・ある主任司祭の回想・迷想 ②外国人信徒は”お客さん”のままでいいのか、司牧をどうするか

  私がまだ神学生の頃でした。教会史の授業の折、先生が全員に向かって尋ねました。「 Bonum commune ってどういう意味だかわかるか?」

 何も知らなかった私は「善い共同体って意味でしょうか?」と問い返しました。

 すると先生は「まあ、神学生のうちはそんなもんだろ」と笑っていました。そのあと「よく覚えとけ、これは『共通善』って訳すんだよ」と教えてくれましたが、このキーワードが、広い世界の中で多様な価値観を包括するカトリック教会にとってかなり重要な概念だ、ということを、後にヒシヒシと感じさせられることになるのです。

 「あの人たち」と「この人たち」、「日本人信徒」と「外国人信徒」、どちらがどれくらい片方を上回っているかによって、その先に進む選択肢は違ってきますが、双方が互いに意識できるほどに対比可能な状況において、どのようなことがその場における「共通善」であるのか? とても難しい問題です。

 「歩み寄り」や「壁を乗り越えて」というのは確かにいかなるときにも当てはまる正論です。しかし、人には「心」があり、正論だけでは具体的な行動が引き出せないことも多々あります。正論と同時に「然り」と頷けるリアリティーが必要なのです。

 しかし、こんにち上述の問題を益々複雑にする事態が起きており、それが司祭によって起こされてしまっている感があるので、その顕著な例をこれからお話しいたします。

 前回に引き続き、ここでは外国人司牧について触れたいのですが、先ず、その外国人司牧のために彼らの母国から派遣されて日本に来る司祭たちがいます。これを知って欲しいのです。

 その神父様方は、都内では主に「カトリック東京国際センター」の仕事にあたります。彼らは直接には「宣教師というわけではない」ので、日本語があまりできなくても問題ではなく(もちろん出来る人が多いが)、それとは異なり「宣教師としてたまたま外国人司牧にあたる」神父様の場合、その本分は宣教地日本における宣教活動なので、この両者の立場が根本的に違います。

 しかし、教区自体がこれを見誤ったり、「便利だから」と曖昧にしたままでいると、宣教会の司祭たちの気分を害したり、逆に日本語のできるセンターの司祭を日本人司牧に関わらせようとしたりするので、混乱が生じます。そして次の状況が生じてしまうのです。

 宣教師であっても、何故か自ら好んで母国の人たちを相手とし、小教区主任司祭なのか、国際センターから派遣された司祭なのか、宣教師本人も判断が不明確になり、成り行きに流されたまま、結果的に日本語も来日当時と同レベルとしか思えないほど上達しないのです(むしろ下手になって行くようです)。

 宣教師は、いうまでもなく母国ではほとんど働かず(例外もあるが)、宣教地に派遣されます。それなのに宣教師でありながら宣教地で母国の人たちを相手に働き、それを優先してしまう。そういう任務も兼ねているならともかく(また止むを得ず必然性に迫られてならともかく)、そのような宣教師が司教から小教区主任司祭に任命されるとしたら、その小教区が混乱するのは当然です。

 (その宣教師が)あえてそうしたいなら、司教と相談し、正式にセンターと契約した方がいい。そもそも、こうした職務の曖昧さは、彼らのアイデンティティーにも関わるはずなのです。

 かつて私は外国人の多い地域を担当しましたが、よく、宣教師たちに外国語のミサのお願いをしていました。しかし、彼らは「宣教師」ですから、「外国語のミサだけの依頼なら受けられません」とキッパリと断ります。はっきりしています。当然です。なので「日本語のミサと両方お願いするかたち」で引き受けてもらうことがほとんどでしたし、それは普通にそのはずです(国際センターから臨時で頼まれた場合にはまた違うとは思いますが)。

 今や宣教師は洗礼数の増加だけを目的に来日するわけではないし、どちらかといえば「交わりの教会」という面や、また「宣教地の福音化のため」であることが強調されます。ともあれ、わざわざ日本まで来て、せっかく身につけた日本語や日本についての知識を投げ捨てて、母国の信徒たちを相手にした活動を本来の任命以上に優先するというのは、いかがなものでしょう。

 小教区における外国人司牧は、異なる文化の衝突を恐れず、彼らを日本の教会の一員として受け入れることが模索され、それに心を向けることが小教区主任司祭が担う外国人司牧の基本ではないでしょうか。

 実際、定住組の外国人信徒の側から「日本の教会のためにもっと何かしたい」という思いを聞かされることが、実に多いのです。でも、放っておけば例え定住組の外国人でも、自分の教会、すなわちその人の母教会(所属教会)は定まらないまま、かえっていつまでも根無し草の状態で、お子さんたちの初聖体や堅信の手続きに手こずったり、それを諦めたり、また休暇で母国へ帰省した時を利用してなんとかするなど、要するに定住組でありながら、いつまでもお客さん扱いされてしまうのです。

 お客さんのままでいたい人はそれでいいのかもしれませんが、そうでない人がどんなに寂しい思いをしていることか、と考えると結構、深刻な問題です。動機としては善意からであっても、司祭の側がこの一連の状況をこんにち牽引することになろうとは…。

(日読みの下僕「教会の共通善について」より)

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2019年10月31日