・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑮人生の指針としてのハーフェズの詩の断片

 今回からは、筆者が自分の人生の指針、あるいは戒めとして日々暗唱しているハーフェズの詩の断片を、それが含まれる詩一遍の全体とともに紹介する。筆者が教訓として汲み取っていることと、ハーフェズの本意は必ずしも一致しないが、ハーフェズの生きた時代や社会背景と筆者のそれが異なる以上当然であろう。同時にそのこと自体、ハーフェズの詩が時と所を超えて、多様な読み方を許すものであることを示すものであろう。

 ハーフェズが、今なおイランやイランを超えて圧倒的な人気を持っているのもそうした点に由来しよう。

 「*途は恋の道 脇にそれることも終わりもない そこでは己が魂をゆだねるほかはない* 心を恋に委ねるときは素晴らしい瞬間 良きことにおいてはいかなる占い(迷い)も不要 真摯に修行の道を大切にせよ この宝の場所への道しるべは だれにも明らかというわけではない 己が知性を放棄することを怖がるまい 葡萄酒を持ってこい 我らの世界(恋)では警察長官(知性)は全く役立たず それ(恋)は澄んだ心をもってのみ見ることができる 新月を見るように 誰の目にも月のごとき美しきその(恋人)姿が現れるわけではない おのが目に尋ねよだれが我らを殺すのかと 絶対に運や不運の責任ではない (汝ゆえの)ハーフェズの号泣は何の効果ももたらさない 途方に暮れたわが心は硬い石(汝の冷酷な心)に劣らず」(*から*は、筆者が教訓としている部分)

 筆者にとってこの言葉は、何事も全力で最後まであきらめずに頑張れとの意味、あるいは人生最後まで愛し続けるもの(人とは限らない)を持て(生きがい)という意味になるが、ハーフェズの本意はもっと特定されたものである。

 「イスラームの神への愛の道を究めんとするハーフェズ、すなわち神を求め抜き、神との融合・邂逅を果たさんとするハーフェズの人生において、神は捉えたと思ったら次の瞬間には突き放されてしまう得難き存在、人生はそのことの繰り返しであり、あきらめずに命がけの修行を真摯に続けるほかにはない」との意味である。

 この詩には、神の愛を求める神秘主義の修行道の要諦をいくつか述べている。誰もが修行すれば、間違いなく成功する、すなわち神との融合・邂逅を実現できるものではないこと、したがって真摯に修行を続けなければならないこと、修行に当たっては、頭に頼り知識にすがっても却って有害であること、ただ心(魂)を清く研ぎ澄まし求め続けなければならないことなどが述べられる。

 そして、神の愛を求め抜く生き方に失敗すれば、その責任は自らにあり、運命や運不運の問題ではない、と手厳しい。

 最後の2行(ベイト)は、ハーフェズが神の恋を求める修業でいくら苦しみもがこうが、血の涙を流して号涙しようが、美女(神の表象)は冷血漢のごとく聞いてはくれず、何の効果もないと、修道の厳しさを歌っている。

 新月は、イスラーム教徒にとっての務めである断食月の終わり(したがって断食の終了)を告げる重要な印であるが、新月の出現は清き心を持った宗教者のみに見える、と信じられている。
(詩の翻訳は筆者)駒野欽一(元イラン大使)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2018年10月29日