・菊地大司教の日記 (54)福音宣教省長官にタグレ枢機卿、おめでとう!

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 バチカンの重要な役所の一つである福音宣教省の長官が、交代することになりました。

 12月8日日曜日のローマ時間正午、教皇様は、マニラの大司教であるアントニオ・タグレ枢機卿を福音宣教省の長官に任命されました。タグレ枢機卿様、おめでとうございます。

 福音宣教省は、日本を含む宣教地域を管轄する役所で、伝統的にPropaganda Fideなどと呼ばれています。教会の福音宣教全般について、様々な調整や情報収集、研究を行う部署ですし、教皇庁宣教事業(Pontifical Mission Society)も配下に擁しており、世界宣教の日の献金を元に、宣教地の様々な活動を援助している機関でもあります。

 アジアの各教会は、キリスト教国とされているフィリピンを除いて、すべてが福音宣教省の管轄下にあります。したがって、日本を含む宣教国の司教の任命は、バチカンの司教省ではなくて、福音宣教省の枢機卿会議が事前の調査や調整を行い、福音宣教省長官が最終的に教皇様へ具申することになっています。

 バチカンの諸官庁は、バチカンにある事務局とメンバーと呼ばれるいわゆる委員で構成されており、そのメンバーの大半は枢機卿となっています。現在は40名ほどのメンバーが任命されています。その中に常に5名ほどの司教がメンバーとして含まれており、わたしも2014年から福音宣教省のメンバーになっておりますが、もう5年経つので、まもなくどなたか他のアジアの司教に代わることだと思います。

 タグレ枢機卿様、おめでとうございます。

 なおアジアから長官が選ばれるのは、ボンベイのディアス枢機卿が長官に任命されて以来、2度目です。

 (菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

2019年12月9日

・Sr.阿部のバンコク通信 ㊳バンコクの教皇-亜熱帯ならではの熱いミサに身も心も焼けた!

 タイ国の首都バンコクの上空に、11月19日夕~23日朝に掛けて、大輪の花火が見事に打ち上げられ続け、人々の心を魅了しました。フランシスコ教皇様がカトリック教会設立350周年を祝うタイ国を訪問、ドンムアン空軍飛行場に到着、歓迎と出会いの大祭典によるものでした。

 ベトナムから4000人、中国から1000の信徒、司祭の参加者他、近郊のアジア諸国から多勢の参加者。海外の司教53人とタイ国の枢機卿、司教15 人、屋外国際競技場、隣の競技場は4面大型スクリーンでの参加者で満場… 午後6時からのミサ、夜空に賛美と感謝が響き荘厳圧巻。亜熱帯ならではの熱い厚い感謝の祭儀、身も心も熱く焼けました。

 国王陛下、首相政府関係者、仏教界僧侶、宗教界代表者とそれぞれ親身な出会い、YouTube で見聞きし、中でも教皇様の言動を把握賛同した首相の挨拶賛辞には感嘆、うれしくなりました。若者との集い、神学生司祭修道者との出会いもありました。

 来泰決定が発表されたのは2ヶ月前、短い強行な準備期間で、カトリック司教協議会からバンコク教区、広報部…各関係機関へ、教会が軸になって国と政府機関にも交渉、手抜かりない細部に至る準備、動員力。タイ国のカトリックの”極小からし種”の威力を見せた出来事でした。

 全教区、バンコクの各教会の割当人数を遥かに超える応募者。残念組には教会が「大型画面で実況中継をお弁当付きで」とか、送迎時に「飛行場近隣の教会の信徒がひと目会えるように」とか、ヴァチカン大使館泊のパパ様が隣のカトリック総合病院訪問の折、「中庭を巡り、大勢の人が会えるよ

うに」とか、精一杯の配慮工夫がされました。

  日本から友人司祭が、あの熱狂が「一過性の打ち上げ花火」にならないように… と。タイと日本の上空に打ち上げられた特大曼荼羅、愛と命、真理と平和の福音の発信が、人々に受信→発信し続けられること信じ、祈っています。

 パパ様、この度は日本への途中バンコクへ寄り道して下さり、有り難うございました。

(阿部羊子=

あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2019年12月7日

・ガブリエルの信仰”見聞思” ①「日日好日」―典礼暦年を生きる

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、「日日是好日」(にちにちこれこうじつ)という禅語があります。単に文字通りの「毎日が良い日である」という意味ではなく、どんな雨風があろうとも、日々に起きる好悪の出来事があっても、この一日は二度となく、かけがえのない一日であり、この一日を全身全霊で生きることができれば、まさに日々是好日となる、という大概の禅的解釈になります。

 「日日是好日」は好きな禅語の一つですが、この言葉は一キリスト者の私にとって、典礼暦年を生きることのあり方、キリストを中心とした生活のあり方を指さ道しるべの一つです。

 大自然を導く四季があるのと同じように、教会は主イエス・キリストの生涯を中心に構成されている典礼暦に導かれています。待降節(アドベント)、降誕節(クリスマス)、四旬節、復活節(イースター)の主要典礼季節と「年間」と呼ばれるそれ以外の週間を通じて、教会は「一年を周期としてキリストの神秘全体を受肉と降誕から、昇天へ、ついで聖霊降誕日へ、さらに幸いなる希望と、主の来臨との待望へと展開しています」(カトリック教会のカテキズム、1194番)。

 人によって、あまりにもそれに慣れているため、典礼暦を単に教会の儀式に使われるカレンダー、あるいは儀式的装飾の一部として扱う傾向があるかもしれません。ローマ数字の文字盤をもつ装飾的マントル時計(棚に置く小さな置時計)のように、見栄えはよいが実際には誰も時刻を告げるのに使っていません。

 かつて私がそのように思っている時期がありました。普段の生活の中で様々な責務などを果たしたり、世のさわぎや価値観に従ったりして、世の基準に基づいた生活のペースやリズムがマイカレンダーの中心でした。

 しかし、使徒パウロがこう教えてくれます。「あなた方は、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい… 教えられたとおりの信仰によって強められ、あふれるばかりに感謝しなさい」(コロサイの信徒への手紙2章6-7節)、「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマの信徒への手紙13章14節)。それに従いたければ、まずは教会の典礼暦を生活に取り入れる必要があることに気が付きました。

 典礼暦は世俗暦の上に重ねて用いることができると思います。道路地図(世俗暦)へのオーバーレイ(重ね合わせ)としての物理的な地図または地形図(典礼暦)のようなものです。道路地図(世俗暦)はある地域内の道路を示しますが、物理的な地図や地形図(典礼暦)が示すような河川や丘の谷など、地域の物理的な性質を示すものではありません。典礼暦はわたしたちの世俗的な生活に信仰が重なっていることを示しています。

 私たちの日々の生活は、必要に応じて仕事、学校、親の責任など、様々な責務を中心に回っています。そのため、私たちの片足は常に正月から12月31日までの世俗的な時間にあります。しかし、私たちカトリック信徒には、待降節から始まり、王であるキリストの祭日で終わるもう一つの時間枠があります。この二つの時期の間の日々のミサ典礼(祝祭日、追悼など)と典礼季節は、私たちの信仰を貫くための道しるべとなってくれます。

 典礼暦年の初めに、私たちはキリストの最初の来臨を追憶するための準備とキリストの第二の来臨の待望からはじめ、そしてその最後に、王であるキリストを宣言しお祝いします。典礼暦では、私たちが倣うべき例として、キリストの御業をはじめ、聖母マリア、諸聖人の働きをしのびます。典礼暦の各日を顧みることによって、キリストの生涯や教えを日々の生活に取り入れることができます。それは主日(日曜日)のミサを超えて、私たちの信仰との日々のつながりと対話を与えてくれます。典礼暦の各日と各季節は、何かが異なる、輝かしい、喜ばしいものです。神さまを愛し、善良で神聖な生活を送る方法を、微妙にも明白にも教えてくれます。典礼暦は神さまに喜ばれるように、生活を秩序づけ、構造化してくれます。

 使徒パウロがこう勧告しますー「あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかを、わきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙12章2節)。私たちはこの世に生活していますが、この世に属していません。

 そのため、主イエス・キリストが私たちのために御父に祈ってくださいました。

 「私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ福音書17章14-15節)。

 私たちが霊的な体と調和して生きていなければ、生活は大抵より複雑で、不確かで、混乱したものに感じられます。私たちが神さまの子どもとしてキリストの御体と調和して生きるとき、神さまが私たちに何を望んでいるかを知ることができ、それを行うことができます。

  「今日、あなた方が神の声を聞くなら… 心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ人への手紙3章7節、詩編95章7-8節)。主イエス・キリストの第二の来臨はいつになるか、私たちには分かりません(マタイ福音書24章37‐44節参照)が、その「とき」は重要ではなく、むしろ、本当に重要なのは私たちが悔い改めを後回しにしないこと、そしてキリストを迎えるために準備しておくことだと思います。

 「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら)、夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」-親鸞聖人が詠まれたと伝わる和歌があります。桜は明日もまだ美しく咲いているだろう、と安心していると、その夜中に強い風が吹いて散ってしまうかもしれなません。

 日日是好日、この心構えをもって典礼暦年を生きていきたいものです。

 (ガブリエル・ギデオン =  シンガポールで生まれ育ち、日本在住のカトリック信徒)

2019年12月6日

・Sr.岡のマリアの風 ㊺長崎の教皇ミサー土砂降り…でもパパ様到着前に晴れ上がり…死ぬほど歌った

 ミサ、朝食が終わり、わたしたちも、これから小長井の山を出発します。毎朝、修道院のミサを捧げるために来てくださるY神父さま(長崎出身)に、教皇ミサに行くから(朝、早く出発するから) 栄光の賛歌」は歌わずに唱えましょうか?…と聞いたら、「王たるキリストの祭日ぞ!全部歌う!」とさすが…大先輩の信仰感覚、尊敬…結局、修道院での主日のミサの時間を30分、早くしました。外は曇り空。天気予報は「雨」。

 そう言えば、昨日の、会場(競技場)でのリハーサルで、聖歌隊指揮のH神父さまが、「みなさん、明日は雨です!」と宣言していました。やっぱり「長崎=雨」という連想は、つきものなのか…?朝食の食卓でシスターたちが、曇り空を眺めながら、 やっぱり雨降るかな~」と言っている。

 ふと、思う。聖書の中で、雨、露…は、神さまの みことば 神さまの「思い」、神さまの「望み」のしるし。だから、キリスト教伝統の中で、マリアさまは「雲」 「雨」、「露」である「みことば」イエスさまを運ぶ とか、「水源」 生ける「水」であるイエスさまを、この世にもたらす方 と呼ばれているなぁ…雨の多い日本人には、「恵みの雨」と言うと、なんとなく言い訳っぽいけれど、乾季には川も干上がるパレスチナ地方では、文字通り、雨は天からの恵みなんだ…

 それから、預言者エゼキエルの、神殿の幻視(ヴィジョン)のシーンも頭に浮かぶ。わたしたちは、今日、神殿の東の門から流れ出る水のように、エデンの園を潤す水のように、長崎の地、日本の地を、いのちの水」で潤そうと望んでいる神さまの、水の一粒一粒になるのかな~。

 もし、一日中雨が降ったら、シンプルな透明のレインコートで、どこまで頑張れるか…。お年寄り、子供たちに、少しでもやさしい天気になってください!主よ、あなたのお望みのとおりになりますように!

 H神父の言葉を受けて、わたしたちも「長崎の心意気」を捧げます…すべての人々と共に… 千人集めた」といわれる、聖歌隊の「一粒」として、パパさまに長崎の心意気を歌で伝えます!パパさま日本滞在中、日本の司教団のため、信徒の方たちのため、特別に祈ります…きっと、今日は、パパさまを待ちながら、ロザリオをたくさん捧げられると思います。行ってきます!

 今日は、何とも、不思議な一日だった。何よりも「冗談」みたいな天気で… 長崎に着いたころから、雨が強くなる。おにぎりとパン、水を持ち、リュックを背負い、その上から透明のレインコートを着て、車から会場まで歩く。会場は野球場だけれど、入場は隣のラグビー場から。朝、まだ早いのに、道路沿い、数メートルおきに、白いレインコートを着た警官が立っている。

 稲光、雷まで…。まさに、シナイ山での、神と民の出会いの時のように!(…と、大雨の中を歩きながら、わたしは思った)。猛烈な雨の中、おしゃべりしながら歩く余裕なんてない。とにかく、一歩一歩、歩く。昔、雨の中、こんな風に山に登ったっけ…。わたしと自然。わたしと神さま。一歩一歩を重ねていけば、やがては頂上に着くだろう、と。

 ラグビー場に近づくと、黄色いジャンパーを着た「スタッフ(ボランティア)」の方たちの姿が増える。とにかく、大雨の中 レインコート、傘、呼び合う声、「青いカード(スタンド席)の方は左、赤いカード(フィールド内)の方は右に並んで下さ~い」…という声が交差して…。すでに長蛇の列が出来ている。

 入場チェックの場所に近づくと、「カードと身分証明書を、すぐ出せるようにしてくださ~い」。やっと屋根の下に入るけれど、びしょぬれのレインコートを脱いで片手で持ち、おにぎりの入った袋を持ち、人ごみの中、リュックの中からカードと身分証明書の入ったケースを取り出すのに、また一苦労。シスター!こっち空いてますよ!と声をかけてもらい、おたおたと「本人確認」。そこからは、人の流れに沿って、会場へ。「聖歌隊の方は16番ゲートから入ってくださ~い」と、ボランティアの方が教えてくれる。

 聖歌隊席に着くと、当たり前だけれど、椅子も床もびしょぬれ。わたしたちも、すでにびしょぬれ状態。持ってきたごみ袋にリュックを入れて、「ソプラノ・シスター席」、前から二番目、横の方に座る(自分たちの歌の能力を考えると、最前列はちょっと…)。

 大雨の中でも、気温がそんなに低くなかったので、最初のうちはよかったが、1時間、2時間と過ぎると、だんだん寒くなってくる。レインコートと言っても、万能ではない。何より、靴がびしょびしょ。足が冷えてくる。でも、動くとまた、違う方向から水が入ってくる…。

 ロザリオを祈る時間がいっぱいある…と、思っていたけれど、レインコートの下の修道服のポケットの中に入っている、ロザリオを出すことも出来ない(さらに濡れるから)。手の指を折りながら祈る。神さまのお望みが、この日を、この時を満たすように…。フィールド内には、レインコートを着た車いすの方、小さな子供たちも見える。きっと寒いだろう。…主の祝福がありますように…。

 指揮のH神父は、山登りが好きなので、まさに山用の格好をしている。それでも、じっとしていると寒くなるのか、時々、ブルっと震えている。心配して、年配のシスターがカイロを持ってきたり、音響スタッフのおじさんが、上着を持ってきたり…。

 「だいじょうぶです、始まったら燃えますから」とH神父。テレビ局のインタビューにも、「この雨とも一緒に、神さまを賛美して歌います!」と言っている。このまま、雨が降り続いたら、どうなるんだろう。低体温になるよね~。内側からエネルギーを蓄えるために、とにかく何か食べよう。コッペパンを袋から出すと、口に入れる前に雨で濡れる。どこを向いても濡れるから、仕方がない。続いて、これまた雨に濡れたおにぎりを食べる。

 土砂降りの中、レインコートを着て、こんなに濡れたのは、昔、山登りの最中にバケツをひっくり返したような雨に会って以来…だと思う。…もう、我慢も限界か…と思ったころ、本当に、雨が小降りになってきた。強い風が一回ビュ~ッと吹く。それから、さわやかな風がさ~っ、そよそよ…と吹く。空が少し明るくなる。そして…太陽が出てきた 信じられない!びしょぬれになった楽譜を乾かす。体も、やっと暖かくなってきた。みな、レインコートを脱ぎだす。

 ごみ袋の中に入れていたリュックを取り出すと、なんと、水でぐっしょり。あまりの雨の多さに、ごみ袋の下から水が浸水していた。どうすることも出来ず(まだ、床は水がたまっているので)、リュックの中にもう一枚、ごみ袋を入れて、その中に中身を移して応急処置。入り口で渡された小さな旗(パパさま入場の時に振るはずだった)も、びっしょり。

 しばらくすると、青空も出てくる。太陽は、もう「しっかりと」出ている。自分の体の中から蒸気が出ているような感じ。少しずつ乾いてくる。パパさま到着前には、すっかり晴れ。「想定外」の天気。

 ついに、パパさまの入場!聖歌隊は「ビバ、ビバ、パパー、平和の使い!!」と、まさに満身で歌う。H神父は、ジェスチャーで、「もっと、もっと!」。パパが、「パパ・モービル」に乗ってゆっくりと会場を回る。時々、赤ちゃんにキスをして祝福するために、止まる。そのたびに、「わぁ~っ!!」と人々。パパのほほえみに、少しずつあたたかくなってきている体と一緒に、心もあったまってくる。パパさまと「一緒の空間にいる」ことの喜び。みんなと「共に」、パパさまと一緒に、ここにいることの喜び。

 パパ・フランシスコは、どこでも、ミサを捧げるときは、真剣そのものだ。当たり前だけれど、キリストに仕えているという、畏れと、キリストのみ前でのへりくだりが、あふれている。真剣勝負で、キリストの「いのち」-いのちのパン-を伝える。…そんな風に、わたしには思われる。

 パパさまの入場から退場まで、一時間半くらい…だっただろうか?とにかく、「死ぬほど」歌いました。大げさな…。でも、出せる限りの声を出して、歌いました。みんなで一緒に。もう、自分の声など聞こえません。みんなの声が、わたしの声になり、わたしの声が、みんなの声になりました。

 賛美の歌を通して、パパさまに「長崎の心意気」を捧げる、それだけが頭にありました。指揮のH神父さまは、汗びっしょり。正面の大画面は、音響設備の機器にさえぎられてよく見えず、ミサの説教も(字幕が見えなかったので)よく分からない。ミサの内容は、後で、ネットで見よう。今は、とにかく歌う。パパさま退場後も歌い続け、H神父の「最後の歌で~す。力いっぱい!」の掛け声とともに、「しあわせなかた、マリア」を歌い。そして最後の最後に、「アーメン!」と。力を使い果たし、それでも上に広がる青空のように、何かおおらかな気持ちで、感謝に満たされて。

 H神父は、「みなさん、これで終わりです。お疲れさまでした。どうぞ、ご自由におかえりください」と、シンプルにひとこと。いつも思うけれど、H神父は「仕える者」の姿そのもの。尊敬します。

 会場を出て、車が置いてあるところにたどり着き、フィールド内でミサにあずかっていた姉妹たちと再会。大画面で説教を「見ていた(字幕で)」姉妹たちに、どんな話だった?と聞いても、パパさまの「素敵な笑顔」、「赤ちゃんにキスをしたときの、やさしさにあふれた目」…のことばかり話している。

 そうなんだなあ~。「何を」話したか、よりも、どんな顔、表情、姿だった、ということが大切なんだな。言葉のメッセージは大切だけれど、それよりも、先に、イエスさまの「姿」の現われが、わたしたちの心を打つんだ。

 とても疲れているに違いない。それでも、パパさまは、目の前のキリストの小さな民(わたしたち)に、キリストのほほえみを運ぶ… 神さまが、この「小さな群れ」に心をかけてくださっていること、その神さまの「ぬくもり」を運ぶ…。

 わたしたちは、パパさまの中に、神さまがわたしたちを、わたしを大切にしてくださっていることを感じるんだ。…そして、そこから「派遣」されるわたしたちも、その「神さまのぬくもり」「ほほえみ」を運ぶ者とならなければいけない、ということを、思い起こしてくれるんだ。

 「ビバ、パパ!」で終わっていはいけないのですね。わたしたち、一人一人、神さまから、「ビバ、○○!」と呼ばれているんだ。「ビバ(Viva)!」とは、直訳すれば、「生きよ!」…。神さまが、預言者ホセアを通して、イスラエルの民に語りかけた言葉…「生きよ!…あなたは、わたしにとって、かけがえのない者。愛する者…」。そうやって、神さまは、わたしたちを呼んでいるんですね。…

 そんなことを考えていたら、「シスター!」と呼ばれる。振り向くと、神学校のM神父。「神父さま!上から(スタンド席から)見えましたよ!(聖体拝領のとき)。…冗談みたいな天気でしたね~。神学的にどんな意味があったのでしょう?」。M神父は笑いながら言う、「そうだね~。死を通って、復活かな~」。

 軽いタッチの会話だったけれど、突然、紅海を渡って、エジプトを脱出したイスラエルの民のことが、思い浮かんだ。水の中をくぐって、約束の地、出会いの地へ!びしょぬれのわたしたちを、太陽が乾かしてくれた。そして「出会い」の場、ミサに!…まさに、そんな経験だった。

 暗くなって、山の中の修道院に帰ってくると、待っていたシスターたちが、「シスター、聖歌隊で歌っているところ、テレビに映っていたよ!」と、自分のことのように嬉しそうに。中継ライブでも、映っていたらしく、友人たちから「シスターを見ました!」とメール、メッセージが届く。

 大画面が見えてなくてよかったね。(自分が映っているのが見えたら、カッコつけるじゃないですか。…無意識でも…)。自分が映っているなんて知らなかったから、無心に、ひたすら歌えたんだ。H神父の、汗だくの「熱指揮(?)」に共鳴しながら。

 朝食を食べた後、競技場のスタンド席で、雨に濡れたコッペパンとおにぎりを食べたきりでした。急におなかがすいてきた…。でも、パンやご飯は、もういい。野菜か果物が欲しい!…と、わがままなわたし。もう、修道院の夕食は終わり、片付けをしていたところだったのに、炊事場のやさしいシスターKが、「明日の朝食の大根、食べる?」と、持ってきてくれる。シスターYは、「みかん、食べんね!」と。…姉妹たちの心遣いに満たされて、千切り大根と、みかんを七個は食べたかな…。

 最後の最後まで、感謝!みかんを食べていると、テレビ中継で、もうすぐパパさまが 広島の平和記念公園に到着…と。みかんを片手にくつろいでいるわたし。淡々と使命を遂行しているパパさま。そして、周りで支えている人々…

 今のわたしに出来ることは…しっかりと、パパ・フランシスコのメッセージを読むこと…かな?それぞれの使命を、「あなたのお言葉通りになりますように!」と、シンプルに、しかし心を尽くして行っていくことが出来ますように!

 わたしたちの生活が、神さまへの感謝と賛美になりますように!アーメン

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2019年12月3日

・三輪先生の時々の思い ⑫教皇フランシスコの東京ドーム・ミサにあずかった

 11月25日、教皇フランシスコのごミサにあずかった。会場の東京ドームは満席だった。収容人員6万人のところ、祭壇などで5万人になっていた。日本人ばかりではない沢山の異邦人も参加されていた。我々家族の者5人のすぐ前には赤ちゃんを抱えた若いフィリピン人家族がいた。

 事情通によると日本人のカトリック信徒20万人のうちの1割が参加していただろう、という。席がとれたのはまことに幸運だった、と聞かされた。 それもかぶりつきのような場所だった。

 教皇は長崎、広島で特別ミサを司式され、命の大切さを訴えてこられ 核兵器を廃絶した平和実現への「不退転の決意」を示された。教皇は日ごろからアッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りをされておられる。
「主よ、私をあなたの平和の道具としてください 憎しみのあるところに愛を いさかいのあるところにゆるしを 疑いのあるところに信仰を 絶望があるところに希望を 闇に光を 悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください」

 我々一人ひとりに求められているのは、やはりこの祈りの実現に向けて一層努力する事であろう。(2019.12.1記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 

 

2019年12月2日

・菊地大司教の日記 53 使徒ヨハネ田中康晴神父様葬儀・告別式

2019年11月22日 (金)

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 東京教区司祭・使徒ヨハネ田中康晴神父様は、11月16日朝に、入院先の病院で帰天されました。84歳でした。

 田中神父様の葬儀・告別式は、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、11月20日午後に執り行われました。

 田中神父様は、1935年4月3日生まれ、1966年4月17日に司祭叙階。叙階後は様々な病気に苦しまれましたが、その困難な状況の中でも、ご自分ができる限りの力を持って司祭職を全うされました。面倒見の良い方だったとうかがっています。いろいろなところに喜んで連れて行ってくれたという話を、多くの方から伺いました。わたし自身は、東京へ赴任した2年前に、田中神父様はすでに入院されていましたので、一緒に働いた体験がありません。

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 東京教区は、先日の市川神父様に続いて、今年は二人の司祭を失いました。司祭は定年で引退したからと言って、または病気で引退したからと言って、それで司祭でなくなるわけではありません。叙階の秘跡は役職の有無に左右されないからです。病気にあっても、老齢にあっても、司祭は祈ることで司祭職は果たすことができます。その意味で、大切な働き手が、また一人、御父の元へ変えられました。田中康晴神父様の永遠の安息を、お祈りください。

以下、当日の説教の原稿です。

「神の計らいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」

人知を遙かに超えた全能の神は、私たちのいのちを支配されている。だからわたしたちは、神の限りない愛による計らいに信頼し、それに身をゆだねていのちを全うしていこう。そう心に刻みながら、わたしたちは信仰の道を歩んでまいります。

本日わたしたちは、神の計らいに身をゆだね、生涯を司祭として神の救いの計画の実現のために捧げられた、東京教区の司祭使徒ヨハネ田中康晴神父様に、別れを告げ、その永遠の安息を祈るためにここに集まっています。

わたしは、東京教区へ赴任して2年ですが、そのとき田中神父様はすでに入院しておられましたので、残念ながら一緒に働いた体験がありません。ただ、田中神父様の司祭としての人生は、必ずしも順風満帆ではなかったとうかがっています。

教区ニュースの2012年5月号に、田中神父様の紹介記事が掲載されていました。
そこには、大学生の頃に不思議な出会いから洗礼を受けた体験や、お父さんの強い反対を押し切って神学校へ入学した経緯などが記されていました。

そして、司祭叙階後しばらくして病を得て、それから長い年月にわたって、病と闘いながら、ご自分にとって可能な限り、司祭として様々な分野での奉仕職に当たられてきたことが述べられています。

締めくくりには、次のような田中神父様の言葉が記されていました。
「神さまのはからいのままに、神さまの意に従って働くことが大事。病気を経験したことで、自分はもとより他者に注がれる神さまの愛、恵みをたくさんいただいていることに気づかせてもらう。たくさんの人を通していただくお恵み、その元をただせば、それは神さまです。出てくる言葉は「神に感謝!」

「神の計らいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」。
この答唱句を持つ典礼聖歌は、詩篇90編で、「あなたの目には千年も過ぎ去った一日のよう、夜回りのひとときに過ぎない。人の命は草のよう、あしたには花を開くが夕べにはしおれて枯れる」と歌います。

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健康に生きることも、病と共に生きることも、人間の意図するところではなく、神の計らいの中にあることなのだ。そしてそれに生きることによって、新たな気づきがある。すべては与えられているのだから、与えてくださる神に感謝。そのように、田中神父様は述べておられました。

わたしたちが生きている現実には、ありとあらゆる困難が存在しており、様々な意味でわたしたちの人生に苦しみを生み出しています。そういった現実に直面するとき、わたしたちはどうしても、苦しみは何のために存在するのか、なぜわたしに苦しみが与えられるのか、という問いかけを発してしまいます。

教皇ヨハネパウロ2世は、1984年の贖い聖年にあたり、苦しみの意味を考察する書簡を発表されています。
教皇は、「神は御ひとり子を、人間が悪から解放されるために世に与えられた」と指摘し、その中に、「苦しみについての決定的、絶対的な見地が」示されていると述べています。

十字架の苦しみは、永遠のいのちへの門を開く、希望を生み出す苦しみです。十字架の苦しみは、あふれ出る神の愛を多くの人に与えるための、愛の源としての苦しみです。

田中神父様は、人生の様々な苦しみに直面しながらも、それを神の計らいのなせる業だと受け入れ、病気による人生の苦しみは、「自分はもとより他者に注がれる神さまの愛、恵みをたくさんいただいていることに気づかせて」くれたのだと言われ、その苦しみから神の愛が生み出されたのだとして、インタビューを「神に感謝」と締めくくられました。

そういった生きる姿勢は、司祭として忠実に召命に生きた姿でもありました。司祭が忠実にその使命に生きる姿は、勇気を持って神からの呼びかけに応える姿として、すべてのキリスト者の模範であります。

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司祭は叙階の秘跡によって、「最高永遠の祭司であるキリストにかたどられて、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別される」とカテキズムには記されています。

すなわち司祭には、三つの重要な役割があるとそこには記されています。一つ目は「福音を宣教すること」。二つ目が「信者を司牧すること」。そして三つ目が、「神の祭礼を執行する」ことです。

小教区を担当する司祭として、また様々な役職につく司祭として、その人生を全うすることも、司祭としての召命を生きる姿であります。しかし、病を得て、その病と闘いながら、苦しみのうちから神の愛を見いだしている姿も、司祭としての召命を生きる姿であります。

実際に体を充分に動かすことができなくなっても、司祭は祈ることができます。
苦しみとの戦いの中で神の計らいに身をゆだねている姿の模範で、司祭は福音を告げしらせることができます。
病床にあっても、出会う人々との絆の中で、司祭は信徒を司牧することができます。

「苦しみは、また、人間の人格の中で、愛を誘発するために存在している」と述べられたのは、教皇ヨハネパウロ2世でありました。
人生の苦しみのなかから、神は愛を生み出そうとしているに違いない。そう信じて、神の計画に身をゆだねて司祭職を生きた田中神父様は、それぞれの召命を生きているキリスト者にとって、一つの模範を示す存在です。

天に召された兄弟である司祭の人生から、わたしたちが生きる道を学び、その働きを引き継いで、すべての人に神の愛の福音をのべ伝え、祈りを捧げ、互いに共同体にあって支えていくことができるよう、神様の計らいに身をゆだねたいと思います。

そしてわたしたちも、様々な困難に出会う中で、神に感謝とすべてを締めくくることができるように、人生の道程を歩んでいきたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

2019年11月30日

・Sr.石野の思い出あれこれ ⑰院長から突然、「ローマに修練に行きなさい」とのお達し…

 1951年、着衣してからまだ一年も経たないある日、院長のマエストラ・マリア・イレネから呼ばれて「修練のためにローマに行かせる」というお達しを受けた。

 ローマ!心は踊った。何しろローマはカトリックの中心。総本山の聖ペトロ大聖堂があり、そこには教皇様もいらっしゃる。イタリア人のシスターたちからローマのすばらしさについてはよく聞かされていた。でも、当時は今のように国際化やコミュニケーションが発達しているわけではなかったから、ローマ、イタリアなどは、遠い外国に過ぎなかった。

 長靴の形をしている国、有名なオペラや芸術が豊かな国ということは知っていた。でも、そこにどんな人が住んでいて、どんな生活をしているのか、習慣や文化は?そして、私たちの生活は?知らないことの方が多かった。それらをこの目で実際に見て、手で触れるチャンスが与えられるのだ。

 その年の8月、シスター・M、シスター・S と私の三人は、スカンディナビア航空で羽田空港からローマに向かった。当時、外国への旅行者はまだ少なかった。この少ない海外旅行者もほとんどが船旅で、飛行機での旅行者は珍しかった。私たちの経費などは、すべてフィリピン管区のシスターたちのご好意によるものだと、後で知った。日本からヨーロッパに行く飛行ルートも南周りが一本あるだけで、香港、バンコク、カラチ、ボンベイなど4,5時間ごとに地上に降り立ち、24時間かけてローマに着いた。

 それぞれの空港に着くと景色も人も、何もかもが変わっていて、おもしろかった。香港では漢字が目立った。「公衆電話」と書いてある。中国語の発音は分からなかったけれど、意味はよく通じたので、意味の分かる漢字を探して楽しんだ。カラチの空港では、裾までの長い服を身に着け、目のところだけが網目になっている黒いベールを頭からすっぽり被った人達が、控室に向かう私たちにじっと視線を向けているのを見て、ドキットした。ブルカを身にまとったイスラムの女性たちだった。

 その頃の私はイスラムにつては全く無知だったので、ブルカ姿の彼女たちは私の目には異様に映った。ボンベイの空港では映画でしか見たことのない蛇使いが大きな蛇を操っていた。とぐろを巻いていた大きな蛇が、蛇使いの合図でグーッと上の方に伸びる。珍しかったが、気持ちのよいものではなかったので、急いでその場を通りすぎた。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

2019年11月30日

・菊地大司教の日記(52)二つの修道誓願式、そして訃報…

2019年11月 6日 (水)

二つの修道誓願式

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 10月には、新潟教会での堅信式、あきる野教会、大森教会、高輪教会などで堅信式を行いました。日記更新が滞っていたため、それぞれに日記で触れることができずに申し訳ありません。

 そんな中、10月中の土曜日に、二つの女子修道会で初誓願式がありました。ひとつは10月5日のお告げのフランシスコ修道会、もう一つは10月26日の聖ヨハネ布教修道女会。前者は大田1901区久が原の同会修道院で、後者は聖ヨハネ会が運営に関わる桜町病院のある小金井教会聖堂で、それぞれの修道会でお一人ずつの方が初誓願を宣立され、さらに先輩の修道女の方々が、それぞれの会で修道誓願の銀祝、金祝、ダイアモンド祝を祝われました。

 新たに誓願を宣立されたお二人、節目の年を祝われた先輩シスター方に、心からお祝いを申し上げます。

 修道誓願を新たに宣立する会員が誕生することは、一人修道会にとって仲間が増えたという喜びであるだけではなく、普遍教会全体にとって大きな喜びです。それは奉献生活が、その人個人の信仰生活のためだけではなく、教会にとって意味があることだからです。

 修道者は一体誰のために誓願を宣立するのか。そもそも修道生活は誰のためなのか。修道者は自分のために修道生活を営むのではありません。自分がより信仰を深め立派な宗教者になるためでもなく、自分だけがより神に近くにあるためでもなく、結局のところ、そして至極当たり前のことですが、修道者は神の民全体のために修道生活を営んでいます。神の民全体で、教会の本質的つとめがまんべんなく果たされるように、その固有の役割を果たしているのです。

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 教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」にこう記されています。

「奉献生活は、教会の1903使命の決定的な要素として教会のまさに中心に位置づけられます。奉献生活がこれまで教会にとって助けとなり支えとなってきただけでなく、神の民の現在と将来にとって貴重な欠かすことの出来ないたまものであるということです」。

 そして奉献生活者の存在の重要性を、こう指摘します。

「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です(104)」。

 新しく修道者としての道を歩み始めた方々を見ながら、一人でも多くのキリスト者がそこから信仰における希望を見いだし、自らもその模範に倣おうと決意をされることを祈ります。東京教区の共同体にとって、新たに二人の奉献生活者が加わったことは、大きな喜びであり信仰における希望です。

 

 

そして、新潟教区で二人の司祭が亡くなられた…

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 残念なお知らせです。カトリック新潟教区の司祭が、相次いでお二人亡くなられました。

 今年はすでに、5月と6月に相次いで70歳の主任司祭お二人を病気のために失いました。山頭神父と川崎神父ですが、この二日間でさらにお二人です。すでに引退されていたとはいえ、大先輩の司祭をさらに相次いで失ってしまいました。これで新潟教区司祭は12名となりました。

 11月5日の朝、かねてより入院加療中であったアシジのウランシスコ鎌田耕一郎神父が、肺炎のため帰天されました。91歳でありました。そして11月6日の朝、同じく入院加療中であったロベルト三崎良次神父が、帰天されました。87歳でありました。

 鎌田神父様は現場の司牧に最後までこだわられた方で、幼稚園教育にも力を入れ、3年前に高齢で引退されるまで、幼稚園園長や主任司祭を務められました。

 三崎神父様は10数年ほど前に体調を崩され、わたしが新潟に来てからは、新潟教会内に住まわれて、協力司祭としてミサの手伝いや勉強会などのために働いておられました。今年、司祭叙階金祝をお祝いしたばかりでした。Kamata2005

 新しい司教館が2014年に完成してからは、新潟教会と司教館の間にあるビアンネ館の一階が改装されて、引退した司祭の住居となっていますが、この数年は鎌田神父も三崎神父も一緒にそこに住まわれて、司教館で食事も一緒にしておられました。

 大先輩の司祭を相次いで失い、言葉もありません。お二人のこれまでの司祭としての働きに神様が豊かな報いを与え、永遠の安息のうちに憩わせてくださいますように。

 お二人の通夜は11月7日(木)18時、葬儀は11月8日(金)11時、新潟教会で行われます。わたしは葬儀ミサを司式させていただく予定です。

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 一番上の写真は、7月に三崎神父の金祝をお祝いしたときの司祭団の食事会でのお二人(向かって左が三崎神父、中央が鎌田神父。右端は、町田神父)。その次が、10年ほど前の鎌田神父のクリスマス会での定番の七面鳥係姿。そして最後が、三崎神父の金祝を祝って司祭団で捧げたミサの写真です。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、新潟教区長兼務 「司教の日記」より)

2019年11月6日

・Sr.阿部のバンコク通信 ㊲入れ墨だらけの外国の青年が隣に座って…

    タイ国は近隣諸国に陸路で繋がり、首都バンコクは世界の中継分岐点。国家成長戦略として観光政策を打ち出してから60余年、都心は諸国の人々が往来する国際銀座、高層ビルが立ち並ぶ大都会です。谷間には問題の渦、悲しみと苦しみ、でも喜びと希望もいっぱいです。

 先日、トンロー街の道端の椅子に掛けて、友人と人を待っていました。約束の時間になっても姿が見えないので、友人は席を立ち、角まで探しに… 空いた私の隣の席に、入れ替わり誰かが座りました。上半身裸で刺青だらけ、短パン姿の背の高い20代半ばの外国の青年でした。

 じっと私を見つめ、絞り出す様な声で“心が壊れた“と英語で。見る見る目の周りが赤くなり、大粒の涙がポトポト、手で心が壊れた仕草と小さく十字架の印をしながら…。私は肩に手をかけ、師イエス様の慈しみが染み込むように祈りの気を、そしていつも使っている大粒のオリーブの種のロザリオを「マリア様が助けてくださる、大丈夫」と渡しました。大きな図体で子供の様に泣いている目、美しく澄んでいました。

 友人が刺青の青年を見て「一筋違えた場所で待ち、あのベンチに座らなければ出会えなかったのよね。私の席に座っちゃって!シスターのロザリオ、立ち止まってじっとに見てましたよ」と友人。

 今日も予想もしない神の摂理が、何気ない事を通して確かに働いている、壊れた青年の心に神の愛しみ溢れるほどにと合掌。 Deo gratias!

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2019年11月4日

・ある主任司祭の回想・迷想 ②外国人信徒は”お客さん”のままでいいのか、司牧をどうするか

  私がまだ神学生の頃でした。教会史の授業の折、先生が全員に向かって尋ねました。「 Bonum commune ってどういう意味だかわかるか?」

 何も知らなかった私は「善い共同体って意味でしょうか?」と問い返しました。

 すると先生は「まあ、神学生のうちはそんなもんだろ」と笑っていました。そのあと「よく覚えとけ、これは『共通善』って訳すんだよ」と教えてくれましたが、このキーワードが、広い世界の中で多様な価値観を包括するカトリック教会にとってかなり重要な概念だ、ということを、後にヒシヒシと感じさせられることになるのです。

 「あの人たち」と「この人たち」、「日本人信徒」と「外国人信徒」、どちらがどれくらい片方を上回っているかによって、その先に進む選択肢は違ってきますが、双方が互いに意識できるほどに対比可能な状況において、どのようなことがその場における「共通善」であるのか? とても難しい問題です。

 「歩み寄り」や「壁を乗り越えて」というのは確かにいかなるときにも当てはまる正論です。しかし、人には「心」があり、正論だけでは具体的な行動が引き出せないことも多々あります。正論と同時に「然り」と頷けるリアリティーが必要なのです。

 しかし、こんにち上述の問題を益々複雑にする事態が起きており、それが司祭によって起こされてしまっている感があるので、その顕著な例をこれからお話しいたします。

 前回に引き続き、ここでは外国人司牧について触れたいのですが、先ず、その外国人司牧のために彼らの母国から派遣されて日本に来る司祭たちがいます。これを知って欲しいのです。

 その神父様方は、都内では主に「カトリック東京国際センター」の仕事にあたります。彼らは直接には「宣教師というわけではない」ので、日本語があまりできなくても問題ではなく(もちろん出来る人が多いが)、それとは異なり「宣教師としてたまたま外国人司牧にあたる」神父様の場合、その本分は宣教地日本における宣教活動なので、この両者の立場が根本的に違います。

 しかし、教区自体がこれを見誤ったり、「便利だから」と曖昧にしたままでいると、宣教会の司祭たちの気分を害したり、逆に日本語のできるセンターの司祭を日本人司牧に関わらせようとしたりするので、混乱が生じます。そして次の状況が生じてしまうのです。

 宣教師であっても、何故か自ら好んで母国の人たちを相手とし、小教区主任司祭なのか、国際センターから派遣された司祭なのか、宣教師本人も判断が不明確になり、成り行きに流されたまま、結果的に日本語も来日当時と同レベルとしか思えないほど上達しないのです(むしろ下手になって行くようです)。

 宣教師は、いうまでもなく母国ではほとんど働かず(例外もあるが)、宣教地に派遣されます。それなのに宣教師でありながら宣教地で母国の人たちを相手に働き、それを優先してしまう。そういう任務も兼ねているならともかく(また止むを得ず必然性に迫られてならともかく)、そのような宣教師が司教から小教区主任司祭に任命されるとしたら、その小教区が混乱するのは当然です。

 (その宣教師が)あえてそうしたいなら、司教と相談し、正式にセンターと契約した方がいい。そもそも、こうした職務の曖昧さは、彼らのアイデンティティーにも関わるはずなのです。

 かつて私は外国人の多い地域を担当しましたが、よく、宣教師たちに外国語のミサのお願いをしていました。しかし、彼らは「宣教師」ですから、「外国語のミサだけの依頼なら受けられません」とキッパリと断ります。はっきりしています。当然です。なので「日本語のミサと両方お願いするかたち」で引き受けてもらうことがほとんどでしたし、それは普通にそのはずです(国際センターから臨時で頼まれた場合にはまた違うとは思いますが)。

 今や宣教師は洗礼数の増加だけを目的に来日するわけではないし、どちらかといえば「交わりの教会」という面や、また「宣教地の福音化のため」であることが強調されます。ともあれ、わざわざ日本まで来て、せっかく身につけた日本語や日本についての知識を投げ捨てて、母国の信徒たちを相手にした活動を本来の任命以上に優先するというのは、いかがなものでしょう。

 小教区における外国人司牧は、異なる文化の衝突を恐れず、彼らを日本の教会の一員として受け入れることが模索され、それに心を向けることが小教区主任司祭が担う外国人司牧の基本ではないでしょうか。

 実際、定住組の外国人信徒の側から「日本の教会のためにもっと何かしたい」という思いを聞かされることが、実に多いのです。でも、放っておけば例え定住組の外国人でも、自分の教会、すなわちその人の母教会(所属教会)は定まらないまま、かえっていつまでも根無し草の状態で、お子さんたちの初聖体や堅信の手続きに手こずったり、それを諦めたり、また休暇で母国へ帰省した時を利用してなんとかするなど、要するに定住組でありながら、いつまでもお客さん扱いされてしまうのです。

 お客さんのままでいたい人はそれでいいのかもしれませんが、そうでない人がどんなに寂しい思いをしていることか、と考えると結構、深刻な問題です。動機としては善意からであっても、司祭の側がこの一連の状況をこんにち牽引することになろうとは…。

(日読みの下僕「教会の共通善について」より)

2019年10月31日