・Sr.石野の思いであれこれ ⑮シスターになって…長い修道服…公会議で大変化!

 着衣してから一夜が明けた。着衣したからと言って急に生活が変わるわけではない。外見は一人前、中身は半人前のシスターとして心機一転して、今までの生活の延長線上で、長い修道服を身に着けての生活が繰り広げられていく…

 朝は早くから目が覚めて、起床時間を告げる鐘の音が聞こえるのが待ち遠しかった。修道院ではクリスチャン・ネームで互いに呼び合う。着衣をし、シスターの卵になると、名前の前に「シスター」が付く。だから名前も「マリア・アヌンチアタ」から「シスター・マリア・アヌンチアタ」に変わった。

 当時、シスターのことを日本語では「童貞さま」と呼んでいた。着衣したての頃、「童貞さま、童貞さま」と誰かが呼ぶので、あたりを見回すと、誰もいない。実は私が呼ばれていたのだ、と気づいたことも何回かあった。

 どんなに頑張っても、着衣したての頃は、長い洋服の裾が足に絡む。普通に歩くときはまだよいが、階段の昇り降りが難しい。昇るときは、両手で服の前の方をちょっと持ち上げ、裾を踏まないようにする。階段を降りるときは、後ろの方をつまんで、洋服の裾が階段をこすらないようにする。はじめのうちは階段を昇るときに後ろをつまんだり、降りるときに前を持ち上げたり、なかなかスムーズに行かなかった。

 でも、毎日のこととて、やがて上手にさばけるようになった。修道院の中でも外でも常時、黒くて長い修道服を身に着けていた。真夏でも黒くて長い服を着ていた。今思うと、真夏に黒くて長い服を身に着け、町を行く私たちの姿は、異様に見えただろうと思う。「神様のためなら、暑くないんだな!」と、聞こえよがしに私たちのそばで言った若者がいたのを、今も思い出す。

 暑かった、すごく暑かった。夏は白っぽくて薄手の生地の服の方がいいのに、何度も思った。でも会の規則だから・・・そう思い直すよりほかに、道はなかった。

 ところが変わった。全く変わった。洋服だけではない、多くのことが変わった… 1962年から1965年にかけてバチカンで開かれた第二バチカン公会議のおかげで、たくさんのことが変わったのだった。

 ( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年10月1日