三輪先生の国際関係論⑳諫死としての特攻死と九回生きて帰還した特攻兵士

 戦没学徒兵の遺書を集めた一書『きけわだつみの声』の突端を飾ったのは慶應義塾大学学生から応召した上原良司の遺書であった。

 「自分は自由主義者である」といい、「全体主義国家の日本は負ける。それは分っていても自分が死ななければ日本は変わらない」と観念して、特攻の使命達成に向けて飛び立った。「願わくば日本を偉大な国にして下さい」と日本国民に託して。

 あと3ヶ月余で日本が連合国に降伏して第二次日中戦争開始の1937年から数えれば8年の長きにわたった「一億一心火の玉だ」の 総力戦が終結するという、1945年の5月11日、沖縄戦の一閃光となって22歳の若き命をちらした。

 これは日本の負け戦だとわかっていても、「俺が死ななければ日本は変わらない」と覚悟した死であっ た。日本の国家、日本国民の運命を決める政策決定者等に向けた死による問いかけ、諫死であった。 それはあまたの特攻死のなかで、死の意味を明確にした一つの突出した事例であった。

 しかし死なずに敵の艦船撃沈、撃破の目的を達成した特攻兵士の事例もあった。死んで来いと命じられても、爆弾だけを敵艦船に投下して、見事目的を達成した、陸軍の第一回特攻隊のパイロットがいた。

 「死ななくてもいいと思います。死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と言っていた 。その名を佐々木友次といい21歳であった。彼は終戦までに9回出撃し、目的を果たした上で、9回とも無事帰還した。此の異例な行動は賞賛されることは無く、かえって叱責された。「今度こそ死んで来い」と上官に叱責されるのであった。

 此の兵士は戦後を92歳まで生き、5回にわたり下記の著者のインタヴューに応じたが、呼吸不全のため2016年2月9日札幌の病院でその生涯を閉じた。そんな事もあったのだ、と吃驚する。鴻上尚史著『不死身の特攻兵―軍神は何故上官に反抗したか』(講談社現代新書 、2017)である。 (2017・11・20記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

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