「イエスさんは『越境のラディカリストだ』」と言う、J会のH神父が、久しぶりに私たちの修道院を訪れた。「境を越える」「解放される」「脱出する」「自由になる」…すべて、旧約の「出エジプト」から始まって、神によって集められ、導かれている民が、日々直面するチャレンジだ。まず、自分からの脱出、自分が浸っている文化・考え方・行動の仕方…を越えること…。
「脱出・自由」の頂点は、御父の思いの実現のための、御子イエス・キリストの受難・十字架の死、そして復活-御父の力によって―だろう。
H神父は、お年(82歳!)にもかかわらず、健在どころか、ますます燃えている。「境を越える」というのは、日々の小さなことから始まる。以下、20歳以上の年の差も何のその、H神父との語り合い後の「独り言」から…。
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次世代に引き継ぐ、ということが、いかに難しいか。皆、多分、少なくとも善意があれば、頭では分かっていると思うのだが、いざ「自分が」仕事を引き継がなければならない、という状況になると、「いやいや、私はまだ大丈夫」ということになる。
私も含めて、しばしば「原点」に戻り、同時に「将来」を見据える勇気と決断力を、日々養っていかなければならないだろう。
ぎりぎりまで、高齢になるまで「○○シスター」は頑張った…という、その人個人の「武勇伝」は出来ても、実は、後継者はまったく育っていなかった、「まったく、若い世代は頼りない…」という結末にもなる。その繰り返しで、私たちは今まで来たようにも思う。
先輩シスターたちの、私たちには分からない苦労、労力に感謝しながらも、やはり、私たち「中間層」が、次世代のことをしっかりと考えて決断していかなければいけないと(もう遅いくらいだが)思う、今日この頃だ。
でも、そのためには、時に(無理なことを言う)「悪役」を買って出なければならない。それは「したくない」という本音がある。この、「私が良ければ、私の世代が良ければ」という「本音」からの、根本的な「脱出」が必要だろう。
そのためには、「原点」-イエスさまに従う、神の国を造る協力者となる―に戻らなければならない。イエスさまが言う「神の国」とは、イエスさま自身のこと、「すべての人…キリスト信徒だけでなく…」が、神さまの永遠のいのちの交わりに生きる場だ。叩かれながらも「越えていく」。仲間たちと、ひたすら神の国の建設のために…。そういう潔さ、単純さで、前に進んでいきたい。
もしかしたら、国内外の出張が少し多い私は、外からの刺激、インスピレーションを受ける恵みも多く与えられているのかもしれない。だから、「境を超えて行く」「脱出する」ことの必要性を、より感じるのかもしれない。今、置かれている場所、与えられている使命を、丁寧に、淡々とこなしながら、境を越えるタイミングを気づくことが出来るよう、目を覚ましていたい。「目覚めなさい、もう救いの時が近づいている」という、使徒パウロの言葉を心に。
祈りつつ。ルカ
(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)