・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」㉘「私」は「私たち」でない?-京都の大浴場で考えた

 うわさには聞いていたが、目にするのは初めてだった。

 2月下旬、学会出席で久しぶりに訪れた京都での出来事だ。錦市場で食べたみたらし団子の味は驚くほど味がなかったな――などと考えながらホテルの大浴場へ入った。そこで遭遇したのは、水着で入浴するという外国人女性ペアの蛮行だった。

 同じ東アジアからの旅行客と見えた2人は、水着のままボディーソープを体に塗りたくり、それをシャワーで軽く流しただけで湯船に体を沈める。これを文字にしただけでは、さほどの違和感は生じないかも知れない。しかし、彼女たちの様子を実際に目にしてしまうと、裸の身には著しく不快だった。湯が石鹸で汚れる、不潔だ、とにかくマナー違反だ――と、「なぜそれが問題か?」を胸の内であれこれと理屈建てしてみたが、とにかく甚だしく不快なのだ。

 大浴場に居合わせた数人の日本人客は、誰も彼女たちと同じ浴槽に入ろうとはしない。お湯につかるのをあきらめて、帰ってしまう年配客もいた。誰かがフロントに通報してくれたおかげで、しばらくするとホテルの従業員が大浴場に姿を見せた。スタッフに注意を受けた2人は、すごすごと脱衣場へと退散して行った。ようやくホッとした空気が浴室内に広がり、「私たち」はゆっくりくつろいで入浴を楽しむことができたのだった。

 日本のマナーを守らない外国人に、「私たち」は不快な思いをした――と、ここまで書きながら、私自身が「私たち」でなかった経験をしたことを思い出した。

 あれは英国中部の街に暮らしていた頃、市内にオープンしたラーメン店で久しぶりの日本の味を堪能した時のことだ。結構な人気を博していた店内は、英国人であふれており、日本人は私ひとりだった。注文した味噌ラーメンをおいしくいただいたのだが、店内が妙に静かなことに気がついた。

 周囲を見回して驚いた。英国人はみな、音を立てないように細心の注意を払って麺を口に運び、汁はスプーンで静かにすくって、それが西洋料理のスープであるかのように「マナー」を守って飲んでいた。器を手で持ち上げ、音を立てて汁をすするという暴挙をしでかした私は、赤面する思いだった。日本人である私が、日本流の料理を、日本式に食べても、その地が英国だということで、私自身は「私たち」でなかったのだ。

 東京でも似たような経験をした。和風スパゲティを出すという専門店を初めて訪れ、明太子スパゲティを注文した。運ばれて来た料理は十分に食欲をそそるものだったが、添えられていたのは割り箸のみだった。「箸でスパゲティを食べてもおいしくない! フォークを持ってきて」と従業員に私は求めた。私の隣席にアングロサクソン系の男性が座っているのに気づいたのは、店員を呼んだ後だった。彼はペーパーバックを左手に、割り箸で優雅にスパゲティを食べ進めているではないか。もちろん、他の大勢の日本人客と同様に。ここでも私は、「私たち」でなかったのである。

 この4月から日本は、日本人と外国人が本格的に共生する社会へ大きな一歩を踏み出す。「私たち」は、さまざまな人々から成る「彼ら」と共に暮らすことを求められる。多文化共生と口にするのは、たやすい。だが問題は、大浴場やラーメン、スパゲティだけにとどまらない。異文化が交錯するトラブルを乗り越え、習慣とマナーを共有する必要がある。

 そんな社会に、「私たち」の私はきちんと適応できるだろうか? 同じ日本に長く暮らしながら、薄味のみたらし団子に首をひねってしまう自分に間口の狭さに、私はまだ覚悟を決められないでいる。

(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が昨夏、文庫化されました。クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中

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2019年2月28日