三輪先生の国際関係論 ⑪アメリカで学んだ事(1)1950年代

 

   私が初めてアメリカに留学したのは1952年のことで、日本では米軍による7年に及ぶ占領統治が「血のメイデー」と共に終結した年。戦後アメリカ留学のハシリであった。私の場合は、上智大学と同じカトリック修道会、イエズス会が経営する首都ワシントンのジョージタウン大学であった。

  本来アメリカ人学生に与えられるべき授業料と学生寮費の両方を無償にしてくれるいわゆる「フル・スカラシップ」が与えられたのである。16世紀末に渡来して京都に大学を創設しようとしたイエズス会士フランシスコ・ザビエルにちなんだ記念行事の一端であったらしい。私のほかにもう一人同様の奨学金を授けられた男子がいた。外交官の息子で、バチカンで時の教皇から幼児洗礼を受けたカトリック信徒であった。    私がカトリックの洗礼を受けたのは、ジョージタウンの「教養学部」といえばいいのかな、カレッジを卒業する55年のことであった。

   少し前置きが長くなってしまった。本題にはいろう。

   学部卒の時、私が授与された学位はバチェラー・オヴ・サイエンス・イン・ソーシャル・サイエンシィースというのであった。「社会科学学士」ということだろう。実際どんな科目を履修していたかと言えば、歴史学主専攻・政治学副専攻と称していた。しかし必修科目の単位数からいえば、哲学というか、存在論、論理学、倫理学など、形而上学こそが主専攻の如くであった。

   ところで、今ここで取り上げたかったことは、地政学的な国際政治学の教室で使用したテキストの内容である。だいたいアメリカの大学用の教材は、大きくて重いのが当たり前だが、そんな分厚な書物の一つの内容は、意外に軽快で、寮のベットに寝転がっても気楽に読めた。

   真珠湾奇襲攻撃で始まった戦争のことをアメリカ人は決して忘れない。最近読んだ週刊誌TIMEの記事によると、それは一つには時の大統領フランクリン・D・ルーズベルトの卓抜なる言葉選びによるとされる。彼は「真珠湾(の奇襲攻撃」を忘れるな」と国民に呼びかけたが、「1941年12月7日」のことを単に「あの日」“the day”としてではなく”the date of infamy”「破廉恥(な行為)の年月日」として記憶するように呼びかけたのであった。

   日本の軍当局は「本土決戦」を覚悟し、「一億玉砕」をも辞さない姿勢であったが、それ以前に米軍の焦土戦術は日に日にエスカレートし、焼夷弾による絨緞爆撃の果ては終に原爆投下となった。それに中立条約を破棄したソ連も満洲国境を越えて参戦してきた。その間海外駐在の外交官からは、降伏を勧告する「ポツダム宣言」の受諾こそがこの際日本国家にとって妥当な選択であると報告があったが国家の意思は最後の最後まで「国体護持」を確認できなければ交戦を継続するというものであった。天皇のいわゆる「鶴の一声」無くしては、連合国の軍門に降る決断に達し得なかったのである。

   なんと手間のかかる敵国か、と連合国の政府も国民もあきれたものだろう。屈服させては見たものの、この日本人は果たして復讐戦など考えもしない平和国民になったのだろうか。連合国の政府も国民も、この問題に100パーセント安心できる確信をもってはいなかった。枕を高くして睡眠できるようにするためには、何か科学的というか歴史的に納得できる説明が欲しかったのではなかろうか。教科書一つは次のような歴史的推論を提示していた。

   秀吉が朝鮮攻略に失敗して以降日本は300年に渡り平和に逼塞していた.次なる対外戦争にうってでたのは1894-95年の日清戦争であった.じつに300年もの歳月が経過していたのである。そこから推論すれば、対米戦争に敗北した日本は同じように向こう300年は戦争を始めたりはしないだろう、と。

  これを「滑稽な推論」と笑い飛すことはできる.しかし考えてもみよう。日本国憲法の九条の平和条項が少なくとも今日でもしっかりと国民の生活信条になっているのは何故だろう.この姿勢は戦争を体験しなかった世代には、あたかも国民的DNAででもあるかのように生き生きと伝達され続けているからではないだろうか.

  その由来は・・、一度負ければ、向こう300年の不戦平和が日本国民の歴史的習性なのだと言えるのかも知れないのである.

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

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2017年7月23日