・Sr.石野の思い出あれこれ⑥シスターになるか、ならないか-逡巡する心

 私はまだ18歳だった。私の人生はこれから。結婚についてはほとんど考えていなかったが、子供が好きで、好きで、小学校に入った時からいつも「小学校の先生になりたい」という強い希望を持っていた。

 その夢は大きかった。祖父が小学校の先生や校長をしていたので、そのDNAがあったのかもしれない。シスターの洗脳よろしく少しずつ修道生活について考え始めた時、「子供を扱う修道会なら、私の希望も実現できるかもしれない」と考えるようになった。

 でも、それは心の底に秘めてシスターには公言せず、いつも否定していた。ある日、私はシスターに言った。「シスターになるために、私はまだ若すぎます。まだしたいこともありますし、学びたいこともたくさんあります」と。

 するとシスターは答えた「あなたはまだ若い。花にたとえればまだ蕾です。その蕾をイエス様に差し上げたいと思いませんか?開ききったお花をイエス様に差し上げるより、蕾をさしあげて、イエス様の前で美しく開いた方がよいと思いませんか?」。

 「うーん」。心の中で唸って表面はにこにこしていた。言われてみれば確かにそう、でも、私はたとえ蕾でも、イエス様に差し上げるには早すぎる。表面は普通にしていたが、かなり衝撃を受けた。そこまでは考えてみなかった。

 でも確かに枯れかかった花をイエス様に差し上げるよりは、蕾を差し上げて、それが花開くのを見る方がずっと良い。洗礼の時のシスターにしても、どのシスターも名答をもっているものだ。

 私から笑いは消えた。片言英会話も笑いを提供してはくれなかった。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

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2018年12月31日