・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」(7)ハーフェズの宗教観と人生観は 

 ペルシャ詩の世界に輝く2大巨星、その一人ハーフェズが生きた時代と社会、それを背景としたハーフェズの生きざまを概観したあとは、その宗教観および人生観である。

 ハーフェズは、イスラームの聖典(神の言葉といわれる)コーランをすべて暗唱していた。また当時の教養をすべからく身に付けた一級の知識人であったが、イスラーム神秘主義の道を人に説き導くというよりも、自ら実践し、その苦悩と喜びさらには怒りを詩的に表現し、そのことで社会に大きな影響を与えた。

 ハーフェズの宗教思想は、当時の社会の主流であったマラーマティエ派と言われる、自虐的な修行で知られる宗派の考え方であり、イスラーム神秘主義の実践・修行を通じて、神への愛(完全な人生)を成就しようとする。しかし、現実には自己滅却を図り神を愛しぬくことは容易ではなく、神は捉えたかと思えば、また逃げられることの繰り返しである。

 自己滅却し神と融合することは持続できず、むしろ苦しみ(苦痛)の連続であるが、それが生きることである以上やめるわけにはいかない。

 哲学、なかんずくイスラーム哲学の大家、故井筒先生の著作からの受け売りであるが、イスラーム神秘主義においては、イスラームにおける基本的信条、すなわち神の唯一性を実現するためには、神の被造物である人間は自己を捨て神と一体にならなければならず、自己滅却して神との融合(愛)を果たしたうえで、再び現世に帰還し、生を営むことになる。人間が自己を主張する限り、すなわち自我を捨てない限り、神と人間が併存することになり、神の唯一性に反する。神との融合を果たした人間は、引き続き現世での生活を続けるが、それはもはや従前とは異なり完全な人生の営みとなる。

 ただし、神への恋の実践は命がけである。

 「(神の)愛を手に入れるために自由にふるまうことは 最初は簡単に見えた最後は自分の魂は燃え尽きた この徳を手にする道において」

 「痛み この苦痛はいかなる説明も描写もできない」

 ここで、「自由にふるまう」と訳したのは、Rendという単語である。昔も今も、ペルシャ語で悪漢という意味である。ハーフェズは詩人として、この言葉に特別の意味を付与している。すなわち、神の愛の実現という目的(道)のためには、人目や世間体を気にせずに、何ものにもとらわれず自由・傍若無人にふるまう、という良い意味で使っている。先にも後にも、ハーフェズのみの用語である。

 本コラムでこれまでも紹介してきたハーフェズのいくつかの詩句は、実は、神への愛を実現することのむつかしさ、厳しさをうたったものである。

 「突然 虚無の大岩が すべての夢を木っ端みじんにした」とは、神と合一できたと思っていたら(愛の成就)、あにはからんや、次の瞬間には、奈落の底に突き落とされるように夢も希望も粉々に。この詩句は、ハーフェズが愛した息子を突然失った時のものである。神と合一できた時は至福の瞬間、しかしそれは続かず、一瞬にして破局が訪れる。したがって、神の道には終わりはないことになる。

 「道は恋の道 終わりはない 命をささげるほかに 途はない」

 神への恋の道に真剣に苦闘する中で、同じ道に修行するものの多くが、陰で自分の欲得にふける姿には何とも我慢がならず、さりとて深く社会に根差した偽善や欺瞞、不正は正しようがない。

 「ハーフェズよ 偽善を解決する望みはない なぜなら運命がそうであり いかんともしがたい」

 「忘れはしない 自分は裏庭に住み(真摯に道に励む) (神に)酔うていた(自己滅却) 今自分のいるモスクにないものが そこにはあった」

 後者はいささか説明が必要であろう。昔はよかった風の回顧主義とも見えなくないが、モスク、すなわちイスラームの学舎にはびこる悪徳、偽善を強く感じての感慨を読んだものである。本来、神を求めて、自己滅却を目指す導師や修行者が、徳を説き修行に励む傍ら、自己の欲望にふけるさまを糾弾するとともに、嘆いたものである。

 ハーフェズにとり欺瞞・不正は運命としても、それにたいする不満や怒りは詩的な表現をとって噴出する。

 「美しき娘よ 公正の酒壺から葡萄酒を小さな杯に分けてくれ 乞食(真摯に道に励む者)が 世界をひっくり返さないように」

 この詩句の解説は次回に譲る。

(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)(駒野欽一=国際大学特任教授、元イラン大使)

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