Sr.岡のマリアの風 ㉒パパ・フランシスコと共に… 独り言アラカルト…(新)

 また、土曜日、「マリアと共にお手紙デー」が来た。他の日より、「ちょっぴり」、違う日。

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 この「ちょっぴり」という言葉。わたしは、けっこう、使うらしい。意識していなかったが、ある時、ポーランドからここ、本部修道院に派遣され、日本語を勉強しているSr.Tから、「シスター、『ちょっびり』って何ですか?」と、聞かれた。

 (わたしが思うに)「ちょっぴり」は、「少し」とは、まさに「ちょっぴり」違う(あくまで、わたしのこだわりだけれど)。わたしが、昨日よりも、今日、もうちょっとだけ、イエスさまに近づきたい、昨日よりも、もうちょっとだけ、目覚めて、ミサに行きたい、イエスさまに、姉妹たちに会いに、出て行きたい。昨日よりも、もうちょっとだけ、「みことば」に留まりたい。…「ちょっぴり」だけ…

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 それは、「どーせ、たくさんは出来ないから」…という、「あきらめ」とも、違う。「あきらめ」は、パパ・フランシスコが何度も言うように、「停止してしまう」こと、さらには、自分だけでなく、周りの人の善意も「ストップさせてしまう」こと。

 だから、パパ・フランシスコの中で、「あきらめ」はすでに「罪」である。人々の希望を摘み取ってしまうから。さらには、次の世代の人々に何も残さないどころか、自分が歩いた跡に、「不毛」、「荒廃」を残すから。

 「あきらめ」は、「ちょっぴり」進むことも拒否する。「ちょっぴり」前に進む、とは、(わたしによると)自分の弱さ、限界という現実に気づき、それをありのまま受け止めながら、周りの姉妹たち兄弟たちの弱さ、限界という現実に、ちょっぴりやさしくなって、どうにかして一緒に前に進みたい、という望み、希望から生まれる、「現実の一歩」だ。

 パパ・フランシスコは、「…したい」の状態で留まっていてはだめだ、と繰り返す。

 心の中の希望を消さない、とは、あきらめずに、小さなことを、普通の日々の中で、信じてやり続ける、具体的に「出て行く」、手を差し伸べる、声をかける、ほほえむ、善いことのために「手を汚して」働く…ということである。

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 パパは、今年の1月1日、神の母マリアの祭日に、神が「本当に」人となったことの神秘を思い巡らす。本当に人となったイエス・キリストに従うとは、「具体的に」この世界を、より「美しく」「住みやすく」するために、出て行くことだ、と(そのような内容のことを)訴えた。

 パパは、神が、真実に、マリアの胎の中で人間の肉を取り、「人となった」、その時から、もはや、神と人とは切り離せない、「もはや、人間なしに神はいない」とまで言い切る。

 この地の、苦悩の中にも希望する民を前にして、パパは、神が人となったのは、「わたしたちと共にいる」ためだけでなく、「わたしたちのように」なるためだ、と言う。神が、わたしの痛み、涙を、ご自分の痛み、涙として「経験する」ことが出来るように…。わたしたちを絶えず驚かす、神の心!(以下、試訳)

 「マリアが「神の母」であるということは[…]主がマリアの中で受肉したときから、その時から、そして永久に、主は、ご自分がまとったわたしたちの人間性を運んでいるという真理です。もはや、人間なしに、神はいません:イエスが、母から取った肉は、その時も、そして永久に、彼のものであるでしょう。「神の」母と言うのは、わたしたちに次のことを思い起こしています:神は、人の近くにいる-幼子が、彼を胎の中に運ぶ母の近くにいるように-。

 用語「母」(mater)は、用語「物体」materiaにも関連しています。天の神、無限の神が、彼の母の中で、自分を小さくした、自分を物体とした―「わたしたちと共に」いるためだけでなく、「わたしたちのように」なるために-。これこそ、奇跡、これこそ、新しいことです:人間はもはや一人ぼっちではありません;もはや、決して、孤児ではありません。永遠に、子です。そしてわたしたちは、マリアを、「神の母」と呼んでたたえます。わたしたちの孤独が打ち負かされたことを知るのは、喜びです。わたしたちが、愛されている子であると知ることは、このわたしたちの幼年期(子であること)は、決して取り除かれないと知ることは、美しいことです。… 」

 復活のイエスが、その体に、「傷」-十字架の傷―を運んでいた、という神秘を思い巡らすたびに、みじめな罪びとであるわたしたちは、ありがたさのあまり、涙を流さないではいられない。イエスは、「強い」「健康な」わたしたちに会うために、出て来たのではない。イエスは、「この」、弱い、罪に傷ついたわたしたちに会うために、出て来て、降りて来て、降り尽くしてくださった。この、疑いもない「真実」は、何という大きな慰めであることか。

 慰め…なぜなら神は、人間の、わたしたちの、わたしの罪に「つまずかない」「驚かない」から。神は、わたしたちの弱さ、傷つきやすさを知っているから。神は、わたしたちの疲れ、渇き、苦悩を、「生きて」「経験して」知っているから。

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 今週は、わたしにとって、チリ、ペルーを司牧訪問中のパパ・フランシスコの、「強烈な」言葉の一つ一つに触れ、心打たれ、涙を流した時期だった。自分のみじめさを思い、足りなさを思い、その「みじめなまま、足りないまま、傷ついたまま」で、「出て行ってください」、と懇願するパパの言葉をかみしめた。

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 パパは、チリで、司祭、修道者たちに話しかけた。司祭による未成年の性的虐待事件という、何か内にくすぶっていたものの「現れ」でもあった事実を前に、信頼を失いつつあるチリの教会、道を歩いていたら人々に中傷されることさえある司祭、修道者たちに。

 パパは彼らと共に、聖書の言葉を味わう。パパは彼らと共に、聖書が示す、ペトロと共同体の「信仰の歩み」を辿った。
自信のあったペトロ…世の常識を知らない「先生」(イエス)を守ってあげなければ、と頑張っていたペトロ、「先生」が弟子の足なんか洗うもんじゃない、と抵抗したペトロ、「先生」のためなら命も捨てる、と宣言したペトロ… 落胆したペトロ… それなのに、「先生」を裏切った。「先生」を見捨てた。自分の弱さ、限界を経験して、打ちのめされたペトロ。

 そして、ゆるされたペトロ… 復活したイエスはペトロに、「この人たち以上に、わたしを愛しているか」と問いかける。ペトロは、「はい、愛しています」と言うが、イエスは、さらに同じ質問をなげかける。最後にペトロは、「あなたは何もかもご存知です…わたしが、あなたを愛していること、それでも弱さに負けて、恐れて、あなたを裏切ってしまったこと。それでも、それにもかかわらず、あなたを、何にもまして愛したいことを…」。

 この、ペトロの、ありのままの、「へりくだった」告白を、イエスは聞きたかった。教会の頭(かしら)であるペトロが、自分の弱さ、限界を受け入れ、それでもイエスに従いたいという告白を。イエスは、その告白を受け入れ、彼にご自分の教会を託す。そして、まさに、イエスの、この「いつくしみに満ちあふれる心」によって、「変容される」ペトロ。

 ペトロは、初めて理解する。

 自分は「先生」に、「偉い人」が弟子の足を洗うなんて非常識だ、止めてください、と抵抗した。自分たちは、「先生」が受難に向かって歩いているときに、「自分たちの中で誰が一番偉いか」と、話し合っていた。

 ペトロは、初めて理解する。

 「偉くなりたい」なら、「小さく」なり、「低く」なり、「仕える」者となりなさい、という「先生」の言葉を。「先生」は、小さくなり、身をかがめ、自分たちの足を洗ってくれた。それは、「先生」の尊厳を低めることではなかった。イエスは、まさに、「そのために」世に来たのだ。

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 パパは、チリの司祭、修道者たちに言う。民が求めているのは、「規律」を厳格に守る司祭、修道者でも、高い所から命令する軍の司令官のような司祭、修道者でも、ない。

 民が求めているのは、自分たちのところに来て、自分たちの目を見て、自分たちと共に歩み、転んでしまったら、指さして非難するのではなく、黙って手を差し伸べ、また一緒に歩く司祭、修道者。苦悩のあまり涙を流すとき、弱さを見せるとき、自分たちのそばで、何も言わずに共に泣いてくれる司祭、修道者。イエスの「傷」を、自分の傷として運び、人々の傷、世界の傷の中に、イエスの傷を見ることが出来る司祭、修道者。そして、人々の傷、世界の傷を、唯一、それを癒すことが出来る方―イエス・キリスト-に運ぶことのできる、司祭、修道者である、と。

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 昨日の夜、本部修道院での月一度の「ルカ(わたし)の勉強会」があった。「勉強会」の前、いつも祈る。

 イエスさま、あなたが、このあなたの民に語りたいと望むことだけを、わたしに語らせてください。

 マリアさま、わたしが、主が望むこと以外を語るのを、決してゆるさないでください―どんなに美しい言葉であったとしても、理屈の通った教訓であったとしても―。ただ、主が、今、ご自分の民に語ることを望んでいる言葉だけを、わたしに運ばせてください。

 わたしの中に、善意ではあっても、よい意図ではあっても、「姉妹たちに、この人たちに、こういうことを分かってもらいたい。こういう状態だから、こういうことを言う必要がある」…と、「わたしの」欲が入ると、それはまさに、「高い所からの話し」になる。

 イエスが、受難に向かいながらエルサレムに入ったとき、民衆は歓呼して迎えた。その流れて神殿に入り、司祭や律法の先生たちの前で、何か「偉大なレクチャー」をすれば、ひじょうにインパクトがあったはずだ。でも、イエスは何をしたか…。神殿に入るなり、境内で商売している人たちを追い出し、机やいすを倒した。「神の家」は「祈りの家」だ、と言いながら。

 もっと「賢明に」、その辺のところは妥協して、神殿の中で、エルサレムの権力者たちに、当たり障りのない「良い話」をすることだって出来たはずだ。
でも、イエスは、そうしなかった。

 イエスは、だんだん、受難の「沈黙」に入っていく。神のみ心の中の、すべての人々の救いは、受難の沈黙の中で実現する。
永遠から、神とともに在った「みことば」は、わたしたちの救いのために降りて来て、その「誕生」のとき、「語らない」「みことば」-生まれたばかりの乳飲み子―となった。

 そして、その生涯の最後、「受難」のとき、再び、「みことば」は黙する。わたしたちの救いの、決定的な「時」は、沈黙の時である。神の「みことば」は、沈黙の中で、わたしたちに「語りかける」。

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 「沈黙」の中で語りかける神の「みことば」を運ぶ者となる。この、神のパラドックス(逆説)の中で、わたしたちも、沈黙に留まって、思い巡らさなければならない。マリアのように。十字架のもとに立つ、マリアのように。

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 わたしたちは何としばしば、「わたしはこう思う!」「そんなこと、あり得ない!」…と、主張したがることか。
パパは、今年の世界平和の日、世界難民移住移動者の日、バチカン駐在各国大使たちへの新年の挨拶…の中で強調する。「互いに受け入れ合う」ことは大切だ。でも、それでも十分ではない。「互いに認め合う」ことがなければ、と。

 「認め合う」とは、まさに、目の前の相手の、一人の人間としての尊厳、神の御手で造られた人間としての尊厳を認める、ということであり、それもどちらかが一方的にではなくて、相互に、ということだ。

 「そんなのキリスト者として当たり前」、と思うだろうか。そう、確かに「当たり前」。でも、この当たり前のことを、普通の日々の中で、自分の良心に照らしながら、神の「みことば」に照らしながら生きるのは、そんなに簡単ではない(少なくとも、わたしにとっては)。

 相手は、わたしにとってなくてはならない存在である、相手は、わたしが「総合的に」成長するために、絶対必要な「賜物」である、と互いに認め合う。この地を、この世界を、美しくするために、わたしたちは互いを、必要な「賜物」として受け入れ、認め合う。

 そうしないと、神の織りなす「唯一の作品」は、出来上がらない。この世界を、美しくするために、わたしたちは互いを、必要な「賜物」として受け入れ、認め合う。そうしないと、神の織りなす「唯一の作品」は、出来上がらない。

 救いの歴史の、唯一の織物。さまざまな材質、色が、それぞれの場所に織り込まれた、織物。神の御手による織物。しかし、人間の協力なしには、決して出来上がらない織物。神が人となった、その時から、神のわざは、人間なしでは完成しない。
神の唯一の望みは、全被造物が、創造の目的―「エデンの園」の調和、神のいのちの共有―に達することであり、神の姿、神に似た者として造られた人間は、全被造物を完成へと導く協力者としての任務を託されている。

 使徒パウロは言う。全被造物が、その完成の時を、呻きながら待っている、と。

 「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は神の子らが現れるのを、切なる思い出待ち焦がれているのです。被造物は虚無に服従させられていますが、それは、自分の意志にあらず、そうさせた方のみ旨によるのであり、同時に希望も与えられています。すなわち、その被造物も、やがて腐敗への隷属から自由にされて、神の子どもの栄光の自由にあずかるのです。わたしたちは今もなお、被造物がみなともに呻き、ともに産みの苦しみを味わっていることを知っています。被造物だけでなく、初穂として霊をいただいているわたしたち自身も、神の子の身分、つまり、体の贖われることを待ち焦がれて、心の中で呻いています。わたしたちは救われているのですが、まだ、希望している状態にあるのです。目に見える望みは望みではありません。目に見えるものを誰が望むでしょうか。わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです」(ロマ8・18-25)。

 わたしの好きな聖書の箇所の一つ。そうなりますように!アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2018年1月20日