Sr.石野のバチカン放送今昔⑮ヨハネ・パウロ二世‐ハプニングに次ぐハプニング

 

 聖ヨハネ・パウロ2世は第264代目の教皇。彼まで400年以上ものあいだ教皇の座はイタリア人によって占められていた。その伝統を破って、当時は無神論的共産主義を旗印に掲げる東欧、ポーランドから選出された。ポーランド人たちは歓びに狂気し、ロシアは怯えた。ロシアのこの恐怖はやがて、1981年5月13日の教皇狙撃事件へと導く目には見えない一本の線となっていった。

 教皇はよほどのことがないかぎり、バチカン宮殿の中でお過ごしになり、外にはお出にならない。ところがヨハネ・パウロ二世は選出されてから24時間と経たないうちに友人の枢機卿が入院しているローマのジェメッリ病院に見舞いに行かれた。

 あわてたのは側近や警備員たち、そして・・・報道関係者。教皇は翌日、バチカンの近くに住む高齢の病気で苦しむ枢機卿を歩いて見舞いに行かれ、その次の日はやはりバチカンの近くに住む高齢枢機卿のお誕生日の祝いにと、毎日出かけられた。それも何の前触れもなく。側近の人たちもわたしたちも、ハプニングに振り回されながらも、次は何?と、忙しくなるのも忘れて楽しみ、喜んだ。

 同じ教皇に関するとはいえ、いつもと違うニュースを次々報道できるのだから。次は何?明日は何?続く毎日のハプニングを前にして、放送局員の話題も弾む。続くこれらのハプニングは、やがて人びとの目を見張らせた、あの海外旅行への準備だったのだろうか?間もなく正式の海外旅行が始まった。第一回目は1979年1月25日~2月1日まで、ドメニカ共和国、メキシコ、ハバマだった。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

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2017年9月27日 | カテゴリー :