・【読者投稿】「小さな胸の内-片親のいない心の痛みを分かって…」

カトリック東京教区信徒 M.K.

 「父の日にお父さんはいない」―親を亡くした子どもの作文集(あしなが育英会)が手元に届いた。微々たる寄付だが子どもが小さい頃から続けている。

 この作文集、書いたのは小学生、中学生、親を早くに亡くした子が父( 母) の日について書いている。読みながら、かつての私と重なるところがいくつもあった。ずっとずっと昔のことであったが、私も同じような思いだったと甦ってきた。この作文を書いた子ども達も父( 母) を亡くし、小さな心に傷み悲しみをもっている。

 父( 母) の日にその主役がいない。学校では父( 母) への作文を書く、絵を描く、回りの皆は当たり前に書く。わたしは書けない。生きていた頃のことを思い出して書くけれど、回りの友や先生の同情はさらに心を傷めることになる。かわいそうね、私もかつて言われた。表現力のまだ乏しい子どものいたわりの言葉であろう。でも……私は悲しかった。

 昔、学校では母の日に造花のカーネーションを胸に付けた。今のように生花を買う程社会は豊かではなかった。母が居ない私は白のカーネーションだった。白を付ける子は殆ど居なかった。寂しく、孤独にも思った。こんなことしない方がいい。だけど私には付けないという勇気もなかった。恐らく、その後じきにカーネーションを付けるということは無くなったように思う。白を付ける子の気持を汲むようになったのだろうか。

 作文では、遺された片親に気遣う優しさを子ども達は持つ。片親になり、その親の大変さを感じ取り、思いやる子ども。私もそうだったと思う。子ども心にも少しでも親を支えようとあまり甘えない。

 父( 母) の日は寂しい。友人はプレゼントの話をする。作文は書かなくていいとか、ばあちゃんのことを書いたら?などと言われる。ちょっとした言葉も辛くなる。授業参観も寂しい、と小さな胸を締めつける。

 これらのことはかつて私はどうだったか、忘れてしまった。父( 母) の日の授業参観は無かったかもしれない。

 母が亡くなって……遠足の日は新しい服を用意してくれていたが、自分で有る物の中から考えて着て行った。

 髪をいつも母が結んでくれていたが、親戚の家に行き、伯母の「誰が結んだの?」という問いかけに「私」と答える。「そう、上手に結べているわね」と言ってくれたが、私が結ぶしかないでしょ、と心の中で叫んだ。悲しかった。

 父の遠縁の人が一年ほど居てくれた。「お姉さん」と呼んでいた。でも母とは違う。今ではとても有り難かったと思う。

 八歳で亡くなったので、母がしてくれたことは覚えているが、母の気持、心の中のことまでは分からない。

 母に叱られて障子におかあさんのバカと書こうとして「おかあさん」までしか書かなかった。私はおとなしい子だった。しかし母亡き後、その障子に書いた「おかあさん」を目にする度に悲しくなった。

 母は最期に救急車で運ばれて行った。とても長い間、救急車を見たり、サイレンを聞いたりする度に、この救急車で運ばれている人が助かって欲しいと心の中で願っていた。

 母亡き後、弟が居たこともあり、悲しみを抑えていたのだと思う。私がしっかりしなくてはと幼な心に思っていたのだろう。この抑えたままの悲しみはずっと胸の内に持ち続けていた。クリスチャンになってやっとそのことに気付いた。三十数年も経っていた。牧師先生にその悲しみをイエス様に癒してほしいと、祈ってもらった。悲しみ、苦しみの癒やしはイエス様に願うのが一番の近道だから。

 二度目の母と衝突すると、どうしてお母さんは死んじゃったの?と一人泣いた。死ななかったらこんな悲しみは無かったのに、とすら思っていた。

 娘が生まれた時、この子が二十歳になるまでは私は生きなければと思った。今その倍生かされていることに感謝している。

 時代は変わっても、親を亡くした子どもの悲しみは同じだとつくづく思った。今では心のケアもよく考えられるようになった。あしなが育英会は奨学金が始まりだったが、心のケアにも力を入れている。阪神淡路大震災では五七三人もの子どもが遺児となった。その四年後、神戸に初めてレインボーハウスが海外、国内からの寄付により創られ、続いて東京日野にもできた。東日本大震災では二千人を超える子ども達が遺児、孤児となり、東北にも三か所開設されたという。これは遺児達にとって大変良い場となっている。

 サンドバッグがある「火山のへや」、みんなで語り合う「おしゃべりのへや」、「あそびのへや」、静かになれる「おもいのへや」、創作や絵を描く「アートのへや」、があるようだ。

 心の内にしまい込み、悲しみを言い出せない子。そこに集まった子たちは皆同じ境遇であることで、誰かの話を聞いた子が、安心してポツリ、ポツリと話し出す。ここではスタッフも元遺児のようだ。皆が共感しあえる。このような場が創られたことは大変有り難い。
心の内が次第に楽になっていくことだろう。「時間の経過だけでは悲しみは小さくならない」と、レインボーハウスのスタッフは言う。

 あしなが育英会は、初めは交通事故の遺児への奨学金のために玉井義臣さんが中心となり創られた。ご自身は母親を交通事故で亡くされていた。その後尽力の末、国に移管され交通遺児育英会となった。あしながでは災害遺児、病気遺児、自殺遺児と次々と支援を広めている。

 私も大人になるまで、母が小さい頃亡くなったこと、二度目の母のことをなかなか人に話せなかった。回りはまだ母親が健在の人が多かったことや当時二度目の母に心を閉ざしていたことがあったからだろう。レインボーハウスがその頃あったなら、そこに行ったかも知れない。しかし、幸いにも私にはその後、イエス様との出会いがあった。

 子どもにとって、親は自分を守ってくれる人である。親の離婚もそうであるが、片親が居ないということは、子にとって大きな不安であり、心の痛みである。このような子ども達に、社会はもっと配慮していって欲しいと願う。

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2018年10月12日