Sr岡のマリアの風⑤ 独り言:「弟子であるマリア」-マリアの「こころ」

 

 12月に、ザベリオ宣教会のシスターたちに、大坂で、「弟子であるマリア」というテーマでお話を頼まれています。自分なりに、いろいろと勉強し-また、勉強してきたことを再度「辿り」―、祈りれば祈るほど、今年9月、ファティマ(ポルトガル)のマリア論国際会議で発表した、マリアの「こころ」と、「弟子である」というテーマのつながりに、気づかされます。

 

 神が、ご自分の「息吹」-いのち-を注ぎ込んでお造りになった人間。造り主の「いのちの息」を受けて、人間は、自分の「すべて」をもって-全人格で-神を愛することが出来るように、唯一、神と「対話」することが出来る被造物として、造られました。人間が、その「全人格」をもって神を愛する(それは必然的に、神がお造りなった一つ一つの被造物、特に一人一人の人間を愛することを伴う)と言うときの、「全人格」というイメージが、聖書の中で、「こころ」のイメージ、概念とつながります。

 聖書の中で、「こころ」とは、単なる感情の座ではありません。それは、まさに人間の「いのち」の中心、すべての生命活動―体・精神統合の中で―の源です。そのような文脈で、「みことば」を聞き、守り(こころに収め)、それを行う(決心し、行動する)という、イエスが明確に求める「弟子」のあり方は、まさに、「みことば」を「こころに受け入れる」という一言に要約される、とも言えるでしょう。

 つまり、聖書の中で、神の「みことば」が、人間の「こころ」に触れ、人間が「こころ」を尽くして、神の「みこころ・意志」に答えていく、という、神の救いの計画の実現のための、神と人間の、いわゆる「synergy―協働―」は、「こころ」が、その根源的な「場」となっている、と言えるでしょう。この場合、「みことば」を「こころに受け入れる」というのは、単なる感傷でも、客観的な考察でもなく、「わたしのすべて」を巻き込み、思い、意志、決心となって、主体的な行動となって実現されていく、積極的なニュアンスをもっています。

 

 神の「こころ」と、人間の「こころ」を、再び、完全に結び付けた、神の「みことば」そのものであるイエス・キリスト。「みことば」の母マリア…

 今、東方教会のイコンの歴史に関する本(共著 “A history of Icon painting: sources, traditions, present day”, Moscow 2007)を読んでいますが、教会がその初期の時代から、「受肉の神秘」の奇跡の中に完全に巻き込まれた母マリアの姿を、驚きの中に見つめてきたことを、ひしひしと感じています。

 

 ここ、本部修道院では、主の降誕前後の祈りの集い(12月17日~1月1日)が行われています。今年は、「大いなる沈黙」の中で起こった、わたしたちのいのちの根源にかかわる出来事を見つめるために、言葉を少なくし、沈黙の時間をたっぷりと取りました。わたしたち一人一人に語りかける主の言葉に、わたしたちの「こころ」を開くことが出来るように。共同体の姉妹たちの祈りに支えられながら、自分の弱さ、貧しさを素直に受け入れて、「共に歩いておられる神」に、わたしの「全人格」を開いていくことが出来ますように。その時、初めて、わたしの存在の「なぜ」「どこから」「どこに向かって」…の答えが見えてくるのだと思います。

 

「はい(Fiat)、あなたのお言葉どおり、この身になりますように(あなたのお言葉が、わたしの中で実現しますように)」(ルカ1・39)という短い言葉の中に凝縮される、「花婿・神」と、「花嫁・民(人間)」の決定的な出会いの場を差し出した、この「貧しい」イスラエルの娘、ナザレのマリアの言葉を、わたしの言葉にしていきながら…。

 

 …そいういうわけで、特にこの時期、聖母の「こころ」と、「弟子」であること、このテーマに、こだわってみようと思っています。

 

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2016年12月25日 | カテゴリー :