・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑳神との融合を求めるハーフェズの人生

 引き続いて、筆者が日ごろ暗唱している14世紀ペルシャの大詩人ハーフェズの詩の断片を、その短形詩(ガザルという)全体とともに紹介する。

「我が心(恋)の苦しみを 涙が露わにしてしまうのを恐れる 確かに封印されていた(恋の)秘密が 世に知られるのを

 (A)石は忍耐の挙句ルビーになるという然り しかし全身の血を吐いての挙句である 柳のようにすらっとした長身の汝(美女)の頭のかたくなさに いつ我が短き手は 汝の腰に届き抱擁できるのか 汝への愛の錬金術でわが顔は金色(泥色)となった なるほど汝が情けで土が金色になった

 (B)あらゆる方向から願の矢を放った そのうちの一つでも当たれば良いではないか 泣きながら助けを求めて酒場(修道、すなわち神との融合・陶酔を求める場)に行こう
悲しみが我が手から離れるよう 果たしてかなうであろうか

(恋人を取り巻く)守り人の傲慢さに困惑する極みの中で 神よ(我が)卑しさが露呈しませんよう たくさんの醜きことにも出会わざるを得ない 正しい見方のできる人に評価されるまでは 月見の欄干のある王のあの宮殿 たくさんの(恋人を求めた者が想いをかなえられず)さらし首が宮殿の入り口にうずたか く積み上げられている (恋人に)結びあえるはずの宮殿の(城壁の)小尖塔の高みには たくさんのさらし首がその入り口に土朽れている

 さあ我らが(恋の苦しみの)話を思いの人に告げよ しかし(おしゃべりな)北東風には聞かれないようにしてくれ ハーフェズよ (メス鹿の内臓に懸かる)嚢のように汝の手は(美女の)髪の毛に懸からんとする 静かにしていよう さもなくば東北風が聞き広めてしまう」

 上記(A)(B)の2か所は、筆者の教訓とする詩句の断片であり、何ごとにも忍耐、あらゆる努力が肝心という、我が国も含めて世界のどこにでもある格言であろう。もっとも詩自体は、ペルシャ文学の世界からは縁遠い日本の読者には分かりずらいであろう。そこで、我々にはなじみのない詩人の人生への基本的姿勢・態度を改めて述べておこう。

 神への愛の道、すなわち神との融合を求めるのがハーフェズの人生である。しかし、それは捉えたと思えばすぐに突き放されてしまう、現実の恋にも似た悲喜こもごも、容易な技ではない。涙や苦しみは日常茶飯の人生である。全身で血を吐くような苦しみ、それに耐え続けなければ目的は成就しない。

 神の愛を成就するためにはあらゆる努力・工夫がいり、その過程では不愉快なこと、我が意に添わない事にもしばしば出くわさざるを得ない。わが身を貶めかねない事態も懸念される。そうした覚悟のうえで、四方八方に願の矢(祈り)を放つ。そのうち一つでも当たればよいではないか。そうした想いで苦難に立ち向かって行かなければならない。

 もとより、(美女・神への)恋は己の密かな問題で外に向かって吹聴すべき問題ではないし、(恋の)痛みや苦しみで流す涙も人に知られたくはない。しかし、恋の苦しみで流す涙は、外にも見られ人にもわかってしまう。

 神と融合しえない苦しみ・苦痛から、詩人の顔からは色が失せて土色となる中で、それを黄金と言っているのは、皮肉とも聞こえるが、神との融合の瞬間も体験しているからであろう。愛の錬金術と言っているが、土色の鉄を金に変えようとしたのが錬金術である。もとより神との融合は持続せず、またしても救いを求めて修道の場に戻ることになる。

 以上の諸点が入り乱れて詩の中盤までに述べられている。後半のエピソードは、神との恋を果たす道がいかに険しきものかを、月見(月は美女の象徴)の欄干のある宮殿にたとえている。

 美女(神)の住む城は、兵に守られ近づくことさえかなわない。これまでどれほどたくさんの者が、美女(神の表象)を求めて城壁を上ろうとして果たせなかったか。城の高い尖塔の足元にはそうした者たちの髑髏(どくろ)がうずたかく積み上げられている。

 最後のメス鹿の袋とは、ホタン(中国西部に位置する、かつてはシルクロードで栄えオアシスの町)に産する鹿で、メス鹿の体内にぶら下がるオレンジ大の嚢は、香料として珍重された。鹿の内臓に垂れ下がる嚢に連想されて、ハーフェズは我が手が美女の髪を捉えて(美女に)ぶら下がろうとする、すなわち神との愛の成就を予感している。まさに色を失い黄色ばんだ顔が金色に輝こうとしている。

 しかし、そのことは我が秘め事であり、我が恋の苦しみは北東風には悟られず美女(神)のみに伝わってほしい。ペルシャの文学では、北東風は秘密をあまねく広める役回りであり、北東風に悟られず、というのは、世間に知られとやかく言われないように、ということである。

(駒野欽一=元イラン大使)

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2019年3月28日