず何か学ぶことがある、という謙虚さで、他者の研究を尊敬すること。

聖母の「無原罪の宿り」の教義の歴史に関しては、一般に、「フランシスコ会は賛成派」「ドミニコ会は反対派」と単純化されますが、それは、あまりにおおざっぱな見解だと、わたしも思います。それプラス、その時代は、まだ教義宣言はされていなかったのですから、神学者は自由に討論することが出来たわけです。また、人間の「懐胎」についての概念-魂は、肉体が宿った後に宿る、それでは魂はどの瞬間に宿るのか、など―が、現代の概念とは全く違っていましたし、「懐胎」の概念が異なれば、当然、それに伴う「原罪」の理解も、わたしたちのそれとは、異なってきます。それらすべてが、「無原罪の宿り」の教義の歴史の背景にあることを理解し、丁寧に、忍耐強く研究する必要があります。

何でも「単純化」「一般化」したがる、「クイズ方式」的考察プロセスが、神学の分野にも入ってくると、ひじょうに「浅い」表面的な理解になってしまう、と、これはわたし自身にも常に言い聞かせていることです。

神学は、決して、人間が神を研究するのではなく、神が始動した、わたしたちの救いの歴史における、神の「足跡」(旧・新約聖書)から、人間が分かる範囲で、謙虚にその神秘に入って行く―入ることを許されるままにされる、というか―、ということだと思います。神の思いは、人の思いを、常に、はるかに超えることを受け入れながら。

谷氏や稲垣氏の研究のように、忍耐強い、固定観念にとらわれない、謙虚な態度が必要ですね。わたしも、このような諸先輩に倣いたいと願っています。

最後に、O神父さまの、常に変わらぬ忍耐、努力に、感謝しながら…。

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2016年11月26日 | カテゴリー :