・菊地大司教の日記 ⑫主にささげる24時間@東京カテドラル

 2018年3月10日

  教皇フランシスコは、四旬節第四主日直前の金曜日夜から土曜日夜までの24時間を特別な祈りの時間として定め、2015年以来毎年、「主にささげる24時間」と名付けての取り組みを推奨してこられました。

 今年は、3月9日金曜日から10日土曜日まで、「ゆるしはあなたのもとにあり」という詩篇130編4節の言葉をテーマと定め、聖体礼拝とゆるしの秘跡の機会が提供されるようにと四旬節メッセージに記されています。

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東京カテドラル関口教会の地下聖堂では、3月10日土曜日の朝7時から行われるミサ後から、夕方午後6時に行われる同教会の主日のミサまでの間、聖体を顕示し、ともに祈る場といたします。

 今朝のミサはわたしが司式させていただきました。夕方まで御聖体は顕示されていますので、どうぞお祈りにお立ち寄りください。また、明日、3月11日の10時の関口教会主日ミサは、東日本大震災の復興のための祈りとして、わたしが司式いたします。

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以下、今朝のミサの説教です。

 私たち信仰者の生きる姿勢は、人間中心ではなく、神中心であります。しかしながら今や現代社会は人間中心になり、人類の知恵と知識と技術を持って世界をコントロールできるのだ、いのちでさえもコントロールできるのだと考えております。人間がすべての王様になったとき、そこに神の存在する場所はなくなってしまいます。

 たとえば7年前の大震災のような自然の脅威の前で、なすすべもなくおののくとき、人間は初めて世界をコントロールできるのは自分たちではなく、自分たちを遙かに超える力がそこには働いているのだと悟ります。そして神の存在に目を向けるのですが、残念ながら時間がたつにつれ、再び私たち人間は、神のことなど忘れ去り、人間中心の世界に舞い戻ってしまいます。人間が万能であり、その幸福をのみ追い求める価値観は、徐々に自分さえ良ければという自己中心主義に到達します。

 なぜなら、すべての人に同じように幸福を保証することなど人間の力では不可能だと、すぐに気がついてしまうからなのです。それならば、せめて自分だけは、と自己中心に陥るのです。そして教皇様がしばしば指摘されるように、自己中心主義は、他者への無関心を、とりわけ助けを必要とする弱い存在への無関心を生み出します。それはすなわち、愛の欠如でもあります。

 教皇様は今年の四旬節メッセージの中で、次のように指摘されます。
「使徒的勧告『福音の喜び』の中で、わたしはこの愛の欠如のもっとも顕著なしるしを描こうとしました。それらは怠惰な利己主義、実りをもたらさない悲観主義、孤立願望、互いに争い続けたいという欲望、表面的なものにしか関心をもたない世間一般の考え方などです。こうして、宣教的な情熱は失われていきます」

 人間中心主義に陥るとき、教会では宣教的な情熱すら失われるのだ、と教皇様は指摘されています。

 四旬節にあって私たち信仰者は、人間中心ではなく神中心で生きることの重要性を、今一度、思い起こしたいと思います。傷ついた私たちが立ち返るのは人間の知恵や知識や技術ではなく、いやしを与え、傷を包んでくださる主のもとだ、とホセアは預言します。

 人間の自己満足である生け贄をささげることや、焼き尽くす捧げ物を差し出すことではなく、愛であり、神を知ることであるとホセアは語り、人間中心ではなく神を中心にして生きるようにと、私たちを促しています。

 ルカ福音は、まさしく人間中心の見本であるかのようなファリサイ派の人を登場させます。この人物の正しさは、結局、神のためであるよりも自分の満足のためであることが、その言葉から明らかになります。しかし徴税人は、すべてを投げ出して自らを神の手の中にゆだねるのです。神中心に生きようとする姿勢であります。

 四旬節は、私たちがどのような姿勢で生きていくのかを、信仰の目であらためて見つめ直し、その上で神にすべてをゆだねきる決断を改めてするように、と私たちを招いています。そのための特別な時間として教皇様は、四旬節中に主の御前でじっくりと祈り、ゆるしの秘跡を通じてすべてを神にゆだねるように、と四旬節第四主日直前の金曜日夜から土曜日夜までの24時間を特別な祈りの時間として定め、2015年以来毎年、「主にささげる24時間」と名付けての取り組みを推奨してこられました。そして今年は、3月9日金曜日から10日土曜日まで、「ゆるしはあなたのもとにあり」という詩篇130編4節の言葉をテーマと定め、聖体礼拝とゆるしの秘跡の機会が提供されるように、と四旬節メッセージに記されています。

 教皇様がテーマとして取り上げられた詩篇130編の冒頭から、少し読んでみましょう。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐えましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます」

 両手を大きく広げ、すべてをゆだねるようにと私たちを招いてくださる主の存在を感じさせるような詩編の言葉であります。神の前に素直に頭を垂れ、徴税人のようにすべてを神にゆだねきって、主にそれぞれの叫びを上げましょう。

 このミサから、今晩のミサまで一日、この聖堂で主イエスの現存である御聖体を顕示し、その御前で祈りながら、自分が人間中心となっていないか、振り返ってみましょう。御聖体のうちにおられる主イエスに、すべてをゆだねきることができているか、私たちの生き方を振り返ってみましょう。

 教会の伝統は私たちに、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すように求めています。この四旬節、どのように信仰生活を過ごしているのか、今日のこの特別な祈りの日を通じて、ゆっくりと黙想いたしましょう。

⇒菊地大司教の「司教の日記」はhttp://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/で、これまでの日記の全文がご覧になれます。

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