・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑯ハーフェズの詩句に回復の力を得た

 引き続き、筆者の心を打つハーフェズの詩である。

 「心よ 一瞬たりとも恋と陶酔を忘れてはならない かくして消滅と存在からの救いを求めよ もし偶像(美女)を見つけたら真剣に求めよ いかなる偶像であれ自らをあがめるよりはまし 弱くとも力なくとも北東風のように楽しくやろう 道を行くもの(修道者)にとって 病気であることは健康であるよりもまし 道を行くものにとってうぶであるのは不信者に同じ まさに幸せへの道は賢さ巧みさが肝要 知識や学問に頼る限り(神の)智徳は得られない

 汝に一つだけ言っておこう 自らを救うために自らをあがめてはならない 恋人(神の表象)の足下にとどまり この世の出来事に煩わされてはならない

 そんなことをすれば誇りの頂点から地の底に落ちる とげは痛いが(同じ木の)花は補って余りある 葡萄酒の苦さは我慢しよう 心地よき陶酔が待っているから (陰で)ちょびちょび葡萄酒に飲みふける修道者よ ハーフェズに大酒を控えろと 短い裾の衣をまとった者(修道者)よ いつまで高慢でい続けるのか」。

 健康であれば、人生とは、死とは、人生如何に生くべきかなどはあまり思うこともない。若いときはともかく、社会人ともなれば、いずれいつかは考えなければならない問題とは思っても、とりあえずは先送りである。病気は、そうした自分に一考を促す。

 筆者は、2015年5月突然脳梗塞に襲われ、長いリハビリ期間を含め半年にわたり入院生活を余儀なくされた。上記のハーフェズの詩句はじんと迫ってきた。

 病気を患って健康のありがたみが初めてわかるとはよく言われることであるが、筆者にとって健康の有り難味が身に染みて感じられた体験であった。いろいろ想いをめぐらす日々であった。この断片を含む詩句を、ハーフェズの意図に位置付けて読み直せば、筆者の状況とは基本的に異なるが、筆者の実感に重なる部分もありそうである。

 イスラーム神秘主義の修行を通じて、神の愛への道、すなわち神との融合を目指すのは、ハーフェズの人生そのものであり、それがあるべき生き方と信じている。それこそが最高の楽しみであり、生や死の恐怖を乗り越える道だからである。

 その修道の実践の要諦は自己滅却であり、修行の大敵は自分自身となる。現代の言葉でいえば、自我であり、自らを貴しとする傲慢である。神ではなく、自らを敬うくらいなら、自分以外のものなら何であれ偶像(美女)であってもその方がまし、とまで言って自我の跋扈を警戒している。

 一瞬たりとも自戒を怠れば、自我が頭をもたげるのである。謙虚さが失われる。障害(病気)が生じなければなおさらそうである。健康であれば、俗世の利益や快楽、さらには栄誉に惑わされかねない。病気こそ却ってそうした謙虚さをもたらす助けになる。

 神への恋における修道にあっては、同時に、賢く巧みに振る舞うことも必須である。賢く巧みに振舞うことは、自らを崇めることにも通じかねないが、あくまで神への恋を実現するためにである。

 神との融和は、知識や書物によって体得できるわけではなく、修行を通じてのみ可能になる。己を崇めるな。修行は厳しくも苦しいものであるが、痛いとげも美しい花も同じ幹に生じるものであり、また葡萄酒の苦さもその後の陶酔のためであり、苦しみと陶酔は紙一重である。どんなに苦しくとも、修行の努力は一瞬一瞬、しかも一生、続けなければならない。そうした道を放棄すれば、直ちに奈落の底へ転落である。人生を迷うことになり、後で後悔しても遅い。

 それにしても、(ハーフェズにとって)我慢ならないのは、修道の師や同輩たちである。かっこよく表では道や徳を説き、ハーフェズは大酒飲みと非難するが、陰に回ればブドウ酒をちょびちょびやっている(イスラームでアルコールは禁止)。これは賢くもなく巧みでもない。ただの偽善である。

 最後の行との関連で、ハーフェズは大酒飲みとも噂されたが、ハーフェズと葡萄酒との関係は、すでに論じた。北東風(サバー)は草木を弱々しく震わせて吹く風、その故ペルシャ文学では病人にたとえられる。

 最後に付け加えれば、地方の大学で宿泊中に倒れた筆者は、誰も知らない地域の病院に緊急入院となったが、脳梗塞と(併発した肺炎による)高熱にうなされながらも、入院の直後には日ごろ暗唱していたハーフェズの詩句を思い起こすことができ、入院の毎日にもハーフェズの詩の断片を暗唱し続けた。そのことが回復の大きな自信となったのは本当に幸運であった。

 (詩の翻訳は筆者)

(駒野欽一=元イラン大使)

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