萩巡礼・禁教令下でキリシタンを寺にかくまった僧侶がいた!

 

(この須弥壇の裏の床下に、秘密のキリシタン祈りの場があった=萩・報恩寺で、難波住職)

 所属している東京郊外のカトリック小金井教会で有志による巡礼を始めて今年で18年目、日本で最後の殉教となった「浦上四番崩れ」の始まりから150年ということで〝流刑地〟となった津和野・萩を中心にした巡礼を、5月なかばに行った。

 禁教令を引き継いだ明治政府によって迫害され、転向を迫られながら、命を懸けて信仰を守り通し、信教の自由を勝ち取った人々が幽閉された乙女峠のその場所に立つなどして、大いに心が動かされたのだが、とくに印象深かったのが、萩の報恩寺という寺院を訪れた時だ。

 江戸幕府の禁教令のもとで、厳しい摘発、迫害をのがれて信仰の灯をともし続けたキリシタンに、この寺の住職が祈りの場所を提供していた、というのだ。案内してくださったのは、カトリック萩教会主任司祭でイエズス会士の恩地誠師。この寺の現在の住職、難波俊明師のご母堂が本堂改築の際、須弥壇の裏の床下の空間で片づけをしていて、偶然落ちてきたのが手の中に入るほどの金属の折り畳み式の板。中央にキリスト、右に六人の使徒と思われる像が彫り込んであった。

 この話を恩地師が、萩で定期的に行われている宗教間対話の場で、難波師から聞き、現地を調べ、その空間がキリシタンの集会の場、祈りの場として使われていたことを確認した。現在、友人のイエズス会士で上智大学史学科教授の川村信三師の協力を得て、調査を続けているというが、寺の裏の浜から畑を通って、この空間に入ることのできる秘密の入り口も本堂の裏側に見つかっている。報恩寺には、えらいお坊さんがいて、キリシタンを匿い、彼らが祈りを唱えている間は、自分もお経を大声で唱えて、外部にキリシタンがいることを知られないようにしていた、という言い伝えも残っているという。のちのちの関係者に危害が及ぶのを避けようとしたためか、いつ、誰が、どのような動機から、このようなことをしたのか、を示す記録や文書は今のところ見つかっていない。だが、いずれにしても、自らの命の危険をも顧みず、キリシタンの人たちにひそかに祈りの場所を提供した僧侶がいたのは、確かだ。

 織田信長の時代に地方領主も含めて西欧との貿易などに魅力を感じた時の支配者がキリスト教の布教を認め、その後ろ盾を得た宣教師や信徒の中に、仏教寺院を破壊したり、僧侶に危害を加えたりした者がおり、後に豊臣秀吉の時代に禁教令が発布され、キリシタン弾圧が始まるとともに、今度は僧侶や仏教信徒がキリシタンに意趣返しをした、というのは、歴史的事実として知っている。

 しかし、僧侶の中に、キリシタンを保護し、助けた者がいた、というのは、これまで聞いたことがなく、強い衝撃を受けた。彼、いや彼らは、自らを存在させている大きな力に向き合っているということにキリシタンと共感し、ひたむきな信仰心に心を打たれ、危険な橋を渡りつつ、彼らを受け入れたのではなかったか。

 小著書「なぜ『神』なのですか‐聖書のキーワードのルーツを求めて」(燦葉出版社刊)の中で、私は、チベット仏教の最高指導者、ダライラマ14世の言葉を引用して、キリスト教のいわゆる「神」を「宇宙、人間の存在の究極的な基底、と理解すると、仏教の考え方や修行との共通点があらわになってくる」と強調したのだが、この僧侶、あるいは僧侶たちには、これと通底する認識、あるいは信仰があったのではないだろうか。・・巡礼を終えた今、一段と感慨を深くしている。

(「カトリック・あい」南條俊二)

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2017年5月26日