・Sr.岡のマリアの風 ㊸「福音宣教のための特別月間」の初めに-教皇の荘厳の挽歌で面白いことが…

 教皇フランシスコは10月、「福音宣教の特別月間」を、聖ペトロ大聖堂での荘厳な晩課をもって始めた。ここでも、おもしろいことが起こった(と私は思う)。

 普通、「宣教」をテーマに聖書の箇所を選ぶとすれば、イエスが弟子たちを派遣するところとか、聖霊降臨の場面とか…ではないか。でも、パパ・フランシスコは、マタイ25章14-30節、(まさに「十人のおとめのたとえ話」のすぐ後)、「タラントンのたとえ話」を選んだ。

 パパが言いたかったことの一つは(と私は勝手に思うのだが)、「宣教」とは、「わたしが福音を宣べ伝える」ということの前に、「ミッション」、つまり「派遣」、遣わされることであり、主人公は「わたし」ではなく、わたしを遣わす方である、ということだろう。

 わたしは、「遣わされる」のであれば、わたしを遣わす方の思いを、わたしの思いとすればするほど、それは実りをもたらすことになる。しかし…ここで注意!…、それは、わたしが望む」実りではなく、わたしを遣わす方の望む実り。そして、ひじょうにしばしば、わたしの思いと、わたしを遣わす方の思いは、根本から異なる。

 パパはまた、先日、ジャーナリストたちに、「キリスト者」とは(キリストの)「証し人」である、と明言している。(わたしたちが、「当たり前」と思って、わざわざ口にしないで済ませてしまうことを、はっきりと言って、「あなたは、本当にそれが分かっていますか?」と問いかけるのが、パパのスタイルだ)。

 「証し人」であるとしたら、わたしたち自身を宣伝するのではなく、この世において、キリストの「顔」(表情)を表す者となる、ということだ。キリストの「顔」がもっとも現れるのは、いわゆる「真福ハ端」の中。つまり、骨の折れる、ひじょうにしばしば、人間の本能的反応に逆流する生き方においてである。

 だから…と、パパは続ける、キリスト者であることは、楽ではない。わたしたちはいつも「少数」。なぜなら、わたしたちが求めているものと、この世の「大多数」が追い求めているもの(権力、富、快楽…)はまったく違うから。

 そうなると、問題なのは、「数」が少ないことではなく、わたしたちキリスト者が、少数でも、小さくても、この世において「パン種」、「地の塩」となっているかどうかである。パパは言う。

 わたしたちは少数です[…]。パン種のように少数、塩のように少数:これが、キリスト者の召命です!少数であることを恥ずかしがる必要はありません。[…]泣き言とあきらめは、キリスト者の精神ではありません。[…]恐れないでください。わたしたちは少数ですか?そうです、でも「宣教するmissionare」望み、人々にわたしたちが誰であるかを見せる望みとともに。証しをもって。もう一度、聖フランシスコが、兄弟たちを宣教に派遣するときに言った、あの言葉を繰り返します:「福音を宣べ伝えなさい、そしてもし必要なら、言葉でも」。つまり、最初に来るのは、証しです。(広報省総会の参加者たちへの講話、2019年9月23日)[試訳]。

 教会にいのちを与えるのは「教義の管理者」ではなく、証し人、特に「殉教者たち」である。パパは続ける。

 [わたしは]もうすぐ枢機卿になる[リトアニアの]名誉大司教を思い起こします。彼は、何年間、牢屋にいましたか?証しをもって、彼はひじょうに多くの善いことをしました!苦しみをもって…教会にいのちを与えるのは、わたしたちの殉教者たちです:わたしたちの芸術家たちでも、わたしたちの偉大な説教師たちでも、「真の完全な教え」の管理人たちでもなく…違います、殉教者たちです。殉教者たちの教会。そして、伝えるとは、このことです:わたしたちが持っている偉大な富を伝えること。

 パパ・フランシスコの中で、「宣教する」-「遣わされる」-とは、何かわたしたちの「外に」あるものを伝えることではなく、わたしたちが「すでに」、わたしたちの中にいただいた「賜物」、恵みを、「起動させる、動かす(activate)」ことだろう。

 だから、先ず「祈り」。祈りの中でわたしたちは、今いる場所で、今そばにいる人とともに、いただいた賜物をどう起動させたらよいのか教えてください、それを実現する勇気と力をください、と願い求める。だから、「すべてのキリスト者が」-病院のベッドにいる人も-派遣されている。聖霊は、わたしたち一人ひとりが、ユニークな方法で自分の派遣を生きるよう、導いてくださる。

 以下、ひじょうにパパ・フランシスコらしい表現を、そのまま。(宣教の月の始めに。晩課、2019年10月1日)

 誰も、教会の宣教から除外されて[いません]。そうです、この月、主はあなたをも呼んでいます。家庭のお父さん、お母さん、あなたを呼んでいます。偉大なことを夢見ている若いあなた、あなたを呼んでいます。工場で、店で、銀行で、レストランで働いているあなたを呼んでいます。病院のベッドの上にいるあなたを呼んでいます…

 主は、あなたが今いるところで、あなたのそばにいる人とともに、あなた自身を賜物にすることを求めています:あなたが命(人生)を我慢するのではなく、それを与えること
を;あなたが自分の上に屈み込むのでなく、苦しんでいる人の涙によって掘られるに任せることを求めています。勇気を出しなさい。

 主はあなたに多くを期待しています。主は、また、誰かが「出発する」勇気を持つことを期待しています。誰かが、希望と尊厳が、最も欠けている所に、ひじょうに多くの人々が、まだ福音の喜びなしに生きている所に行くことを期待しています。

 「でも…わたしは一人で行かなければならないのですか?」。いいえ、それはうまく行きません。もしわたしたちが、宣教(ミッション)を、事業計画とともに企業的組織をもって行うことだと考えているなら、それはうまく行きません。宣教の主人公は聖霊です。聖霊が、宣教の主人公です。あなたは聖霊とともに行くのです。

 行きなさい、主はあなたを一人っきりにはしません:あなたは、証しをしながら、聖霊があなたよりも先に来ていたことを発見するでしょう。あなたのために道を準備するた
めに。兄弟姉妹たち、勇気を出しなさい。母である教会よ、勇気を出しなさい。宣教の(派遣される)喜びの中に、あなたの実りを再発見してください!

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 神の偉大なわざの「場」となるのは、小さい者たちのこころ-粘り強く、あきらめず、信じ、希望し続ける者たち、次世代の善のために、一緒に、具体的に動き出す者たちのこころだろう。 アーメン

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2019年10月2日