・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」(6)ハーフェズの偉業

 私の退職後の人生の楽しみともなり、指針ともなったペルシャの詩歌を、ハーフェズとモウラナーという2大巨星の詩句を中心に、いよいよ具体的に紹介する段になった。

 最初はハーフェズである。

 背景説明として、まず彼の生きた時代を概観し、次にその宗教観と人生観、すなわち生き様を具体的な詩句を挙げながらお話ししたい。

 ハーフェズが詩人として活躍したのは、14世紀の後半である。13世紀のモンゴルの西征により、世界を席巻したイスラーム帝国も終わりをつげ、東方のイスラーム圏は徹底的に破壊されその支配に服する。バグダードを首都とするアッバース朝カリフの崩壊(サラセン帝国)、すなわちイスラーム世界のシンボルの消滅も13世紀の半ばである。

 チンギス汗の後裔フラーグはサラセン帝国を滅ぼすとともに、イランを中心としてイルカン国を設立する。この政権はのちイスラームを受け入れ土着化していくが、その衰退後も、東方イスラーム世界では、今度はモンゴル帝国の復活を目指して中央アジアにチムールが出現、ハーフェズが生きたシラーズもその支配下に置かれた。

 ハーフェズはモンゴルによる世界の大変動の余波冷めやぬ戦乱の時代に生きた。ハーフェズは故郷シラーズをこよなく愛し、終始シラーズにとどまり近辺の大きな町ヤズドやケルマンのほかには旅していない。

 「なんと気持ち良い、シラーズは比類なきところ 神よ シラーズがいつまでもこのままでありまよう」(以下いずれもハーフェズの詩)

 シラーズの人のみならずイラン人なら誰でも承知の一句である。外務省入省後、ペルシャ語専門家の第一歩として、私は邦人のほぼいないシラーズでペルシャの言葉と文学の研修に励むことになる。

 ハーフェズから600年後のシラーズは、現在の大都会化したシラーズから見ればはるかにハーフェズの時代に近かったであろう。当時未だ20代前半の異邦人にとって、シラーズはこの上なく退屈な社会であった。

 ハーフェズは、一度インドに招かれて、ペルシャ湾岸の港まで行ったものの大嵐に遭遇し、引き揚げてきている。彼の名声が生存中すでに、ペルシャ文化世界に広く知れ渡っていたことが知られる。第一回目に紹介した、「(世界を見透かす杯を)海(道)にさまよった者に求めた」との比喩も、港で大嵐に遭遇した経験に基づこう。

 不安定な時代を背景に、詩人としてのハーフェズも、詩人の常として宮廷の庇護を得ようと願うが、権力の抗争は、詩人の身分の安定を許さない。うまく取り入ることができる時もあれば、そうはいかない時も多い。ハーフェズも王や宮廷の有力者を讃嘆する詩歌を読みはしたが、数も限られれば自らをまげて卑しく媚びることはない。

「ハーフェズよ 王に伺候の機会を得ようというのか 何もしないで なんの望みがあるというのか」

 世情は落ちつかず、有力者の庇護もままならない中で、ハーフェズは敬虔なムスリムとして、神への愛の道を真摯に生きようとする。ハーフェズの生きた社会は、神の命ずるがまま(聖典「コーラン」)を信じ実践する、とのイスラームの宗派が優勢、ハーフェズも、それを神への絶対的な愛(自己滅却)という形で実践しようとする。ハーフェズという名前自体が「コーランを暗唱するもの」という意味である。

 神の道は、手に入れたと思えばすぐに逃げてしまう茨の道、その愉悦と苦痛を詩的に昇華することがハーフェズにとって生きることであった。

 「汝とともにある瞬間は 1年が一日 汝のいない瞬間は 一瞬が一年」

 1年が一日にも思える程さっと過ぎてしまう至福の時、時間が全く進まない苦痛の時、だれにも経験があろう。

 また、社会には神への道の修行を説きながら、自らは自己の欲望に汲々としている同道の輩が少なくない。ハーフェズの信条からすれば、何とも我慢がならない欺瞞である。そうした不義・不誠実への怒り・批判を、ハーフェズは詩的に表現することで自らの人生を生きた。

 「ハーフェズの語るべきことは長い 短くはできない」

 もっとも、ハーフェズの人となりや人生はあまりよく知られていない。何しろ、主としてガザルという詩形式の作品が、500編あまり残っているだけだからである。これも、彼の死後友人のガランディルがまとめたものなどが原典である。ハーフェズ自身がまとめて発表したわけではない。詩作に大変な自負を持ちながら、それを自ら積極的に広めたわけではない。何しろ、詩は支配者から不満・抗議と受け取られれば、そのために殺されかねない時代である。作品は人づてに伝え回わされたものである。

 それにしても、伝えられる500編余の詩句で、世界を魅了できるとはとてつもない偉業である。

(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)

(駒野欽一=国際大学特任教授、元イラン大使)

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