・Sr.岡のマリアの風 ㊴日々の生活の中で、神さまの夢が、ちょっと見える時…

 昨年、イタリアの母校の先輩、フランシスコ会のステファノ神父が、教皇庁立国際マリアン・アカデミー(略称PAMI)の長官となった。北イタリア出身のステファノ神父は、「ほんとに、アシジの聖フランシスコの子やな~」と感じさせる人柄だ。

 ステファノ神父と共に、PAMIは今、「境を越える」歩みを始めている。あらゆる境を超えて-個々のカリスマ、修道会、信心会、巡礼地…、国境、文化、言語、さらには、宗教も超えて、「平和、赦し、和解の道としての、母マリア」というテーマに向かって。

 わたしたち、PAMIの、アジアとオセアニア部門とも言える、AOMA(アジアとオセアニアのマリアン・アカデミー)は、PAMIの小さな「反映」「証し」となれれば、と願いつつ、ひじょうにささやかだが、一歩一歩、とにかく前に向かって歩みを続けている、という感じ。

 まことに、手探りのように模索している状態だけれど、「境を超える」動きに共感しながら。何といっても、まず「自分の考え、自分の利益、自分の興味」を超える。「マリアのためのアカデミー」と言いながら、「わたしはこう思う、わたしの方が正しい…」と言っていると、いつのまにか、「マリアの道」から離れていく。

 神さまが地上に蒔いた「みことば」から、野原にさまざまな花、植物、木…が生えている。それぞれが「誰が一番きれいか」と競争している間は、一つにはなれない。いろいろな花、いろいろな色、花の咲かない木や野菜があってもいい。それぞれが、「神さまの夢」-ありとあらゆる「違い」が、違いのままで、美しい園-の実現のために、救いの歴史の中の「自分のパート」を一生懸命生きるとき、初めて一つになっていくのでは、と感じている。

 歩みを止めてしまって、議論していても、一つにはなれない。人間の理屈が造り出す「一致」は、はかなくもろいものだ。神の夢である「一つになること」は、理屈ではない。誰の方が正しい、ということではない。みんなそれぞれ、わたしもあなたも、足りないところがある、間違っていることがある、だから、足りないところを補い合って、間違っていることを共に悔い、そして改めながら、歩んでいく。神さまのふところで「一つになる」ために。

 議論していても、和解の道が見つからなくても、同じ目的に向かって、共に汗をかくとき、知らない内に、わたしの手が、あなたの手と重なって、同じものを造り出していく。いつのまにか、「わたしの幸せ、わたしの成功」ではなく、共に造り出している「わたしたちの幸せ」を望んでいることに気づく。

 それが、神さまのイメージ(姿)として、自由の賜物を与えられて、「共通の家-人類家族-」を造り出す協力者として呼ばれている、人間の本当の姿だろう。

 神さまの夢は、神さまのイメージである「すべての人間」が、正義といつくしみ、和解と赦しの社会-共通の家-を造り出すことにある。もしわたしたちが、「わたしが、わたしが…」と自分の世界に閉じこもっているなら、それは神さまの夢から「後退している」ことになるだろう。

 わたしは、イスラエルの民の娘、ナザレのマリアの道は、小さな者たちの道、地道で、でも具体的な道だと思っている。「お母さん」のふところの中で、どの子どもも、みんな大切。だから、マリアの道は、差別せずに、すべてをふところに受け入れていく道。神さまの夢は、いつも、もっと大きいことを知っているから、マリアの道は、神さまの大きい心に信頼して、あきらめずに歩んでいく道…だと、わたしは感じている。

 マリアのように、みことばに耳を傾け、心を開き、祈りつつ、一歩一歩、謙虚に歩いて行く。小さな者たちが、共に、歩いていく。神さまの夢の実現のために!

 祈りつつ

                           (岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年5月31日