・菊地大司教の日記㊾復活徹夜祭@東京カテドラル「暗闇の中で光を輝かせる勇気を」

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 みなさま、御復活おめでとうございます。

 関口教会では、土曜日の午後7時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた復活徹夜祭において、23名の方が洗礼を受けられました。また2名の方が転会されました。受洗されたみなさま、おめでとうございます。これからも教会共同体の一員として、歩みをともにしてまいりましょう。

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 以下、本日の説教の原稿です。

 私は司祭職のはじめから長年にわたって、いわゆる途上国に関わって参りました。司祭としての最初の任地はアフリカのガーナでしたし、帰国してからは教会の国際的援助組織であるカリタスの業務に関わり、多くの国々を視察などで訪れる機会がありました。その援助活動や宣教の現場で、様々な形をとって具体化している貧しさの現実を目の当たりにしてきました。

 貧しさはどちらかと言えば相対的な概念ですから、比較が難しいのですが、それでもいったいどうやって生命をつないでいるのだろうと危機的に感じる貧しさの現実が、確かにあります。絶対的な貧困といえば、たとえば世界銀行は一日の生活を1.9ドル未満で過ごす人たちのことだとしています。世界ではいま7億人ほどの方々が、そのような状況の中で、毎日の生命をつないでいると言われます。

 世界第三位と言われる経済大国である私たちの国でも,貧しさはいま大きな問題となっています。確かにアフリカの現実とは異なり、困窮している現実がはっきりと目に見える形ではないのかもしれません。しかし社会の現実はどうでしょう。全体との比較の中で相対的な貧しさのために、教育や就業の機会が奪われていたり、医療や社会保障が十分に受けられなかったり、頼る人がおらず孤立していたりと、貧しさに起因する困難な状況は枚挙にいとまがありません。そして私たちの国で、生命の危機に直面する人は、いまや例外的存在ではありません。

 インターネットで貧困について検索すれば,どこにでも判で押したようにこう記されています。「世界第3位の経済大国でありながら、日本には高い貧困率という問題が存在している。7人に1人が貧困にあえぎ、1人親世帯では半数以上が貧困に苦しんでいる」

 加えて、少子高齢化の進む中で人手不足が深刻化し、それを補う形で多くの外国籍の方が来日されたり、または生命の保護を求めて来日する方もある中で、厳しい労働環境や住環境、そして法規制という困難に直面しながら、十分な助けのない中で生命をつないでいる方々が増えているという事例は、もう珍しいことではなくなりました。

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 日本の教会は、21世紀の初めから、人間の生命が危機に直面していると訴えてきました。その始めから終わりまで大切にされ守られなければならない人間の生命が、様々な社会の現実の中で危機にさらされている。しかもその解決を、個々人の責任として放置することは,さらなる生命の危機を生み出すと警告し続けてきました。

 障害のある人たちには生きる価値がないとする考えで殺人に走る人や、幼い子どもに虐待を加え生命を奪ってしまう親が存在することは,確かに許されないことですし衝撃的です。しかしそれは、一人加害者が特別な人物だったからではなく、社会に蔓延する生命への価値観そのものを反映した行動だともいえます。

 私たちはいったい何を大切にし、何を優先させて生きているのか。

 本日のミサで一番最初に朗読されたのは,人類創造を語る創世記でありました。そこにこう書いてあります。
「神はご自分にかたどって人を創造された。神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ,それは極めて良かった」

 完全な存在は唯一、神だけです。その完全な存在に限りなく似たものとして,人間の生命は創造されました。そこに人間の尊厳の根源があります。そして人間の生命を含め,すべての被造物は神の目に適うよいものであった。だからこそ神は被造物を,とりわけ人間の生命を限りなく愛されました。

 イスラエルのエジプト脱出の出来事も、そしてイエスの受肉と受難と死と復活も,すべてはその生命の誕生を原点として、神のあふれんばかりの愛といつくしみの結果としての救いの計画の中で実現してきました。

 この生命が、尊厳あるものとして現実社会の中で大切にされ、十分に生きられるようになることは、神が望まれることではないでしょうか。だからこそ私たち信仰者は、そのためにありとあらゆる手を尽くしていかなくてはなりません。危機に直面している生命を守る努力を続けなくてはなりません。

 第二バチカン公会議を契機として、しばしば「開かれた教会」という言葉が聞かれるようになりました。教会は内にこもっていてはいけない、社会に対して開かれていなければならない。それは組織論として、現実において生きる教会の取り組みを強化しようという以上に,信仰者一人一人に社会に開かれた信仰生活を求める回心の呼びかけでもありました。

 教皇フランシスコは,そこに留まらず、「出向いてく教会」であることを呼びかけます。とりわけ、貧困や困難のうちに生命の危機に瀕している人のもとへと、積極的に出向いていく教会であれと呼びかけます。門戸を開いて待っているだけではなく,その門から外へ向かって、社会の中心から離れている人たちのもとへと出向いていくことを求められています。

 その教皇様は、今年の11月頃には東京にやってこられるのですが、私たちはどんな教会の姿を教皇様にお見せするのでしょうか。

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 本日洗礼を受けられる皆さん。先ほど朗読されたエゼキエル書に、こう記してありました。

 「私はおまえたちに新しい心を与え、おまえたちの中に新しい霊を置く」

 洗礼を受けることによって、キリストともに古い自分は終わりを告げ、新しい自分の生き方が始まります。キリストと共に生きる人生の始まりです。共に生きるキリストが,いったい何を大切にしているのか、私たちがどのように生きていくことを望まれるのか、それを心にとめていなければ、キリストと一緒に生きていくことはできません。

 教会が社会の中にあって掲げることのできる希望の根源は、生命を守り抜くところにあります。一人一人の生命は、条件なしに,すべてに尊厳があり、神から大切な存在だと言われているのだということを、多くの方々に伝えていきたいと思います。教会は,社会の中にあって希望の光を輝かせる存在でありたいと思います。

 復活された主に、暗闇の中で光を輝かせる勇気を願いましょう。復活された主に、信仰における勇気を願いましょう。復活された主に、その死と復活に与り、新たな一歩を踏み出す、信仰における力を願いましょう。復活された主に、神の福音の光を照らし続ける忍耐の力を願いましょう。復活された主に、神のいつくしみを一人でも多くの人に分けていく思いやりの心を願いましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教・「司教の日記」より、ご本人の了解を得て転載)

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2019年4月22日