・三輪先生の国際関係論 ㉖敗軍の将の責任の取り方 

 古くは乃木希介将軍の割腹自裁がある。日露戦争時に旅順港を俯瞰する203高地奪取の激戦にわが子まで含めて数多の将兵を失ったことへの責任の取り方であった。

 先のアジア太平洋戦争では、連合艦隊司令長官山本五十六の下で参謀長を務め、山本亡き後、艦隊司令長官を務めて終戦を迎えた阿部纏海軍中将は既に天皇の終戦の詔勅も出ているのに、八月一五日、自決するために特攻のように飛び立とうとする。すると、配下の部隊全員二十二名が断固として同行すると申し出た。

 かくて先立ったものを弔うが如くに、全員爆撃機十二機に分乗シ阿部纏に従って南海に向けて飛び立っていった。「敵空母見ゆ」「われ必中突入す」を最後に通信は途絶えた。時に八月一五日午後七時三十分であった1。

 本土決戦を主張してきた阿南惟幾陸軍大臣は詔勅を聞いた後、詔書必謹を命令し辞表を書いた。家人には静粛を護らせ一人腹を切った。そこへ児玉誉士夫がたまたま訪ねてきた。「お前がくれた刀は鈍刀だから、なかなか死ねん」と呟いた。遺書は陸軍大臣の署名で「一死モッテ大罪ヲ謝シ奉ル」とあった2。

 戦犯容疑で米軍憲兵が拘束に到着した時、陸軍大将東条英機は拳銃自殺をはかったが、死に損ない、武人の風上には置けない、と世人の失笑をかった。

 シヴィリアンでは近衛文麿は息子からナチの戦犯裁判の様子を聞いていて、とてもその屈辱に耐えられない、と思っていた。憲兵が到着した時、近衛は寝室に延べられた布団のなかで死に絶えていた。青酸カリ自殺であった。

 松岡洋右は極東軍事法廷の開廷にはA級戦犯容疑の一人として出廷したが、持病の肺結核が悪化していたため、東京帝国大学病院に移され、そこで息を引き取った。少年のころ移民のような身分で生活していたカリフォルニアのオークランドの新聞は、反逆罪を犯したアメリカ市民を断罪するが如くに他のA級戦犯容疑者に絞首刑などの判決が下された時、「もしまだ生命を保っていたら松岡も東條や板垣同様、絞首刑に処せられる事になっていたろう」と報じた。

 戦犯としてはもとよりのこと、証人としてさえ喚問されなかった天皇に似て、もう一人特別な処遇を受けた者がいた、陸軍中将石原莞爾である。満州事変をマスターマインドした軍事戦略家は、米軍がわざわざ山形県の田舎まで出張してきて、リヤカーで運ばれてきた石原から事情聴取をしたのみだった。

 それだけではない。彼は新日本の進路についての提言を草し、マッカーサー元帥におくっている。国土は神代の時代と同じ大きさになったが、天皇のみいつは輝き、ますます八紘一宇の実をあげるべきである、とした。

 切腹で責任を取る、という古式を守った者は軍人だけではなく、大東塾の男たちにも及んだ。彼等の政治責任とは、政府軍閥の思想と行動を結社として下支えしていたとすれば、それだけのことだったろう。ある種の潔癖さがある。日本の精神文化に流れる一本の伝統であろう。それは何処かで天皇信仰に結びついていよう。その意味では明治になってから発明された伝統であったかも知れない。(2018・3・28)

注:
1 文芸春秋編『完本・太平洋戦争』(下)(文芸春秋社、1991)、481-482頁。
2 半藤一利『日本のいちばん長い日』(文芸春秋社、1995)、202頁

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

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