splanknizomai・心打たれた話

田口くんの受洗

DSC03970 「あなたは洗礼を望みますか?」「望みます」。

はっきりとした、感動で少し震えているような声で・・。よかった。間に合って・・。

田口くんの奥さんからわたしの友人を介して、相談があったのは二日前のことだ。「昏睡状態から意識を回復した主人が『洗礼を受けたい』と言っています。私も信者でないのでどうしたらいいか分からない。助けてください」。

田口くんは上智大学で学び、社会人となった後も私たちが創刊し半世紀続いている大学新聞のOBとして様々な催しに協力してくれていたが、洗礼は受けていない。だが、いまわの際に最後の望みとして持ち出されたことに答えないわけにはいかない。いざとなれば、司祭でなく、小生でも洗礼をさずけることは可能だが、意識がはっきりしている本人が受洗の喜びを得ることができるか確信がない。

そこで、親しくしている司祭数人に連絡を取ったが、「明日から研修なので」などの理由で断られ、「教会にも行っていない、洗礼の意味も分からない相手に、洗礼をさずけたくない。君がやればいい」と拒否する司祭さえいた。ちょうど前日の主日の福音(ルカ十章)に登場する強盗に襲われて瀕死の旅人を避けて通った祭司やレビ人が重なったが、十時間にわたる手術のあと1か月も入院し、ともかく生還した我が身としては、田口くんの心情は察するに余りある。とてもこのままにしてはおけない。

困り果てて、ご自分は研修会の指導で時間が取れないという某司教に紹介していただき、以前から知り合いの東京教区のキーパーソンの一人である某司祭に事情を話すと、「分かりました。協力しますが、まず、意識があるなら、直接、本人に受洗の意思があるか、奥さまや兄弟姉妹もそれを望まれるのか、確認してください。勝手な思い込みで洗礼をさずけ、あとで親族の間で問題になることがあるので」と言われ、相談を受けた翌日、小康状態を続けている病室に出向き、はっきりとした言葉ではなかったが、本人も、奥さまとお姉さんも確かに望んでいることを確認した。先の司祭に報告をしたところ、ちょうど病院のそばの教会で翌朝ミサを捧げる予定の若い司祭がおられ、「喜んでいたします」という返事をいただくことに成功した。

洗礼は、病院の彼の個室で、奥さま、お姉さま、そして新聞のOB会の仲間4人が立ち会い、小生が代父を務めて行われた。わずかな時間だったが、司祭の心からの祈り、言葉からキリストの愛があふれる、内容の濃いものだった。受洗の意思を問う司祭に対して、田口くんは皆が驚くような、はっきりとした声で答え、水をかけられ、油を塗られる間も、喜びをかみしめるように何度も頷き、感動で胸が波打っているのが分かった・・。

たしかに、臨終の受洗を希望したら無条件に応じるのはどうか、という司祭の気持ちもまったく分からないではない。だが、司祭には、教皇フランシスコが何度も言われているように、相手が本当に、何を求めているか、キリストの愛を込めた「識別」する意思と能力が求められているのだと思うのだが、どうだろうか。(S.A.N.)

splanknizomai(スプランクニゾマイ)とは・・ギリシア語で「スプランクナ=内蔵、はらわた」という名詞に動詞の語尾をつけたもので、新約聖書では、ルカ福音書7章11節以降(「やもめの息子を生き返らせる」)など、キリストが悩み、苦しんでいる人に出会った時の心の動きを表現する形で、出てきます。新共同訳では、このギリシャ語を「憐れに思い」と訳されていますが、もとのギリシャ語の動詞は、そのように上から目線のいたわりの気持ちではなく、相手と同じ目線で、その人のありさまを見て、自分のはらわたが揺さぶられるほどの気持ちを抱く、という意味なのです。このコラムでは、皆さんのそうした気持ちをお持ちになった、共感を呼ぶような体験を募集しています。・・編集者より

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2016年8月1日