・Sr.石野の思い出あれこれ⑧ 病臥の母に挨拶して家を出る-歩いて修道院へ

 行くべき道は決まった。行き着くところは? 聖パウロ女子修道会。出版物によって布教(今は宣教と言うが、当時は布教と言った)する修道会ということは何回も聞いていた。だけど、詳しいことは何も知らなかった。修道会に入ってから勉強をしていろいろなことを知った。

 この修道会は、1915年8月6日、聖パウロ会の司祭、福者ヤコブ・アルベリオーネ神父によって、北イタアのピエモンテ州にある小さな町アルバに創立された。それより一年前に既に創立されていた男子の聖パウロ修道会の傍らにあって、出版活動によってすべての人にキリストのメッセージを伝えることを目的として設立された女子修道会である。

 当時、出版物は悪い思想を普及する手段として、教会はこれを危険視し、読んではいけない本のリスト、禁書目録まで発行していた。アルベリオーネ神父は考えた。「悪を広げるための手段」を「善を普及する手段」に変えようと、修道会の設立にあたった。

 40年近く経った1950年代初頭、教皇庁は聖パウロ修道会と聖パウロ女子修道会を「出版、映画、ラジオ、テレビ、および人類の進歩が提供し、時代の状況と必要が求める、より迅速で効果的な手段を用いて使徒職活動をおこなうこと」を目的とする修道会と認め、最終認可を与えた。

 修道会創設から100年以上の月日が流れた。この間に印刷物による布教活動に始まった修道会の活動は、世界の変化や、技術の進歩に伴い、コンピュータ、インターネット、スマートフォンなど新しい手段を次々と取り入れ、活動分野を広げている。しかし創立当初の精神と理念は変わることなく、今も会員たちは、神から与えられた道をしっかりと歩み続けている。

 貧しさのうちに誕生した修道会は成長し、イタリア全土はもとより外国にも活動の場を広げていった。1948年8月6日、イタリアから最初に日本に送られた三人の修道女が横浜港の地を踏んだ。そして、翌年の1949年10月7日。ロザリオの聖母の祝日が、わたしの修道会入会の日と決められた。喜びと不安、希望と心配が入り混じる心でわたしはその日を迎えた。準備は万端整った。

 友人たちが修道院まで見送ると言って幾人か我が家に集まった。わたしは緊張していた。相変わらず母は病臥していた。その枕元に行って挨拶をしなければならない。思っただけでも胸が詰まる。勇気を出して母の側に行き座って母の顔を見ながら「お母さん行きます」とわたしは挨拶した。行ったら帰らない覚悟だったから、「行ってきます」とは言わなかった。

 黙ってうなずいた母の目にうっすらと涙が浮かんだ。わたしの目にはさらに大きな涙があふれ出た。急いでトイレに駆け込み思いっきり泣いてから、腫れた目のまま、わたしは友達が待っている庭に出た。友達がそれぞれ荷物を持ってくれた。そして父がお布団を一組、自転車の後ろの荷台に縛り付けて、わたしたちと一緒に歩いてくれた。

 当時はマイカーなんてなかった。修道院まではゆっくり歩いても50分。午後3時過ぎ、わたしは入会志願者として、聖パウロ女子修道会の敷居をまたいだ。わたしの心にはこれからの生活に対する大きな希望と、去りゆく父や友の姿を見ながらの寂しい気持ちとが混在した。

 家族や友人が去り、シスターたちとだけ残ったわたしの心は緊張よりも、うっすらした喜びと安心感に満たされた。今日からここがわたしの家。ここでわたしはすべてを神様のために捧げる。そんな思いで満たされた。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

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2019年2月28日