・Sr.岡のマリアの風㊲新年の独り言「今年もよろしくね!」

 「今年も、シスターの、聖霊の『あきらめ』に期待しています!」… 「は~っ?」少し経って…「ごめんなさい、間違えました。聖霊の『ひらめき』です!」ー新年早々、ポーランドのシスターとのやりとり。

 「あきらめ」と言えば、先日、一か月に一回の修道院会議で、韓国のシスターが「みなさん、『聖なるあきらめ』という言葉があります。この言葉を覚えましょう」と言っていた。

 日本人にとって「あきらめ」という言葉の響きは、何となくネガティブ、「静止状態」「後退」「無関心」…を連想する。でも、「聖なるあきらめ」(誰が言ったか知らないけれど)という言葉を聞いたとき、それはわたしにとって、とても新鮮で印象的だった。

 「わたしは、(または、この人、あの人は)ど~せ変わらない」という、ネガティブな「あきらめ」ではなく、「わたしも(または、この人、あの人も)一人ひとり、いただいた性格、キャラは、その人なりのユニークさであり、大切なもの。それは、変えなくてもいいし、変えようとしてはいけない」という、ポジティブな(?)「あきらめ」。

 この「聖なるあきらめ」を土台にすると、パパ・フランシスコが繰り返し言うところの、「わたしのエゴ」中心ではなく、「あなた(神)」、「あなた(他の人々)」中心、「あなた」の理屈、やり方に耳を傾け、理解しようとする態度(わたしの理屈、やり方が、当然正しい、というのではなく)が生まれるのだろう。

 一つの修道院に、さまざまな国籍のシスターたち。同じ日本人でも、育ってきた背景のまったく違うシスターたち。誤解もある、でも、豊かさも。だから、面白い。

 1月1日の朝食の最後に、みなで「一月一日」と「一寸法師」の歌を、大声で歌った。なぜ「一寸法師」かというと、昨年、「一月一日」の歌の楽譜に、その歌詞が載っていて、「なんで、それも歌わないの~?」ということになり、ついでに踊りも入って、楽しかったから。

 パパ・フランシスコは、「サプライズの神」という表現を好む。神さまが「サプライズ」なのだから、神さまを中心に集まって共に生きている、この共同体もまた、「サプライズ」の連続。

 こうやって、共同体の中で、「わたしのやり方」「わたしの好み」の「型」から「解放され」、少しずつ、神の子どもとして、自由になっていくのだろう。

 2019年、一人ひとりのシスターへの、最初の一言、最初の思いが、悪口ではなくて、良い言葉になりますように!

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 殆ど「初夢」は覚えていたことがないが、今年の一月一日の朝(たぶん)見た夢は、強烈だった。

 海外出張で、カバンをどこかに忘れ、パスポートもお金もなく、滞在していた家にバスに乗ろうとしたら、何番のバスに乗ったらいいのか、どこで降りたらいいのかも分からない。まったく「陸の孤島」で、どうしていいのか分からない状態…で、目が覚めた。

 「恐れることはない。何を心配しているのか。あなたは小さく、足りないところばかり、分からないことばかりなのだから、わたしにすべてを委ね、信頼しなさい」という、神さまの「新年のメッセージ」のように感じた。(それでも、「正夢」でないことを願っているけれど…「海外+パスポート無し+お金無し」という経験は、さすがのわたしでも、まだ、ないし…)。

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 聖書学のS神父が、イエスの「放蕩息子のたとえ」についての講話の中で、他の人の「成功」を、自分のことのように喜ぶことが、いかに難しいか、という話をしてくださった。特に、過去に「わたしも」同じことを一生懸命したのに、誰も目に留めてくれなかった、という状況で。

 「あの人」は、わたしと同じことをして、あんなに誉めてもらった。みんなが感謝している。わたしは、誰からも誉めてもらえず、感謝もされなかったのに。

 こういう時、「道」は二つある。

 (1)「わたし」は認めてもらえなかったのに、なんで「あの人」が認められるのか。「ずるい」「不公平」…。

 (2)「わたし」は認めてもらえなかったけれど、「あの人」は認めてもらえた。「うれしい」「感謝」…。

 放蕩息子のお父さん(神さま)は、祝宴まで開いて、とことん喜ぶのだから、すごい。この「天のお父さん」のようになるように、と、キリストに従うわたしたちは招かれている。

 イエス・マリア・ヨセフ、2019年、不足ばかりの貧しいわたしを、助けてください。あなたの「心の広さ」、「真の喜び」を、わたしが体験し、わたし自身がそれを生き、人々に運ぶことが出来ますように!アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2019年1月1日