・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑪「美女」と「葡萄酒」の続き

 ペルシャの大詩人ハーフェズの詩に繰り返し登場する「美女」と「葡萄酒」についての続きである。

 ハーフェズは、神への愛の道の実践を自らの人生とし、美女と葡萄酒に仮託してその生きざまを詩的に表現した。神への愛の道は、至福よりもむしろ苦難や苦痛に満ちていた。しかしそれが自分の人生である以上進むほかに道はない。

 「すき間がある限り すべてを埋め尽くせ」である。

 愛は報われずとも、進むほかにない。「汝のもとに赴けば何をも耐えるほかにない 何者をも成就できなければ最後は恥じるほかにない」

 従って、「汝(美女)が千里の道ほどに自分を裏切っても 自分は汝の心と身に危害が及ばないよう願う」覚悟である。これが神の愛への道を求めるハーフェズの人生への心構えであるが、それは、「痛みの激しさはいかなる説明も描写もかなわない」。

 そうした中での慰み、あるいは救いは、「嗚呼、汝(美女)がおでこに皺を寄せれば(それだけで)自分は力が抜けてしまう しかし それはまた、汝の身と心からのメッセージを示唆するもの」。

 美女がおでこに皺をよせ不快を示すだけで、自分の心は引き裂かれてしまうが、しかし、美女の振る舞い、美女が反応を示すこと自体、同時に何か自分へのメッセージを示すものと受け止めることである。

 もとより、そう受け取る背景には、「人生における良きことも悪しきことも 喜び悲しむ必要があるのか この世界の出来事はすべて跡形もなくなる」、また、「天国の宮殿は この世の行為の褒美として与えられるもの 我は無頼漢にして乞食 道の長老がいれば十分 流れのほとりに座して時の流れを見よ それだけで移ろう世界は自分にとって十分」との見えざる世界への深い信念がある。

 ここでいう無頼漢、あるいは乞食とは、実際のそれではなく、富や権力など移ろう世界に惑わされず、唯一絶対と信じる神のみを求める生き方、すなわち神以外のすべてを捨て去って世の柵から自由に生きる人生、ハーフェズ自身のことである。

 このハーフェズの詩句は、ほぼ同時代の日本の知識人の生き方を思い起こさせる。もとより、唯一絶対神という考え方は異なるものの、鴨長明が小さな庵に座して、変転極まりない世のありさまを「方丈記」で、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」と、ハーフェズと似たような人生観を吐露したのは13世紀の初めであり、ハーフェズのほぼ一世紀半前のことである。そのことはあとでまた触れる。

 ハーフェズが描き上げた美女は、イランの伝統芸術である細密画(ミニアチュール)の格好の題材となっている。イラン美女の典型であるが、そこでは顔、唇、目・瞳、まつ毛、黒髪、うなじ、えくぼが微細に描かれている。

 次回は同じくハーフェズの詩で多用される葡萄酒についてである。

(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)(駒野欽一=国際大学特任教授、元イラン大使)

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