・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑨ハーフェズ-生き方・想いが限られた詩の中に凝縮 

 筆者の外交官生活で3度目の勤務であり、最後の任地ともなるイランで、ペルシャの詩にとうとう出会うことになり、それ以降、特に退職後の生き方に大きな影響を受けることになる顛末は記した。ペルシャの大詩人の一人、ハーフェズの詩句のいくつかをこれまで、その生きた背景や生き様とともに紹介してきた。

 ハーフェズは、神への愛の道を求める中での至福と苦痛、社会の欺瞞と不正への怒りを原動力として詩的創造活動を続けた。モンゴル侵入後の不安定な社会、権力者の庇護を得られたり、得られなかったり、安定しない自らの生活の中で、詩的創造は、自己主張のよりどころであり、また慰みでもあったであろう。

 今回はその点を見てみる。
「短くはできない ハーフェズの話は長いから」と自ら歌っているのは、その作品がガザルという短形式の詩500編前後に集約されていることから見れば奇異にも思えるが、同時にその生き方・想いが、限られた詩の中に凝縮されているとみることができよう。

 具体的には、「(汝を求めて苦しむ)我 その目は充血し涙でいっぱい それを通して 我は 想いの世界に(汝を)描く(詩)」(カッコ内は訳者註)、
神の愛を成就しようとする修行の人生は茨の道、得られぬ苦しみは充血した目からあふれる真っ赤な涙となって流れる。真っ赤な涙のあふれる目を通して、ハーフェズはその体験を同じく色鮮やかな筆致で詩の世界に展開する。詩人の基本的姿勢である。

 また、「朝のそよ風は すべてのばらの花弁を 優しく水(露)で洗う書物にかじりついていれば 心が曲がっていると言われてもしょうがない 我にとり(修業の苦しみで流す)涙こそ ダイヤでありサファイヤであり宝物 天空の太陽に 幸運をすがるなど しはしない」

 詩人の自然を見る目は鋭い。シラーズは今でもバラで有名であり、神を求めて寝られず朝までバラ園で過ごした詩人が、露に濡れた花弁を朝の風がさっと洗い流す光景にふと安らぎを覚える。それは神が描き出した自然の光景と思えたのであろう。書物にかじりついて神学に思惟をめぐらすなど、まったく野暮でしかない。

 しかし、それは確かに一瞬の安らぎではあるが、修行の苦しみははるかに大きく、血の涙こそが詩人にとっての宝もの(ダイヤもサファイヤも血の涙と同じ真っ赤な色)。自分は天空に願を懸け、運に頼ってこの世の栄達を願うなどしない、と歌うのは負け惜しみともとれるが、それはまた、詩人の自負・誇りでもあった。

 「葡萄酒のおかげで育まれる想いは 自然が自分らしく巧みに飾るようバラの花のうちに バラ水がひそかに育まれるように 葡萄酒は、神との融合により得られる陶酔感を表象するもの、自然の巧みさも神の賜りもの、それらは今日もイラン人が愛好するバラ水が、バラの花びらに密かに育まれるがごとくと歌うのは、まさに神の道を求め、神の被造物たる自然の巧みさに心奪われる詩人の自負であり誇りである(バラ水はバラの花弁から絞り出すバラのエキス)。

 (ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)

(駒野欽一(国際大学特任教授、元イラン大使)

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