Sr.岡のマリアの風 ㉑パパ・フランシスコとの旅

 パパ・フランシスコは、謙虚に、一歩一歩進んでいますね。

 時に、メディアには、パパ・フランシスコの言動は「パフォーマンス的」 に映るかもしれないけれど、パパの言葉を、一言一言 かみしめていくと、決して、「耳に心地よい」ことは、言っていませんね

 この世の「常識」は 時に、「だって、しようがないじゃん」「相手が悪いんだから」「わたしたちが、いっくら頑張ったって… …と言って、わたしたちに「あきらめ」の空気を伝染する。その「あきらめ」に、わたしが、わたしたち自身が、流されるに任せてしまうこと、それは「罪」だ、とパパは断言します。

 あきらめてしまう、とは、もう、今、わたしの住んでいるこの世界を、さらには、次の世代の子どもたちの世界を、「少しでも良くする」ために 何かをする」のを放棄する、というだから。それは、今も、世の終わりまで、「働いて」いる、創造主である神の協力者
としての人間の使命、責任を、放棄することだから。

 それにしても、日々、短い言葉でパパの行動、言葉を要約している、「バチカン放送局HP」は、さすがにプロですね!(わたしは「記者」という職業をひじょうに尊敬しています。「要約」がひじょうに下手だから)。

 わたしは、その素晴らしい記事を読みながら、その間、シスターたちのために、ぼちぼち、パパの言葉を一言一言、試訳しています。誰かの言葉を 批判 するなら、きちんと原文を読んでからにしろ!と、恩師にさんざん-6年間-言われ続けましたので この場合、「批判」というのは、ヨーロッパ的ニュアンスで、否定的な意味ではありません)

 1月16日の、司祭、修道者、神学生たちへの話も、ひじょうにパパらしい、一方で、謙虚さ、他方で、「出て行く」力を兼ね備えたものですね。こちらは長いので、そしてわたしたち修道者にズ~ンとくる内容なので、少しずつ訳すことにします。

 1月17日の、テムコ空港でのミサ。短いけれど-バチカン放送HPでも分かるように―、本質的にいきなり入る、強烈なメッセージですね。「分かっちゃいるけど、実行するとなるとね~」と、わたしたちが概して、心の中では「このままではいけない と思いつつ、言い訳しながら、「ぐずぐず」しているところを、ズバッと明らかにする…。

 それプラス、今日のミサの第一朗読。イスラエル人を、ペリシテ人に対する勝利へと導いたダビデに、嫉妬するサウル王…。「他人事」として、この聖書の箇所を読めば、サウル王を、「王であるのに、大人げないな~」と思ってしまうけれど、こういうこと、日々の何気ない心の動きの中で、多かれ少なかれ、ありますね(わたしだけ??)

 嫉妬に狂って、冷静な判断が出来ず、ダビデを殺そうなどと過激な結論まで出してしまうサウル王。

 「嫉妬」は、まさに、神がわたしたち一人ひとりに託した、一つひとつのユニーク、唯一の使命を見えなくしてしまいますね。…だから、「嫉妬、妬み」は、わたしを、神から分裂させる。

 サウル王は、主に「油注がれた者(メシア)」としての自分の使命-すべての人を一つに集め、神の「地」、神のいのちへと導く使命-を、まったく忘れています。というより、もしかしたら、心の底でわかってはいるけれど、認めたくない!という気持ちでしょう。
わたしは、わたしたちは、何と無駄なことに、神の時間を費やしているのでしょうか…

 サウル王から始まる、イスラエルの、主に油を注がれた王たちの歴史。その完全な実現である、大文字の「油注がれた者(メシア) イエスは、十字架に上げられながら、すべての人々を一つに集めます。

 何と、わたしたちの思いと、神の思いは、異なるのでしょう!
今日から、「キリスト教一致週間」。平和を脅かす「分裂」をもたらすもの。それは、まさに、「善いことをした」ダビデを妬み、殺そうとまでする、サウル王の「心」―嫉妬、妬み-ですね。

 聖書学者A. Vanhoye枢機卿は、また、このサウル王の心を落ち着かせ、主が彼に託した「王であること」の意味を静かに諭す、彼の息子、ヨナタンのしたことを、「和解」の素晴らしい模範だ、と指摘しています。まさに、一致、平和を助けるのは、暴力ではなく、相
手を思いやる心から発する真理の言葉ですね。

 パパは、テムコ空港のミサの中で、パパの「口癖」の一つ、わたしの好きな言葉を伝えています。平和を造りだすのは、「手職人rtigiani だ、平和は、異なる糸を一つ一つ味わいながら(一つ一つの糸に「聞きながら」)、少しずつ、忍耐強く、一つの調和のとれた織物を織っていくようなものだ、と。だから、平和は、「手作業」「手作り」。機械による大量生産や、机の上だけの精巧な理論では造り出せない、とパパは強調します。

 平和は「手作業」…だから、「対話」。だから、「相手」のところに「出て行って」、その人が住んでいるところ、生きている場に行って、その人の話だけでなく、その人「自身」に聞くこと…

 パパ・フランシスコは、さらに、相手を「受け入れる」だけでは十分ではない、と言います。相手を「認め」なければならない、相手の、人であることの尊厳を認めなければならない、互いに「認め合わなければ」ならない、と。

 これって、まさに、パパ自身が行っていることですね。今、チリで「出て行って」、その人たちの「地」に自らを置き、美しいことばかりでなく、その人たちの涙、苦しみを「聞く」こと…

 パパは、テムコ空港でのミサに集まった人々に、共に祈るよう、呼びかけます。「主よ、わたしたちを、一致の職人としてください」«Signore, rendici artigiani della tuaunità»

 わたしが、ぼちぼちと、せっせと、いろいろな「試訳」をしているのを、「すごいバイタリティー!」と感心してくださる、心優しい友人たちがいます。でも、わたしの中では、そんな大げさなことでも、尊敬されるようなことでもなく、今日のわたしの使命を、不器用に、少~しずつ、生きている、という感じです(こう言うと、また「謙遜な…」と「誤解」されるかもしれませんが、これって、すべての善意の人たちが、毎日、しようとしていることと、まったく同じです)。アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2018年1月18日