・三輪先生の国際関係論 ㉘戦争が消し去ったもの

 浅田次郎『長い高い壁』を読了した。表紙にかけられた帯には、大きく「ここは戦場か、それとも殺人現場か」。そして細字で「浅田次郎初の戦場ミステリー」、「日中戦争下の万里の長城。探偵役を命じられた従軍作家が辿り着く驚愕の真相とは?」として太い字体で「この戦争に大義はあるのか―――」と問いかけている。そして読了してみれば、「大義」がなかったばかりか、一連の「殺人現場」だったことが知られるのである。

 この時、私は8歳、戦争は身近にあった。我が家に6名もの兵隊さんが臨時に宿泊していたのだ。松本の連隊の兵舎は平時の将兵で満杯であり、市内の余裕のある民家に宿泊したのだった。

 私の生家の洋品店の前で、記念写真が撮られていて、私は子供用の陸軍少尉の軍服を着ている。私が一番親しくなった東京は浅草で立派な家業を営んでいた、軍隊の位で下士官の曹長ではなかったかと思われる、凛々しくも穏やかな面差しで恰幅のいい軍服さえはち切れんばかりの堂々たる体躯の兵隊さんが、軍刀仕立てにした日本刀を椅子に座して携え、右隣に直立している小学2年生の私を抱き寄せるように腰に手をまわしている。

 私の子供の頃の写真帳には、その時この兵隊さんが私にくださった出征祝いのスナップ写真が何枚か張り付けられて残っている。出征祝いの幾条かの幟から、兵隊さんの姓名は「篠井儀徳」だとわかる。若妻と一緒に和服姿で寛いでいる写真、背後にはアメリカから輸入されていた子供の身丈は優に超える大きな電蓄ビィクトローラがでんとしている。二人にはまだ子供は無かったことが偲ばれる。だが「子ずき」の篠井さんは、僕をかわいがってくれたのだろう。僕が着ている軍服は七五三の衣装で、ズボンが短いのはゲートルを巻いておぎなっているが、両手は袖先を大きく越えて突出していた。

 大東亜戦争と呼称されていたあの「アジア太平洋戦争」で、最後はサイパンに向かうはずだった松本連隊は、戦況に応じて、テ二アンの守備についたが、米軍の猛攻を受け、上陸してきた米軍と激闘し、ついに残存兵1000名は敗戦の前年の1944年8月2日、玉砕して果てた。その時篠井さんはそこにいたのだろうか。東京のご自宅は45年3月10日の空爆で、潰えたのだろう。

 戦後も半世紀を過ぎた頃、ようよう私は、何とかこの兵隊さんの旧居を浅草に探り当て、頂いていた写真をお返ししたいと思った。でもそれは叶わなかった。

 戦争が消し去ったものは甚大だったのだ。(2018.5.28)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

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