・三輪先生の時々の想い③平成が始まった日..

  平成の大晦日にこれを書いている。

 1989年1月8日、昭和が終わり平成が始まった朝まだき、そぼ降る雨の湘南辻堂海岸を、私は万感の想いを胸に、ひたすらハッシハッシと波打ち際を裸足で走っていた。

 先の戦争で特攻死した長野県立松本中学校の先輩を悲しく思い起こし、哀れに想っていた。また敗戦と共に予科練から、白い飛行機乗りのマフラーを与太者風に巻いて教室に帰ってきていた、あまり出来のよくなかった同級生の事を想っていた。

 銃後にいた僕ら中学3年生は、芝浦タービンが松本市の郊外、笹部の飛行場に隣接して新設した工場で、飛行機のための過給機を生産する一端を担っていた。昭和20年8月15日の正午、敗戦詔書の「玉音」放送を現在の安曇野市穂高有明の疎開先であった母の姉夫婦の赤沼医院で聞いた。

 昭和天皇との「深い」関わりは、この終戦記念日と、裕仁天皇崩御の放送を聞いた時だった。その頃、私は海遊びのための部屋を、辻堂海岸へ100メートルぐらいの所に持っていた。絵を描いたり論文を書いたり、体を鍛えたりしていた。

 天皇が亡くなられたのは昭和64年 1月7日のこと、勤務先の上智大学も年末からの冬休み中で、私はこの海辺のマンションの1室にいた。天皇崩御のニュースを聞いてから、この天皇の御代を昭和4年に誕生し、ちょうど還暦を迎える年回りになっていた昭和64年の私が、納得出来る弔い方が有る筈だった。

 自分の気持の赴くままに海岸に出て漁師小屋の軒下で身包みすべてを脱ぎ捨て素っ裸になった。そして波打際をひたすら走った。禊のつもりであった。そぼ降る雨は、真冬の1月上旬としては、肌に優しく温もりさえ感じるほどだった。ハッシハッシ、ワッショイワッショイと走り続けた。

 その営みは昭和の御代に対外戦争で命を落とした人々への鎮魂と、平和への燃えるような祈念の賜物であった。

(2019 年4 月30日記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授・元同大学国際関係研究所長)

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2019年4月30日