Sr岡のマリアの風通信⑩ 独り言…聖母月…

  五月は聖母月。今年は、東京のK教会に招かれて、マリアさまの話をすることになった。ありがたいことだ。

  何といっても「マイナー」なマリア論Mariology。「一応」、カトリック教会の神学分野の一つで、しかも、そのルーツは、すでに「聖書」の中に、しかも、パウロ書簡の中にも見出すことが出来る、と、わたしの恩師たちを始め、近代マリア論学者たちは明言している。恩師の一人、聖書学者のAlberto Valentini教授は、パウロ書簡の中の、マリア論の「萌芽」について論文を書いているし、もう一人の恩師、Aristide Serra教授は、さらにさかのぼって、旧約聖書の中に「予表」されている、「メシア・救い主の母」の実現としての、ナザレのマリアについて、何冊もすばらしい論文を書いている。

  そして、Serra教授の論文の内容が、あまりにもすばらしく、そして、あまりにも知られていない分野なので、わたしは、へたな翻訳ではあるが、せっせと訳している。マリア論が「マイナー」なのは、もったいない!と思うから。マリアこそ、神と、神の民とを結ぶ、また、旧約の神の民(イスラエル)と、新約の神の民(教会)を結ぶ、さらには「花婿・創造主」と、創造主によって造られた「花嫁・人間」を結ぶ、何というか、「交差点」、結び目、にいる。マリアは、キリスト教の「中心」ではない-中心は、唯一の救い主、イエス・キリストだ-。しかし、マリアは、キリスト教の中心であるイエス・キリストと、切り離せない絆で、一人の人間として最も緊密な絆で結ばれている。

  …ということを、第二バチカン公会議の『教会憲章』(1964年)は、特にその第八章で、マリアに関する教会の教えを、もう一度源泉に戻って(聖書、教父たちの伝統、典礼…)再確認する中で、明言している。

  さて…聖母月に、マリアさまの話。何を話すか?選択肢として、「伝説(おとぎ話)的話」、「当たり障りのない話」から、「チャレンジ的話」まで、ある。「チャレンジ的話」は、もしかしたら、訳の分からない、「だから、何なの?」と言われるかもしれない話-つまり、マリアの姿を、ますます分からなくさせるリスクのある話―。わたしの能力からいって、それを「分かるように」話せるか、と言われれば、「?」では、ある。

  でも…敢えて、「チャレンジ的話」にも、まさに「チャレンジ」してみよう。そうしないと、いつまでたっても、マリア論Mariologyは、a pious devotion(敬虔な信心)の域を「超える」ことが、出来ない。敬虔な信心は、ひじょうに大切であり、この、民衆のpiety(敬虔、信心)があるからこそ、キリスト教は、「生ける神」の、まさに、わたしたちの日々の生活に「関係のある」宗教であり続ける。わたしたちの神は、本当に、「肉」に、「人間」になったのだから、わたしたちの「肉」、「人間性」は、キリスト教において大切な部分である。

  それでは…K教会での、聖母月のマリアさまの話…。ここ、本部修道院のシスターたちの絶えざる祈りに支えられ、少し「チャレンジ」してみよう。わたしの栄光のためではなく、聞いてくださる人々が、マリアの真の姿―「わたしたちの一人」、わたしたちの「母」、わたしたちの「姉妹」、わたしたちの「模範」-を、少しでも知り、それによって、苦しみ、悩みの絶えない日々の生活の中で、希望と勇気をもつことができるように。…わたし自身、マリアのことを知れば知るほど、「わたし」が「誰」であるか(神のいのちを共有するよう招かれ、共に、一つの目的に向かって信仰の旅路を歩いている、神の民の一人)を知り、出口が見えないような困難の中にあっても、確かな希望を持ち続けることが出来る、と、日々、体験している。

  K教会の信徒の方々の上に、復活の主の豊かな祝福を祈りながら。アーメン

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2017年4月26日 | カテゴリー :