Sr.岡のマリアの風 ⑳2017年終わりの「独り言あれこれ」

パパ・フランシスコと共に…仕えること(奉仕)と、交わり(コムニオ)を生きること

2017年度、待降節・降誕節を、パパ・フランシスコと共に過ごしながら-パパの言葉、任務に、インターネットを通じて寄り添いながら-、繰り返される幾つかの言葉が、わたしの中で響く…

 パパ・フランシスコと共に、受肉の神秘に奥深く分け入る中での「独り言」…

・限りなく、無償で、わたしたち人間に愛を注ぐ父である神は、御子、イエス・キリストの中で、わたしたちが見、聞き、触れることが出来るものとなった。

・御子、イエス・キリストは、わたしたちのため、わたしたちの救いのために、インマヌエル 「わたしたちと共におられる神」 となった。罪を除いて、わたしたちとまったく同じ者、同じ肉をまといながら。
わたしたちは、主の降誕の神秘の中に、人間の知恵では想像もつかない、神の「やり方」を見る-わたしたちのために、貧しく、身分の低い者となって、ご自分のために「宿屋に場所がない」この世に降りて来た神―・わたしたちは、この、柔和で謙遜な「幼子イエス」を、今、世界中で、「宿屋に場所がない―生きるための場を奪われた-」たくさんの子どもたちの顔の中に、見る。(パパは、具体的に、中東、シリア、イエメン、イラン、アフリカ…の子どもたち、両親に仕事がない子どもたち、さまざまな形で搾取され[人身売買、少年兵… 幼年期を奪われた子どもたち…と例を挙げている)。

・わたしたちは、聖霊に照らされて初めて、この貧しくへりくだり、飼い葉桶に寝かされた「幼子」の中に、わたしたちのただ中に降りて来た「救い主」を見分けることが出来る。

・幼子イエスは、わたしたちの心を開く…この世の価値観ではなく、「神の価値観」へと。富、権力、名誉、快楽、安心を求める生き方ではなく、自分の一番大切なものを、神のために、人々のために捧げ尽くしていく生き方へと。

・幼子イエスは、わたしたちに悟らせる…無償のいつくしみ深い愛である神の御手の中で作られた人間は、「他者」より優れた者になることにではなく、「他者」のために-神のために、人々のために-自分の大切なもの、命までをも分け与えて行くことの中に、真の「幸い」を見出すことが出来ることを…。

 幼子イエスは、わたしたちに悟らせる…神の「姿-イメージ-」を、自分の存在深く印されている人間は 相手の富を搾取したり、相手の心を独占しようとしたり、相手の名声、権力をねたんで陥れ、自分がトップに立とうとしたり、決して満たされることのない快楽を求めたりする「生き方」の中で、決して、本当の「幸い」を見出すことが出来ないことを。

・「世の初めから」「永遠から」神の傍らで、神の栄光をまとっていた「みことば」は、聖霊の働きによって、ナザレの貧しい、身分の低いおとめ、しかし同時に、「永遠から」神の母となるために望まれ、準備され、神の恵みに満たされていたおとめ、マリアの胎の中に宿った。飼い葉桶に寝かされた、人となった神の「みことば」には、当然まとうべき「神の栄光」はないけれど、その代わりに、マリアとヨセフの、人間の親としての気遣いに「まとわれ」、貧しいけれど、神の救いの知らせに「目覚めて」いた羊飼いたちの喜び、遠い国から、すべてを置いて救い主を拝みに来た、東方の博士たちの喜びに「まとわれ」ている

・長い間、イスラエルの民が待っていた「救い主」が生まれたのに、王、権力者たち、学者たち、祭司たちは、飼い葉桶に寝かされた貧しい幼子の中に、それを見分けることが来なかった。

・今日、「わたしたちのために、救い主が生まれた」。それは、わたしたちが想像するような場所、姿(王宮の中、立派なベッドの上、召使たちに囲まれて…)においてではなく、わたしたちの「すぐ近く」に、わたしたちの共同体の中に、町の中に、国の中に、忘れ去られている人々、排斥されている人々、苦しむ人々の中に…。

・今日、わたしたちも、羊飼いたちと共に「出て行こう」-「さあ、立って、天使が告げたこと(飼い葉桶に寝かされた、救い主)を、見に行こう!」-。

 パパは、教皇庁恒例の、降誕祭挨拶(Auguri Natalizi della Curia Romana:2017年12月21日)や イタリア神学会Associazione Teologica Italianaへの講話(2017年12月29日)の中で、さまざまな意味で、教会を導く立場にある人々に、「仕えること」-「交わり(コムニオ)の中で生きること」を強調している

 教会のトップに立つ者は、「社会常識」の中で考えられている、トップに立つ者の姿とは、全く違う。自分の権力をひけらかすことにではなく、「仕えること(奉仕すること)」の中に、教会の指導者たちの権威の表現が、ある。

 何に仕えるのか?―「交わり(コムニオ)」に仕える。互いの(指導者たちの間、神学者たちの間)交わり。神の民-教会-との交わり。
ペトロの任務を継承する、教皇との交わり。三位一体の「交わり」の神との、交わり。「交わり(コムニオ)」の神秘を深めることにより、「仕える」ことの神秘が深められ、「仕える」ことの神秘を深めることにより、「交わり」の神秘が深められる。

 「仕える」ことも、「交わり(コムニオ)」も、キリスト者にとって、根源的な「神秘」である。なぜなら、主イエス・キリストが、「仕える」ため、散らされた神の子たちを「一つに集めるため-交わりの中に-」、わたしたちのただ中に降りて来たのだから。ご自分の命を、徹底的に、根源的に、すべて、神である御父の救いの計画のため、わたしたちの救いのためにささげ尽くしながら。

 別の機会に、パパ・フランシスコは、教会の中で責任ある立場にある人々は、この世の「出世主義」に毒されないように、と繰り返し訴えている。教会の中での任務は、「出世」のためではない。今はこの役職だから、次の異動のときには、もっと「上の」役職をもらえるだろう、あの人より、この人より、早く「出世」できるように…と考えるのは、「この世の」メンタリティー、「出世主義」の考え方である。

 教会の中で、一つ一つの任務、役職は、それが大きいものでも、小さいものでも、みな、同じ「奉仕」である。教会の中で、肩書のある役職から、肩書のない「下働き」に移された、と文句を言う人には、こう言いたい…とパパは言う…。何も心配しないでください。あなたはただ、一つの「奉仕」から、もう一つの「奉仕」へと移っただけです、と。

 またパパは、イタリアの神学会への講話の中で、神学は、「交わり」のための「奉仕」であるから、教会共同体の交わりの中で、神の民に「分かるように」、「善い知らせ」-福音-を伝えてください、と訴えている。

 この、複雑にさまざまな思惑が絡み合っている現代社会に生きる人々に、複雑な話ではなく、「単純な光」に照らされた「善い知らせ」を伝える。…誤解してはいけないと(わたしは)思うが、人々に「分かるように」とは、「簡単に」という意味ではないだろう。キリストの福音は、ある意味で、「簡単に分かるものではない」からだ。キリストの福音は、こう言うことが出来るなら、人間の思考回路に対して、常に、「パラドックス(逆説)」として映る。

 イエスは、人々に「分かるように」、たとえ話で話した。しかし、この、たとえ話にしたって、「簡単に分かるものではない」。ルカ福音書が伝える、神のいつくしみに関する、三つのたとえ話―失われた銀貨、見失った一匹の羊、放蕩息子のたとえ話―にしたって、物語としては「分かりやすい」が、その奥に隠されている真理は、決して分かりやすくない。

 無償の愛を注ぐ父と、その父の愛を、自分の快楽、利益のために使い、父を裏切り、一文無しになって帰ってきた息子を、駆け寄って抱きしめ、再び、息子としての尊厳を与え(上等の服、指輪、靴…)、宴会まで開いて喜び合う父。それに腹を立てて、宴会に来ようとはしない、もう一人の息子を、わざわざ外に迎えに行く父。…これは、決して「分かりやすい」話ではないだろう。

 神の民に「分かるように」伝える、という神学の、神学者の務めとは、神の民を「子ども扱い」することではなく、分かりやすい言葉を使いながら、人間の知恵では、決して理解し尽くすことの出来ない、神の「知恵」の深みに、少しずつ、へりくだって、忍耐強く、そして、神学者自身も、神の民の一人として、民と共に、交わりの中で、入っていくことだろう。

 キリストの復活の霊、聖霊だけが、わたしたちを、人間の知恵を超える神の「知恵」へと開く。まさに、「聖霊に導かれた(動かされた)」老シメオンが、貧しい両親―ヨセフとマリア-に連れられて、神殿に入って来た「幼子」の中に、イスラエルの民が長年待望していた「救い主」を見分けることが出来たように。わたしたちも、日々の、一見、普通の、取るに足りない出来事の中に、「わたしたちと共におられる神」-インマヌエル-を見分けることが出来るように。

 神の民は、決して「子ども」ではない。神の民、一人ひとりの中で働く聖霊が、「分かりやすい」言葉で語られる、深い神の神秘を、少しずつ理解させていく。だから、大切なのは、神の民一人ひとりが―指導者も、司祭も、神学者も、修道者も、信徒も-、おとめマリアの、へりくだって、率直に、神の「みことば」を心に受け入れ、留め、思い巡らす態度を、自分のものとすることだろう。

 おとめマリアの「思い巡らし」は、単に、目の前に起こる出来事を考えるだけにはとどまらない。マリアは、彼女自身の民の伝統-数千年のイスラエルの民の信仰の旅から来る知恵―と、現実を対比させながら、今、主が自分に望んでいること、主の「思い」を理解しようとする。それを、より良く生きることが出来るように。

 これこそ、神との深い交わり―「子」、「友」としての交わり―に招かれている、神の民の「信じる」態度だろう。単に、何かが天から落ちてくるのを、または誰かが教えてくれるのを待っているのではなく、自分の方から、神の思い、望みを探し求め、それを生きようと積極的に努力する。それがつまり、聖霊に心を開いている状態、と言えるだろう。

 マリアは「教会の姿―イコン-」とも呼ばれる。マリアは、「アルファ(初め)」から、「オメガ(終わり、完成)」へと向って、日々の
歩みを続けている、神の民の壮大な旅の「小宇宙(ミクロ・コスモ)」とも言われるイスラエルの娘、シオンの娘であるマリアの、神の民を代表した、あの「はい(フィアット)」が、わたしたちのための神の救いの計画の「決定的実現」の始まりを印した。あの、マリアに代表された神の民の、積極的な、意識ある、責任ある「はい(フィアット)」がなければ、全知全能の神でさえ、ご自分の計画を実現できなかった。

 …では、神は、「不確実性」にかけたのか?そうではない、と、教会の伝統は教える。神が、ご自分の民の娘の「はい(フィアット)」を「必要」としたのは、神が、それほどまでに、人間を尊重し、信頼しているから、と言えるだろう。実に神は、天地創造の「初め」から、数千年という膨大な時間をかけて、この、救いの歴史の中で唯一の「はい(フィアット)」を準備したのだ。神は、不確実性にかけたのではなく、こう言うことが出来るなら、絶対に確かな、決して撤回されない「はい(フィアット)」を準備するために、ご自分の民を教育した。神の前で、わたしたちの世の千年は一日に等しい、と、詩編作者は歌う。神の、わたしたちに対する忍耐、いつくしみ深さは、とてもわたしたちが想像することは出来ない。

 新しい年、2018年が始まろうとしている。自分に出来ることを、日々、忠実に続ける中で、聖霊に動かされて、わたしたちのただ中
におられる主―インマヌエル-の現存に、つねに目覚めていることが出来るように。主の望みを、「普通の日々」の中で、へりくだって、喜んで、行っていくことが出来るように。

 そのためには、毎朝、共同体と共にミサ聖祭の始まりに捧げる 「主よ、あわれみたまえ」の祈りに、全身全霊を込め、主に絶えず赦しの恵みをいただきながら、自分のみじめさ、罪深さを涙すると同時に、無償で、真に「神の子」としての尊厳をいただいたことに感謝しながら、喜んで、前に進んで行こう。「赦された者たち」の共同体の交わりの中で。

 また、自分の生きている間のことだけを考えるのではなく、次の世代、後輩たちのために、自分自身が受けてきた教えを、語り継いでいこう。唯一の霊に導かれ、たとえ文化、言語、考え方が違っても、唯一の歩み―神ご自身の永遠のいのち、交わりの中に入る歩み―を続けてきた神の民の中で、共に歩んでいくことが出来るように。「オメガ(完成の時)」に向かって…。このようにして、貧しいわたしたちを通して、すべての人々に、主の祝福が行きわたるように。地の果てにまで。アーメン!

 2017年終わりの独り言として…Sr.ルカ

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2017年12月30日