・Sr.岡のマリアの風 ㉗「危険を冒してください!」-中国出張を前に-

(独り言)「危険を冒してください!」-中国出張を前に-

Jさま、

 久しぶりのメール、うれしかった。ありがとうございます!

 実は、この週末、院長会議のすぐ後、中国(太原)出張のため出発することになり、バタバタしています。

 相手側、中国からのメールは…

 「ちょっと寒め」「だけど、すごくは寒くない」

 「(修道服ではなくて)私服を着て来てください」

 「空港のパスポートコントロールで、たぶん、大丈夫だと(中国に入れてくれると)思うけど」…

  パパ・フランシスコが、「若者たち」に、たびたび言っていますね。「恐れないで!」「Rischiate!(危険を冒してください!)」、その理由は、単純に、「キリスト者(キリストに従う者)なのだから」、と。

 そして、パパの思いの中では、ぬくぬくと自分の快適な場所に留まらず、「やっぱり、おかしい」、「とにかく、何かしよう」…と、「出て行く」人こそ、「若者」なのですね。年齢に関係なく。

 この、イエス・キリストの名のために、「危険を冒してください!」という呼びかけは、まさに、今のわたしに向けた、タイミングのよい声のように響きます。

 どういうことになるのか、まったく未知…。そういう旅、20代前後のころ、よく、しました。(わたしが修道院に入った時、これで娘も、少なくとも「住所の分かる場所」に落ち着くだろうと、父がほっとしたくらいです…)。

 わたしたちのパパ・フランシスコは、最近では、南イタリアのバリに(2018年4月20日)、チリとペルーに(2018年1月15日~22日)、昨年末、ミャンマー・バングラデシュに(2017年11月26日~12月2日)、コロンビアに(9月6日~11日)、ファティマに(5月12日~13日)、エジプトに(4月28日~29日)、「出て行って」いますね。まさに彼自身、言っているように、「貧しい一巡礼者として」、主がその地に、その民に託した「富」-文化の中に具体化した信仰の宝-に感謝し、祝い、学ぶために。

 それぞれの地で、パパは、さまざまな人々と出会い、共に主に感謝し、主が約束した希望のうちに、信仰にしっかり留まるよう励まし…。

 そんな、パパの姿、わざ、言葉に、日々触れながら、そして、同じように生きた数えきれない先輩たちの姿を思い巡らしながら、自問します。

 わたしは今、自分の修道院で、自分の部屋で、「キリストの熱い思い」に突き動かされ、「危険を冒して」、つねに「出て行って」いるだろうか。

 これは何も、物理的に外に出て行く、ということだけではありませんね。

 パパが再三言うように、「いつもこうだったから」「どうせ変わらないのだから」「するだけ無駄だから」…という、「キリストに似る者になる」歩みを弱らせ、「中和」させる、狡猾な「敵」と闘うために、危険を冒しているか、ということですね。

 「やっぱり違うと思う、もっと良くなると思う…」。

 「え~っ、その年で、まだそんな夢みたいなこと言ってるの?」

 「でも、今、わたしたちが動かなければ、一歩踏み出さなければ、次の世代の人たちはどうなるの?」

 「そんなこと言ったって、ど~せ反対されるよ。わたしたちだけ頑張ったって無理だし…」

 「パパ・フランシスコは、聖パウロの言葉をかりて、言いました。わたしたちを強めてくださる方-キリスト-と共にするなら、わたしたちはいつも勝利するって」

 「う~ん、でも、それって『現実的』じゃないよね~」

 「洗礼を受けたとき、わたしたちの中に、復活のキリストの力、聖霊が入って来たのだから、その力に信頼して一歩を踏み出してください、って、パパは言っているし…」

 「でも、聖霊って目に見えないし…本当に、ここで働いているのかな~」

 「いや、聖霊は、目に『見えます』…わたしたちが望みさえすれば…。わたしたちが思ってもみなかった、もっとも小さく、貧しいしるしの中に…。パパは言ってます、わたしたちの神は、『サプライズの神』だって」。…

 …と、こんなやりとりが、自分の中でも、人々との話の中でも、会議の中でも、あります。

 主を「安全地帯」に引き戻そうとしたペトロは、主から、「サタンよ、引き下がれ!」と叱られましたね。「ペトロって、しょうがないね~」と、わたしたちは簡単に言うけれど、でも実は、あのペトロの「もっともな理屈」は、わたしたちが、しょっちゅう使っている「理屈」ですね。

 主が、エルサレムに向かって、十字架に向かって進むのを、妨げようとする「もっともな理屈」。

 そして、もし、主がエルサレムに行かなかったら、十字架に向かって進まなければ、わたしたちは、今も、罪の闇の中、脱出するすべも知らずに…。

 なんと度々、わたしたちの「もっともな理屈」は、神の思い、「すべての人々の救い」のための思いに、反対するのでしょう!

 古代の教父たちは言いました。このような「闘い」の中で、「神の母」のマントのもとに駆け寄り、神の母マリアから、「主を真ん中に置く」ことを学びましょう、と。

 わたしたちのいのちの中心にいる主は、そこに「いる」のだけれど、神秘の中に留まります。わたしたちのただ中に、確かにいるのだけれど、でも同時に、わたしたちの思いを超える神秘でもあります。

 わたしたちが、何か、栄光に満ちた権力、光り輝く正義、悪者を打倒す勝利の王…というイメージで、この世に、周りに、キリストのしるしを探し求めるなら、簡単に、悪魔の罠に引っかかりますね。悪魔は、いつも言います、「そうそう、あなたの言うことはもっともだ。あなたは悪くない、あの人が、この状況が悪い。頑張ったって無駄。どうせ理解してもらえないのだから…」。

 神の母のマントのもとに逃れて、わたしたちはどうするのか?

 まず、わたし自身が、真に貧しく弱い者であることを、素直に認め受け入れることを学びます。わたしたちの力で、悪魔と闘うことなど出来ないことを、はっきりと悟ります。そして、そこから出発します。もう一度、キリストを中心に置いて、再出発します。キリストに従う、貧しく、小さな道を。主とともに、すべての人々の救いのために、十字架に向かう道を。マリアとともに、「母の愛」に内奥から突き動かされて、主に従う道を。

 神の母のマントのもとに逃れて、わたしたちは叫びます。「神の母よ、悪魔の誘惑は、とても巧妙で、執拗で、わたしの能力(知力、体力、気力)以上のものです。わたしは弱く貧しい、あなたの子です。どうか、急いで助けに、救いに来てください!主の望みが、主のことばが、主のわざが、わたしの中で行われますように!」

 そうやって、神の民は、ずっと、荒波、嵐の中を進んできました。神の母マリアを、荒れ狂う海の中の「はこぶね」、目的地を示すために空に輝く「星」と呼びながら。

 でも…話は元に戻って…初めての中国行き。神の母よ、あなたのためです。主のお望みが、主のお望みだけが行われますように、わたしを助けてください!思うとおりに行かないとき、まさにそのただなかに、主がおられることを見分ける知恵をください!そして、あきらめることなく、前を歩く主の足元だけを見つめて、一歩一歩、前に進む力をください!その、一歩一歩の先にあるものも、どこにたどり着くかも、それさえも、主に委ねることが出来るようにしてください!

アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2018年4月27日 | カテゴリー :