森司教のことば ⑰「教会は疲れている!」

 「教会は疲れている。幸せなヨーロッパと米国において、欧米の文化は歳を重ね、教会は大きく、宗教施設には人はいない。教会の官僚主義的な装置は多くなるばかりで、儀式と祭服はもったいぶったものに見える。(中略)今日、教会では残り火の上にとても多くの灰が覆い被さっているのを見て、私はしばしば無力感に苛まれる。どうすれば、愛の炎を再び燃え立たせるために灰の中から残り火を取り出すことが出来るだろうか」

 ここに掲げた言葉は、故カルロ・マルテイーニ枢機卿(1927〜2012年)が、亡くなる数週間前、イエズス会士によるインタビューに応えたものである。
「教会は疲れている」という枢機卿の率直な言葉に、どれくらいの信者が、共感する事が出来るか、私には不安がある。と言うのは、週に一度、月に一度ぐらいの信者生活では、教会全体の行き詰まっている深刻な状況が分からないのでは・・・と思うからである。

 マルテイーニ枢機卿彼は、教皇フランシスコと同じくイエズス会出身である。ミラノ教区の司教に任命され、2002年までミラノ大司教区の教区長として働き、イタリアのカトリック教会の優れた指導者として高く評価され、一時は、故ヨハネパウロ二世の後継者になるのではないか、と見なされていたほどの人物である。晩年パーキンソン病などを患った上、高齢であったことから教皇として選出されることはなく、2012年、85歳で帰天したが、その亡くなる直前に、それまで胸の奧に深く秘めていた、カトリック教会の現状に対して抱いていた心配、不安を、初めて公に口にしたのである。

 教会が、その力を弱め、人々に対する影響力を失ってしまっているという事実は、ヨーロッパの町を歩いてみれば、誰の目にも明らかである。
街の至るところに教会の建物はある。しかし、どこの聖堂も、現代人を引きつける魅力ある空間ではなくなっている。薄暗く、人の気配はなく、ひっそりと静まりかえっている。都市の中心にある、天高く聳える大聖堂も、その昔は人々の燃えるような信仰の発露の場であったろうが、今やその中で静かに祈る信徒の姿はほとんどなく、目につくのは、ガイドブックを片手にして堂内を歩き回る観光客の姿ばかりである。

 ちなみに、カトリック国といわれていたフランスでもイタリアでもスペインでも、日曜日のミサの参列者は信者の10%前後、幼児洗礼も、教会で結婚式を挙げる者も、激減している。

 さらにまた、かつては隆盛を誇った多くの修道会も、志願者が激減して衰退し、その広大な敷地と建物が売りに出され、ホテルになったり研修所になったり、図書館になったりしてしまっている。

 「しばしば無力感に苛まれる」の枢機卿の言葉には、おそらく多くの司祭たちは、心から共感するのではないかと思われる。司祭たちは、自らの人生を賭けて、教会のために尽くそう、と決断した男たちである。しかし、キリストが、なかなか悔い改めない人々を前にして嘆いた様に、司祭たちが、いくら悲しみの歌を歌っても、喜びの笛を吹いても、手応えはない。人々の日常は社会の営みにすっかりのみ込まれ、こころも時間もそこに奪われ、教会には足が向かなくなってしまっているからである。

 多くの司祭達は、しばしば自分たちの存在が無意味に思え、無力感に苛まれてしまう。それは、どの司祭も体験することである。枢機卿も、その一人であったと言うことである。

 しかし、大半の司祭は、それをなかなか表には出さない。自らの内なる苦しみも教会についての不満、批判も滅多に口にしない。と言うのは、信徒たちに負担をかけてはならない、という責任感からである。また、ある意味で、教会という組織の公僕だからである。マルテイーニ枢機卿のインタビューが、思い悩み、心痛めている多くの聖職者たちから好意的に受けとめられたことは、事実である。

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 大半のひとが、社会の営みにのみ込まれ、影響力を失い社会の少数派になっていくカトリック教会は、今後どのような姿勢で、社会とそして人々と向き合えばよいのか、これからのカトリック教会の大きな課題なのである。

 これまでのように、「自分たちにはキリストから委ねられた真理があり、救いが保証されている」という信念のもとに、社会に生きる人々を「世俗主義に毒されている」と決めつけて、上からの目線で語りかけ働きかけていく姿勢を続けるならば、歯止めにならないどころか、教会離れをますます進行させるだけになってしまうことは間違いない。

 これからの教会は、教会を無視し教会から離れていく人々を責める前に、これまでの自分たちの姿勢についての反省し、新たに進むべき道を探るべきなのではなかろうか。

 その点で、私が感服したのは、マルテイーニ枢機卿の姿勢である。二十数年前のことである。お忍びで,日本を訪れて来たことがあるのである。その際、個人的に枢機卿と会食する機会に恵まれた。その席で「なぜ,日本にこられたのですか」と問う私に、枢機卿は「ミラノでも教会離れが進んでしまっている。教会が社会の少数派になってしまうことは、これからも避けられない。そんなとき、教会がどのような姿勢で社会と向き合ったらよいのか、カトリック信者が、総人口の1%にも満たない社会の少数派として苦労している日本の教会からヒントをえたい、と思って来日した」と答えてくれたのである。

 確かに、日本の教会は,社会の少数派である。信者の数は,全人口の0、4%。1000人の人が集まれば,信者はわずか4人ということになる。その4人が、「自分たちだけに真理があり、光がある」と自負して、一般の人々に馴染みのない教会用語を駆使して、周りに語りかけ働きかけていっても、信頼をえられるはずがない。

 日本の社会で教会が人々から信頼され、意味ある存在となるための唯一の道は、苦しみ悩む人々に対する誠実な愛、そして彼らを無条件で包み込む、損得を超えた真摯な愛を証しすることである。それは、資本主義の論理が隅々にまで浸透してしまった社会では、最も否定され軽視されているものだからである。そうした生き方は、愛に徹したマザーテレサの生き方が宗派の違いを超えて人々の共感をえたのと同じように、日本でも多くの人々の共感を呼ぶはずである。

 その原型は、キリストにある。少数派になっていく教会に求められることは、余計な物を脱ぎ捨てて、キリストの原点に立ち戻ることなのではなかろうか。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

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2017年12月2日 | カテゴリー :