・三輪先生の時々の思い➀「特攻死は自殺にあらず」-イエズス会士と川端康成は同じ論理だった

 以前に私のアメリカ留学時代の経験として倫理学特殊問題の教室で、イエズス会神父の裁断について書いた記憶がある。それが本紙の為であったかは定かではないのだが。それは太平洋戦争末期に起こったいわゆる「特攻」作戦についてであった。

 神父で教授の先生が「特攻作戦で死んだ日本軍の兵士の死は自殺であったか、それとも通常の戦場の死と同等であったか」との設問を、まだハイティーンに過ぎない若者も交じっている教室で発したのである。そこはワシントンのジョージタウン大学であった。学生はほとんどがアイルランド系のカトリック信徒である。男子校であり、みんなそれぞれの信念のもとでマッチョを建前としていた時代の事である。

 「自殺」はキリスト教では、「大罪」であり、死後の行き先は懲罰の地獄である、とされていた。神父による葬儀はご法度で、かような死に方を選んだ者の亡骸は、村はずれの細道の十字路の真ん中に埋められ、通行人の土足で蹴散らされるようにされていた。

 特攻は私にとっては「英雄死」であって、当時のアメリカの男性文化のなかでは、やはり「勇気ある者」の「名誉ある死」でなければならなかった。それを裏書きするように、突っ込んだ米空母の甲板上に投げ出された日本軍人をアメリカ人艦長が、アメリカ軍人の名誉ある死と同等にあつかって、「国旗」-おそらく特攻兵士がたすき掛けにしていた日章旗-に包んで栄誉ある水葬にしたというエピソードが伝わっている。

 そこに働いていた倫理は、私がジョージタウン大学で習ったと同じ論理であった。「特攻死は自殺ではない。なんとならば、特攻兵士の目的は敵艦を撃沈する事であり、その手段は自分が座乗している航空機を激突させることである。その結果として、死は予測されるが、目的ではない。」ということであった。

 男性文化がマッチョで固まっていた1950年代の事、それに護られて軍国主義時代の教育の尻尾が完全に切り離されていなかった私にとって、その裁断は「詭弁」そのものに聞こえた。しかしキリスト教を土台とする倫理学で「自殺」に非ず、と裁断されて、ほっとしたのも事実であった。御国のために命を捧げた特攻兵士等が地獄に落ちるなど到底、肯んじることなど出来ない相談であったから、私は救われた想いであった。

 それから幾星霜。「特攻死は自殺であったか否か」という命題も遠い昔の事になっていた。それが最近、忽然と意識にのぼった。

 あの日本のノーベル賞作家として第一号であった川端康成が、私が英語では嘲笑的に使われる「詭弁」の代名詞のような「ジェズイティカル」と呼んで憚らない知識人もいるだろう、と予想される論理で、特攻兵士の死に言及しているのを発見したのである。それは敗戦の翌年1946年の7月『婦人文庫』に「生命の樹」と題して発表された小説においてであった。

 そこには九州の特攻基地で働いていた若い女性の主人公の言葉として、こう記されているー「強いられた死、作られた死、演じられた死ではあったろうが、ほんとうは、あれは死というものではなかったようにも思う。ただ、行為の結果が死となるのであった。行為が同時に死なのであった。しかし、死は目的ではなかった。自殺とはちがっていた」(『戦後占領期短編小説コレクション(1)1945-46年』、藤原書店、2007年、96頁)。

 私が1954年頃に、アメリカの大学で、倫理学の特殊問題として、イエズス会士の神父で教授のヒュウ先生から学んだ「特攻死は自殺に非ず」の論理構成は、日本国敗戦の翌年発表された作家、川端康成の論理と全く同じなのであった。後にノーベル文学賞を受ける川端は、敗戦翌年のこの時、46歳であった。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

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2019年2月28日