・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」㉒「 終息宣言」の陰で

 スイス・ジュネーブの町は涼しい。とりわけ、その高台にある世界保健機関(WHO) の本部は、美しい森の中にあるたたずまいだ。しかし最近の約3か月間、ここで働くメディカル・オフィサーたちの目は、遠くヨーロッパの外に向けられていたに違いない。

 7月24日、ようやくの終息宣言にほっと息をついた。数年前の 「悪夢の再来」を懸念させるように拡大したアフリカのエボラ出血熱のことだ。

   WHOは今年5月8日、アフリカ中部のコンゴ民主共和国(旧ザイール)で、エボラ出血熱の感染を確認したと発表した。7月9日までに 人がエボラウイルスに感染し、このうち疑い例も含めると29人が死亡。致死率は実に76%に達している。

 2014年から16年にかけて、アフリカが史上最悪とされるエボラ感染を経験したのは記憶に新しい。前回のアウトブレイク(集団発生)では、ギニア、リベリア、シエラレオネの西アフリカを中心に約2万8000人が感染し、約1万1100人が死亡した。同じ時期、コンゴ民主共和国でも66人が感染し、少なくとも49人が死亡したと報告されている。同国に限って見れば、今回の感染拡大は前回と同じ規模の被害に迫りかねないものだった。

 とりわけ今年のエボラ感染では、都市部でウイルス被害が広がっている事実が早くから報告され、WHO が警戒を強めた経緯がある。

 エボラへの感染は、同ウイルスに感染したサルやコウモリ、ヤマアラシなどの野生動物やその死骸にヒトが触れるところから始まると見られている。つまり、初期段階のヒトへの感染は、森の周辺で発生する。過去に感染が確認されたケースでも、患者の発生が辺境の村落にとどまった事例も多い。

  WHOによると、今回も当初は、都市部から150キロ以上離れた森林地帯に患者が限定されていた。ところが発生確認から1週間もたたない5月中旬、感染疑いの患者が同国北西部の主要都市ムバンダカで隔離される事態となった。

 ムバンダカは、首都キンシャサと結ばれる空港を持ち、約120万人が住む大都市だ。感染拡大の不安が一気に広がったものの、 WHOや医療援助団体などの尽力で 開発中のワクチンを住民ら3300人以上に接種し ギリギリのところで食い止められた。

 今回のエボラ感染では、医療関係者の間で懸念された点がもうひとつある。それは、アメリカ・トランプ政権のスタンスだ。今回のエボラ感染例が発表されたのと同じ5月8日、トランプ大統領は議会に対し、政府事業の見直しや予算削減を盛り込んだ法案を提出した。その中には、前回の被害を受けて創設されたエボラウイルス感染対策用の基金2億5200万ドルをそっくり削減することも盛り込まれていた。

 基金は、アフリカ諸国に米兵を派遣する態勢を維持したり、ワクチン開発や感染防御対策を進めたりするための貴重な財源だった。削減の意図は明らかにされていないが、「アメリカ・ファースト」の一貫であると指摘されている感染症のアウトブレイクは、世界のどこで、いつ起こるか分からない。今回のエボラ感染は、トランプ大統領の見識の欠如が最悪のタイミングで露呈する寸前だったとも言えるだろう。

 「次」が今回と同じ程度で収まるとは誰にも保証できない。あの涼しいジュネーブでWHO本部の仕事をいっときお手伝いした経験を思い起こし、震える思いでいる。

 (みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が、7月12日に文庫化されました クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中)

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2018年7月26日 | カテゴリー :