森司教のことば ⑭教皇フランシスコに対する批判と教皇の心

 2016年、教皇は、家庭についての使徒的勧告『Amoris Laetitia(愛のよろこび )』を発表した。それは、すでに指摘したように、2014,15年と、家庭をテーマにして二回にわたって開催されたシノドスを基にまとめられたものである。
この文書は、教会の使命は人間一人ひとりに神の優しさ、あたたかさを伝え、あたたかさで包みこんでいくことにある、という教皇フランシスコの信念に貫かれている。特にそれは、結婚に失敗しながらも生きていかなければならない人々に対する教会の姿勢について語るときに、よりはっきりと現れる。教皇は、離婚した者に対するこれまでの教会の厳しい姿勢を改め、彼らの苦しみや悲しみについての理解を深めなければならない、と言及しているのである。

教皇の姿勢は、当事者たちはもとより、司牧の現場に立って日々苦しむ人々と顔を合わせていなければならない多くの司祭たちの共感を呼ぶものである。しかし、その一方で、教義を重んじる人々からの批判の声も上がってきているである。
カトリック教会には、2000年の歴史があり、一つ一つの教義の歴史も古く、その理解も多様で、さまざまな考え方が受け継がれてきており、たとえ教皇の発言であっても、そのまま素直に受け止められるとは限らない。良心的に教皇の姿勢に従うことが出来ず、カトリック教会から離れていった数多くの人々がいる。プロテスタント教会との分裂も、その一つの例である。
しかし、近代になってからは、教皇に対する批判の声は、ストレートに表に出ることは滅多になかった。が、今回の使徒的勧告に対しては、教皇にメッセージに逆らう批判の声が、はっきりと表に現れてきたのである。

教皇は、根強い反対意見があることを承知だったことは確かである。というのは、シノドスで司教たちが厳しい議論が交わされる場に臨席していたからである。そうした反対意見があることを承知の上で、教皇は、使徒的勧告をまとめ、発表したのである。そこから教皇フランシスコの、神は憐れみそのものであるという神理解と教会は神の心を証ししなければならないという揺るぎない
確信が、私たちには伝わってくるのである。


教皇への批判は、特に、離婚し再婚した者に聖体拝領を許すかどうかは、司牧の現場の司祭たちに委ねるべきである、という教皇の姿勢に対するものである。周知のように、カトリック教会は、これまで一貫して、夫婦の絆は神が結び合わせたものであり、その絆は不解消であり、離婚は神の掟に背く大罪である、離婚して再婚した者には聖体拝領は許されない、と教え、指導してきた。そうした教会の姿勢は、時代が変わっても受け継がれ、揺らぐことはなかった。

事実、1997年に公にされた、最も新しいカトリック教会の「カテキズム」の中でも、明記されている。「離婚は、秘蹟による結婚が表す救いの契約を侮辱するものです。たとえ、民法上認められたものであっても、再婚すれば、罪は一層重くなります。再婚した人は、公然の恒常的な姦通の状態にあります」(2384項 邦訳691ページ、傍線筆者)『離婚した後に民法上の再婚をした者は、客観的には神法に背く状態にあります。したがって、この状態が続く限り、聖体を拝領することが出来ません。同じ理由から、教会のある種の任務を行うこともできません。許しの秘蹟によって許しを与えられるのはただ、キリストの契約と忠実さのしるしである結婚を破ったことを痛悔し、全くの禁欲生活を送る人々に対してのみです。』(2384項 邦訳498ページ、傍線筆者)

この「カテキズム」は、後に教皇ベネディクト16世となるヨゼフ・ラッツィンガーがまだ教理省長官だったころ、彼を委員長として1993年に設置された委員会によって検討され、まとめられ、1997年にヨハネ・パウロ2世によって、カトリック教会の正式の教えとして公に認証されたものである。現代の教会の姿勢を示すものである。
しかし、「カテキズム」に記された文言は、離婚し、再婚した現代の人々にとっては、非常に厳しい表現になっている。そこに記されているとおりに「全くの禁欲生活を送る」ことは、一つ屋根の下で生活する男女には不可能に近い。さらにまた離婚が増加し、離婚したとも一人で生きていることが出来ず、新しい相手を見出して、新しい歩みを始めようとする者にとっては、「再婚した人は、公然の恒常的な姦通の状態にある」という言葉は、残酷すぎる言葉である。せっかく、これから前を向いて歩もうとする人の心に新たな重荷を与えることにもなる。

こうしたカトリック教会の結婚・離婚に関しての教えの厳しさは、一般の人々に「カトリック教会を近付きがたい存在である」という印象を与えてしまっていることは否めない。しかし、一般社会の人々がどのように受け止めようと、指導者たちの多くは、結婚・離婚に対する教会の教義は、決して妥協してはならない神聖な教義であり、その教義を教え守るように信者たちを指導していくことにこそ、カトリック教会の使命がある、という信念の上に立ってきているのである。
そうした指導者たちが、教皇の使徒的勧告が発表されてすぐ反応し、批判の声をあげたのである。彼らなりの使命感からである。まずは、ヨアヒム・マイスナー枢機卿、ヴァルター・ブランドミュラー枢機卿の2人のドイツ人枢機卿、米国人のレイモンド・レオ・バーク枢機卿 、イタリア人のカルロ・カファラ枢機卿の4人の枢機卿たちの名をあげることが出来る。恐らく教皇のメッセージに居たたまれなくなったのだろう。この4人は、教皇に批判的な手紙を送り、それを公にしたのである。

4人の内の一人、レイモンド・バーク枢機卿は、教会法学者でバチカンの最高裁判所の元長官である。彼は、アメリカのカトリック紙の記者のインタビューで「離婚して再婚した信者の聖体拝領が可能である」と示唆することによって「教皇は誤りを教えている」と述べ、カトリック信者の間に「重大な戸惑いと大きな混乱」を引き起こしていると指摘し、教皇に「正式に訂正すべきである」とまで発言している。
枢機卿たちだけではない。4人の枢機卿たちの発言に勢いづいて、23名の神学者たちが、この4人の枢機卿たちを支持するように各地の司教たちに呼びかける、という行動に出たのである。その23名の中には、教皇のお膝元のバチカンの諸委員会で働く数名の司祭たちも加わっている。呼びかけを受けた司教たちが、どのように反応したか、残念ながら、私は知らない。
さらにまた前教皇ベネディクト16世によって教理省長官に任命されていたゲルハルト・ミュラー枢機卿も、「再婚者に聖体拝領を認めることは神法に反する」と発言し、教皇の姿勢とは距離を置いた発言をしていたが、この7月その職から解任されている。


神理解の違い
枢機卿や司教たちが、教皇の発言に対して批判の声を公にあげることは、近年になってからは、稀なことである。教皇と教皇を批判する人たちとの意見の違いは、その根底にある神理解の違いによるものであるように、私には思われる。
伝統的な立場に立つ指導者たちにとっては、神は「万物の主催者であり、倫理・道徳の最高の基準」である。人間は、そうした神の権威を尊び、敬い、その掟に沿って生きていかなければならない、神の掟に背くことは、万物の主宰としての神の権威を無視し、逆らうことにつながっていく。教会の使命は、何よりも神の意思、権威を尊重し、神のみ旨に沿って生きていくよう、人々を指導することにある、という神理解であり、信仰である。

 こうした神理解に立つ指導者たちにとっては、離婚は神の掟に背く大きな罪であり、離婚し再婚した信者たちに、安易に聖体拝領への道を示していくことは、神の掟を曖昧にしていくことにつながってしまう誤った指導以外の何ものでもないのである。そうした観点から、教皇の使徒的な勧告に批判的な声をあげたように私には思われる。
こうした神理解に対して、フランシスコ教皇の神理解は「憐れみ」に軸足を置いている。
教皇が、教義を否定していないことは、「愛の喜び」の序章で、「教義および実践の統一性は普遍的な真理である」と記していることからも明らかである。教皇は、カトリック教会の教義の変更はせず、結婚に失敗した人々の聖体拝領などについて、教会内で解釈権限の拡大に道を開いたのである。

そのように教皇を促したものは、無論、教皇の人間理解である。教皇は、現実の人間は、みな弱く、複雑で、純粋に教えに沿って清く正しき生きることがどんなに難しいことであるかに配慮し、教会の教えにそって生きていくことが出来ない人々も、神の憐れみの対象であることを、訴えようとしたのである。
「教会の生命を支える柱は、憐れみです。教会の司牧行為はすべて優しさに包まれていなければなりません」(小冊子 18ページ)
「憐れみは、福音の脈打ち心臓であって、教会のすべての人の心と知性に届けなければならないものです」(同20ページ)

恐らく、教皇は、アルゼンチン時代の司牧経験から、夫婦が生涯をともにすることの難しさを、肌感覚で学んできていたに違いないのである。また離婚したからといって、一方的に罪を犯したと断罪できない現実も、十分に見てきたに違いないのである。次のように述べているのである。
「客観的に見て罪の状態と思われる条件の中にいる人は、様々な制約や情状配慮要素のため、主観的に罪科が無いことがありうる。その人は神の恩恵を受けている状態であり、教会の助けを得て恩恵と愛徳のうちに成長しつづけることがありうる。(中略)どんな問題でも、白か黒かというアプローチしかできないと、恵みと成長への道が閉じられてしまい、神に栄光を帰する聖性への道を諦めることになるでしょう」(第305項)
そして教義を前面に押し出す人々に対しては、次のように語るのである。

 「混乱の余地のない厳正な宗教指導を期待する人たちがいるのは承知している。しかし、聖霊は弱い人間のさなかに善なるものの種をまく。その善きものに気を配るよう、イエスは教会に求めていると、私は心から信じている」「本当に教義を守るのは、教義の文書よりも精神を支える者であることに気付かされた」「離婚・再婚した人々は助けが必要です。この助けは秘跡の助けを含む場合もある。ご聖体は完全さへの褒賞ではなく、弱さへの薬であり、栄養である」(第38項)

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

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2017年8月29日 | カテゴリー :