・梅田君、君はよくやった-僕たちは君の死を無駄にしない-新幹線刺殺事件

 梅田君、君はよくやった。仕事を終え、あと何時間かで、奥さんのもとに帰ろうとしていた新幹線で、暴漢に襲われている女性を助けようとして、君は命を捧げた。その時、君はどんな気持ちだったろう。僕だったら… どうしただろう。見て見ぬふりをして、逃げたかもしれない。でも、君は、自分の安全を考えずに、体を動かした。心ないマスコミの報道も一部にあったようだが、そういう興味本位、あるいは善人ずらをした、無責任な記事を書いた者にも、自分ならどうしたか、一度考えてもらいたいものだ。

 僕は、君と同じ高校をずっと前に卒業した。当時は、まだ、山岳部などもあって、中学一年で入部し、T大進学などそっちのけで、体力作りに励み、山に登っていた。「山の男の十の掟」というのがあって、毎土曜日の部活の前に全員で唱えていた-我らは山岳を愛敬す、我らは心身ともに清かるべし… 我らは兄弟献身愛をもって助け合う…。山岳部は無くなったが、その心は、今も、この学校のキーワード―Men for Others, with Others( 他者のために、他者とともに生きる), Agure Contra( 逃げたい気持ちとたたかい、なすべきことに専念する) -などに引き継がれているように思う。

 十数年前、OB会が主催していた”先輩による社会学講義”とでもいう、高校一年生、二年生を対象にしたゼミの講師に招かれて、新聞記者としての経験や考えている事などについて話をしたことがあった。二年生はまあまともに話を聞いてくれて、質問などもしてくれたが、一年生は昼食直後だったこともあったのか、半数以上が居眠りしてしまい、「こんなふやけた態度で、仮にT大には入れても、まともな社会人になれるのだろうか」と不安に思ったのを覚えている。

 君はその世代かも知れない。あるいは、そのゼミに参加していたかもしれない。しかし、君は、決してふやけてなどいなかった。無謀だったかも知れない。しかし、あのような状態で、安全か、危険か、説得して止めさせらるのか、考える時間はなかったに違いない。まさに、とっさの判断。でも、心の底に、Men for Others, with Othersがなければ、瞬間的にあのような行動を起こすことはなかっただろう。

 君の奥さんには言う言葉もないが、君は本当に立派だ。君を、この世界を作った存在は、君をたたえ、君を抱き締めているに違いない。

 そして、君の死を無駄には絶対にできない。あのような愚かな、あまりにも愚かな、残虐行為に走った者が、二度と現れることのないようにする必要がある。警備を厳重にするなど、再発防止の当面の措置は当然だが、根本的には、彼を生み、育てた家庭と周囲の環境について思いを致す必要があるだろう。

 教皇フランシスコは使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」で、人の成長における家庭の重要性を説き、そして、その後の説教でも、家庭が神の計画の中心に置かれていることを、一人ひとりを大切にする社会の原点としての家庭教育の重要性を繰り返し説かれている。それは、現代の社会が、そうした神の願いとはかけ離れていることの裏返しでもある。残虐で独りよがりの事件を起こした男は、それを生んだ家庭は、社会は、僕たちから遠い存在ではない。

 梅田君、今回の悲劇を、他人ごとではない、僕たち自身の問題として、皆が考える機会となるように、助けてほしい。 合掌。

(「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2018年6月18日