・森司教のことば ⑳人間の良心への呼びかけとしての『ラウダート・シ』ー神の前で問われる人の責任ー

 安全神話がどんなに信じられないものであるかは、福島の第一原発の事故から学んだ筈なのに、「安全である」と言う掛け声のもとに大飯原発の再稼働への布石が着々と進められている。経済活動を支えると言う名目であるが、一度事故が起これば、放射能汚染ほど人を不安に陥れ、自然を破壊してしまうものはない。

 この地球の秩序と調和の破壊と人々の幸せを奪ってしまうと言うことに関して、私たち人間ほど、罪深い者は他にいない。

 創世記の一章の天地創造の物語では、世界は明るい光に包まれ、闇を感じさせるものは何もない。初めにあった闇も深淵も、神の働きとともに消え去っている。一日ごとに「神は良いと思われた」という言葉が繰り返され、その業をすべて完成されたときには、「極めて良かった」と物語は結ばれている。

 闇も翳りもない光輝く世界。そんな世界を、神は、「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ」(創世記1の28)と言って人に委ね、人を祝福する。そこには、人に対する期待と人に幸せになってもらいたいと言う神の思いが込められている。

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 しかし、歴史を振り返れば明らかなように、人は、この世界を破壊し、隣人には地獄のような苦しみを与えてその幸せを奪い続けてきてしまってきているのである。

 「産めよ、増えよ」という点では、人はかろうじて神の期待に応えてきたと言えるかもしれない。国連の人口白書によれば、世界の総人口は70億人を超え、今後も増加の一途を辿ると予測されている。

 しかし、その陰には、幸せを踏み躙られて悲しみの淵に陥れられてしまった無数の人々が存在する。

実に人類が誕生して以来、殺傷事件がなかった日や紛争や戦争が行われなかった年はなく、この世界は、打ち倒されて嘆き悲しむ人々が流した涙と命を奪われた人々が流した血によって覆われてしまっている、と言っても過言ではない。

 悲しいことに、それは遠い過去のことではなく、今も繰り返されているのである。ナチスによる600万人以上のユダヤの人々の虐殺は、高々70年前のことであり、70年代にはポルポト派政権による大虐殺、90年代にはルアンダの民族紛争による大虐殺、さらに現代ではミヤンマーでのロヒンギャの人々に対する虐待と続いている。

この後も、人間の心が変わらない限り、この地球の上では、テロ事件や民族紛争が噴出し、多くの人々の幸せへの道が閉ざされていくに違いない。

 人に対してだけではない。私たち人間は、この世界の秩序と調和を破壊し続けてきているのである。その破壊は19世紀に入って産業革命以後急速に進み、産業廃棄物や生活廃棄物によって自然環境の汚染は進み、オゾン層の破壊や温暖化現象を招いて、地球そのものが人の生存を危くしてしまう場になってしまったのである。その延長上に原発の問題がある。

 それをもたらしたものは、少しでも多くの利益を得たいと言う人間の欲望と少しでも快適な生活をエンジョイしたいと言う人間の願望である。

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 私たちキリスト者は、天地創造の初めに光輝く世界を人に委ね、人に幸せになって欲しいと願った神の前に、どのような顔で立つ事が出来るのだろうか。目先に幸せに求めて展開する現代社会にあって、キリスト者としてアイデンテイテイが改めて問われてくるのではなかろうか

 現教皇の回勅『ラウダート・シ』は、改めてこの世界に対する人間の責任を問う、重要な回勅である。それは、現代社会の中にあって、あなたは、どのような生活を求めるのか、幸せを奪われていく多くの人々の悲惨な現実に、どのような心で向き合おうとしているのか、私たちの良心への呼びかけになっているのである。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

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2018年3月1日 | カテゴリー :