駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」(5)モハッゲク、井筒両先生の詩を通した交流

 イラン大使在任中、ペルシャの詩を2人のイラン人の先生について学んだことは述べた。加えてもう一人、イラン人の先生に言及しておく必要がある。メフディ モハッゲク博士である。

 大使在任中、頭を離れない疑問があった。日本の代表的な哲学者にして、イスラーム学者、それに語学の大天才であった故・井筒俊彦先生が、なぜイスラームに、またイランにあれ程までに惹かれたか、である。

 井筒先生は、慶応大学で教えられた後、カナダのマックギル大学で研究と教育に携わる。そこで知り合ったのが、イランのモハッゲク先生である。井筒先生はイランの哲学者の著作を学びながら、両者は協力して研究に励む。モハッゲク博士のイラン帰国後は井筒先生もイランに移動し、60年代の後半から70年代末のイラン革命直前までイランで過ごされる。私がペルシャ語の専門家の卵としてイランに赴任し、研修の終了後、大使館で勤務、革命直前に離任するまでの間、井筒先生はイランに居られたことになる。

 おうわさは聞いていたが、先生が日本人会の社交の席に姿を現すことはついぞなかった。幻の有名人であった。後で知ったことだが、先生はそのような社交には興味なく、そもそも夜中を研究の時間に当て、我々とはまったく別の生活のサイクルであった。

 その井筒先生が、なぜイスラームとイランに魅せられたのか。「モハッゲク先生に聞いたらいい」と教えられ、お邪魔した。当時モハッゲク先生は、内外のイラン研究者を顕彰する会を主宰され、1994年に亡くなられた井筒先生に関しても追悼の冊子を出され、そのコピーを私に贈ってくれた。専門外の私にはむつかしいことも多く、冊子に書かれたモハッゲク先生の追悼文を材料に何度かお邪魔してお話を伺った。

 井筒先生は、イラン革命の直前、最後の最後までテヘランに残り、最後はアパートの水も電気も中断し、着の身着のままでモハッゲク邸に避難し、帰国便が再開するのを待って日本に戻られた。その間の事情を、モハッゲク夫人がくだんの追悼冊子に寄せた一文で紹介している。日頃気難しい先生が、初めて打ち解けた風で、モハッゲク家の子供たちに中国の占いを教えたという。

 モハッゲク先生は、その追悼文で、日本帰国を前に井筒先生が、下記のアラビア語の詩を引用して別離の念と感謝の気持ちを表したという。
「友よ 汝と別れなければならない 眼には涙があふれ心は血でたぎる 誓う 汝が家の門口に 身を寄せ心を託したことを」(アラブの詩人アホウスの詩を、モハッゲク先生がペルシャ語に翻訳)

 私も日本に戻り、ちょうど井筒先生の全集が再刊されたのを機会に、目を通してみた。井筒先生が、得意の語学を駆使されて、イスラーム諸語(アラビア語、ペルシャ語、トルコ語)やヘブライ語、さらにはサンスクリットや中国・チベットの原典を直接研究され、自らの禅体験を踏まえて、西洋思想に比肩する幅広い東洋の共通的思惟ともいえる壮大な「東洋思想」の構築に挑まれていたことを知った。同時に先生が、日本の詩歌、特に新古今和歌集に大変な興味を持っていることも知った。

 「世の中は 夢か現か うつつともゆめとも知らず あるもなくして」(古今和歌集、読み人知らず)を評して、深い哲学的思惟が読み込まれていると指摘されている。

 井筒先生が、詩歌を深く愛されていたことは分かったが、イスラームとイランになぜ惹かれたのかはよくわからなかった。しかし、追悼の冊子に先生のイランにおける弟子のひとりプールジャバーディ博士が一文を寄せている。それによれば、80年代の半ばロンドンでお会いした際、井筒先生に雑誌に掲載する予定でインタビューを行い、その中でなぜイスラームやイランに引き込まれたのか尋ねている。井筒先生の答えは、自分でもわからず論理的に説明できないが、イスラームに引きずり込まれたとしか言いようがないと答えている。

 「魔法」を意味する語根から発するアラビア語であるMahsur(魅せられる,憑りつかれる)という言葉を用いている。なるほど、イランについても同様であろう。自分(筆者)もとうとう、ペルシャの詩歌にMahsurされてしまった。
次回からは、ペルシャの2大詩人のうち、まずはハーフェズから感銘を受けた詩句を紹介する。(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)

(駒野欽一=こまの・きんいち=国際大学特任教授、元イラン大使)

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