・Sr.阿部のバンコク通信(87) スマホなし、不便な生活の中で神と出会う―タイ北部の山岳民族の村で

 2月末、久しぶりにバンコクの喧騒を離れ、タイ北部の山岳民族の村に入りました。チェンマイから南へ2時間、ランプーン県の舗装道路から凸凹曲がりくねった山道をガタンゴトンと半時間。緑の鬱蒼とした山間、標高1400mにパペー村(75軒)があります。

 鶏の鳴き声で目を覚まし、風のそよぐ音、虫の鳴き声、鳥の囀りが体に染み込むように響きます。花や葉っぱ、枯れ葉の香りが心地よく、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込みながら枯れ葉を踏みしめて歩く…何とも清々しい。

 ここはカレン山岳民の村、13世帯カトリック信徒の住む教会のある一角に、日本人4人(青年男子2人、熟年男性、私)と米国籍のベトナム人司祭でやってきました。共に生活し、祈り、言葉と心で語らい通じ合い、笑いと喜びいっぱいの日々を過ごしました。

 飛行場に出迎えてくれたイタリア人のブルーノ神父とカレン族の友人シリーさんの運転で深い山奥のこの村に来ました。電波も届かないソーラーの電源で生活、携帯電話は万事窮す、ブルーノ神父いわく、「まさに天国」です。

 大自然の生態を守りながら、1毛作の陸稲、水穂は自給自足のために、珈琲の栽培、牛や水牛、豚の飼育で生計を立てています。こんな深い山の中に人々が住んでいます。

 ちょうど農閑期で、村人と山焼きの準備を手伝い、子供達と遊び、村人と語らい、夜は囲炉裏を囲んで過ごすひと時…スマホなし、顔と顔目と目を合わせて過ごす…豊かな生活体験でした。集めて持って行った沢山の寄付物資はクーポンを配ってお買物ごっこ、信者でない村人も招きました。教会前広場は楽しい、にわか市場。

 皆でロザリオもたくさん作り祝福していただき、平和のために苦しむ人々のため、お祈り捧げました。

 ミサはカレン語と日本語を交え、聖歌も交代。深い山奥で共に祈りミサを捧げる、カトリックの信仰の普遍を感じます。「神様を信じて結ばれている出会い」の体験に、村人も、私たちも、ことのほか感じ入り、時空を超えて共に在る幸せを満喫しました。

 「本当に必要な情報ってすごく少ないですね」「スマホなしの解放された生活、できるんですね」「山を下りたら、スマホを時間限定にしようと思う」… 新たな気持ちで街に戻りました。

 夜はキラキラ瞬く満天の星、懐中電灯でタハロ(手洗い)へ、とっぷりと暮れた山中では早々就寝です。

そうそう、夜のオルティ(水浴び)は寒くて閉口、日中にしましたが、それでも水では冷たかった。

 感性を全開にして生きる、体全身で吸収する…自分を取り巻く自然、状況、殊に共にある人々との関わり… 言葉の壁を乗り越えて目と満面の顔が物を言う。通じてなくても大笑い。感覚をフル回転させると無感心や無神経から確かに救われるなぁ〜。

 不便で面倒な生活条件の効能、都会で、都合よく楽な生き方をして無くしているものを取り戻そうと思います。ほんの十日で、不安定な足場の村の坂道を毎日上り下りして体が引き締まり、バランス感覚もバッチリです。

 感覚を研ぎ澄ませて生きる、神様からいただいた感性の賜物の凄さに改めて感謝。小さな私の考えで捉えるのではなく、まず全身で物事を感じ取って生きていこう、それは創造主の視野と摂理の中に生きることだ―そう実感しました。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

 

 

2024年3月16日

(投稿)主任司祭から受けたハラスメント、教区の担当チームの対応は… 聖職者主義の”文化”と”仕組み”を改めねば

 「カトリック・あい」の評論を読んで、ハラスメント問題に関し「司法的任務を、教会法により規定される他の機関に委ねることの妥当性を検討すべき」との意見に同感です。

 私は主任司祭から受けたハラスメントについて、教区のハラスメント窓口に助力を求めました。教区ハラスメント対応チームは信徒、シスター、神父の三名で構成され、司教は含まれていません。面談には私について証言できる第三者を同伴するよう依頼され、「純粋で神聖な教会を求める共同体」において非常にハードルが高い要望だと感じましたが、幸いにも協力者を得て面談が実現しました。

 対応チームは「司教に報告するかどうかはこちらで検討し、結果は後日、連絡する」と約束してくれたのですが、その後、随分たった今も、連絡がありません。私に対するケアや謝罪等をどうするか決定できていないからだと考えられますが、問題となっていた司祭は異動人事がされています。

 ハラスメント対応チームの困難は、訴える人の証言が事実かどうか判断することにあるようです。私が受けたハラスメントで、労務問題に関するものが事実かどうかは、教区も確認できますが、誰も見ていない所で行われた行為は、当然ながら、第三者が直接目撃した事実として証言することはできず、物証など決定的な証拠を挙げることもできません。

 対応チームが「被害者に寄り添って耳を傾ける」ためには、相談してきた相手を「被害者」と認識する事が前提となりますが、その前段階の確認のための面談での私への聞き取りは、「司祭に対する従順に、あなたは信徒として反していなかったか」という事に重点が置かれていました。加害者の司祭が、私について「証言は全て嘘。思い込みの激しい人だ」と、まるで気がふれた信徒のように吹聴していたためと思われますが、こうした教区の姿勢に「寄り添い」を実感できませんでした。

 何の反省もなく暴言や偽りを繰り返した司祭を回心させ、その行動を改めさせるためには、被害者が孤独に心引き裂かれながらも、その全てに耐えて冷静に行動することが必要なのだ、と今、改めて感じています。これは非常にハードな作業です。心の内で応援して下さる信徒もいましたが、教区の窓口に訴えた当初は、「嘘つき」呼ばわりされる私を表立って擁護して下さる人はなく、教会から離れようと何度、思ったかわかりません。

 問題の司祭はささいな事でも気にいらないと瞬間的に激高するため、完全に「恐怖支配」の状態でした。間違った権力の行使を抑えるシステムが教会に存在しません。司祭の聖性はいつも特別視されますが、信徒の聖性が無視されているのではないかと感じます。このような教会で、特にハラスメントという問題に対して、「誰が」ではなく「何が」正しいか、司教職とは別に、現実的で司法的な視点も持った第三者の機関が教区にあれば、もっと公正で迅速な対応が期待できるでしょう。

 多くの信徒に対する聖職者のハラスメント、司祭の「絶対的支配」、言い換えれば「聖職者主義」がまかり通る、という現実を見せつけられて、そのようなことを放置している教会に絶望し、離れていく信徒たちを、私は実際にたくさん見ています。このような流れを食い止め、教会が、教皇フランシスコが繰り返し訴えておられる、「聖職者主義」を排し、司祭も信徒も、弱者とされている人も、心からの愛をもって「共に歩む」教会となるために、”文化”と”仕組み”を抜本的に改めることが求められているのではないでしょうか。

(西日本にある教区の女性信徒、2024.3.8記)

2024年3月8日

・竹内神父の午後の散歩道 ㉘四旬節ーそれは、変容の時

灰の水曜日から、四旬節が始まりました。四旬節はまた、〝変容の時〟とも言われます。イエスが十字架に向かって歩まれた道、それを辿ることによって、私たちは、少しずつイエスに似た者へと変えられていきます。それは痛悔・回心に始まり、イエスの苦しみに与り、さらに彼の愛に留まることによって可能となります。

 ミサの入祭唱では、次の言葉が語られます。

 神よ、あなたはすべてのものをあわれみ、お造りになったものを一つも嫌われることはない。あなたは人の罪を見逃し、回心するひとをゆるしてくださる。まことにあなたはわたしたちの神。

 この言葉の背後には、知恵の書11章の言葉が響いています。そこにおいて神は、「命を愛される主」と語られます。この神は、自らを隠すことによって自らを顕す方です(イザヤ書45章15節)。また私たちに、祈る時には隠れた所で祈るようにと勧められます。

 

*愛された塵

「あなたは塵であり、塵に帰って行くのです(あるいは、『回心して福音を信じなさい』)」という言葉とともに、私たちは、頭あるいは額に灰をかけられます。人間は塵から造られている、と聖書は語ります。しかしそれだけなら、単なる人形と変わりません。さらに神の命の息が注ぎ込まれることによって、私たちは、生きた者となります。

 私たちは、ほんの塵に過ぎない。しかし単なる塵ではなく、神に愛された塵である—これが、人間の現実です。儚い存在であると同時に、尊厳を持った存在でもあります。儚さを静かに実感することによって、私たちは、真の謙虚さを学ぶことができます。それが、命への道です。

*十字架を通して命へ

 私たちの前には、生と死が置かれています。そして神は、私たちに命の選択を求めます(申命記30章19節)。「命を選ぶ」とは、神につながるということでもあります。それゆえイエスは、自らをぶどうの木にたとえ、「自分につながっているように」と語ります。さらにそれは、彼の愛に留まることでもあります(ヨハネによる福音書15章1‐10節)。

 真にイエスにつながるということは、同時にまた、彼の苦しみに与るということでもあります。イエスが担われた十字架は、私たちの命の源。それゆえ彼は、こう私たちを招きます。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(ルカによる福音書9章23節)。十字架によらなければ、霊魂の救いはなく、永遠の生命もありません(『キリストにならう』第2巻第12章2)。しかし同時にまた、神は、あらゆる試練の時、私たちと共にいてくださいます。

*回心への招き

  神は、悪人の死を喜びません。むしろその人が、その道から立ち帰って生きることを喜びます(エゼキエル書18章21-23節、33章11節)。どのような悪人であっても、もし心から回心するなら、神は必ず受け入れてくれます。「私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。私は言いました『私の背きを主に告白しよう』と。/するとあなたは罪の過ちを赦してくださいました」(詩編32章  )。

 次の言葉も、私たちに慰めを与えてくれます—「私は痛悔の定義を知るよりも、むしろその心を感じたい」(『キリストにならう』第1巻1章3)。

 私たちは、命へと招かれています。その試金石は、誠実であること。自分に対して、人に対して、そして神に対して誠実であること。真の誠実さへの変容です。これ以外に命への道はありません。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

2024年3月4日

・ガブリエルの信仰見聞思 ㉟四旬節の旅を思い巡らす

 温かいカトリックの家庭に生まれ育ち、幼児洗礼の聖水によって印された私の信仰の旅は、無邪気な幼い頃から始まりました。その出発点から、四旬節は、この旅路における繰り返す通過点であり続けました。初期の頃、それは畏敬の念と伝統的な慣習の厳かさが混ざり合った道程のようでした。大切にしていたご馳走や気ままな娯楽を(一時的に)放棄したり、祈りや「十字架の道行き」の粛々とした信心業を耐えたりして、まるで意志と信仰の試練かのように感じられました。

*四旬節は一人旅ではない

 

 年月が経つにつれて信仰の旅を歩んでいくうちに、四旬節の輪郭は次第に変化し、継続的な霊的成長と刷新、そして神様とのより深い出会いの契機に富んだ風景が徐々に明かされてきます。この季節は、単なる「自制」や「我慢」の時ではなくなり、内省、清め、神様とのより深い交わりに捧げられる大切な期間として現れてきます。それは、心の荒れ野に踏み込み、自分の弱さと向き合い、「涸れた谷に鹿が水を求めるように」(詩編42編2節)、悔い改めの癒しの水を受け入れるように、との呼びかけであり、ダビデが切に祈り求めたように、自分の存在そのものを再形成する回心へと促しています―「神よ、私のために清い心を造り/私の内に新しく確かな霊を授けてください」(詩編51編12節)。

 四旬節は一人旅ではなく、新たな永遠の命へ導いてくださる主イエスとの旅です。この40日間、主に従って心の荒れ野に入り、主イエスが御父への完全なる信頼を倣い、自分の力ではなく「神の口から出る一つ一つの言葉」(マタイ福音書4章4節)に寄りかかるように招かれます。そして、主イエスが私たちのために、御自分を貧しくされ、へりくだってくださったのと同じように、私たちも栄光の主の御前に自分の魂をさらけ出します。

*人間共同体の中の私たちの立ち位置の再発見

けれども、四旬節の旅は、主に従って荒れ野に向かう主と一体化するだけでなく、人間共同体の中の私たちの立ち位置を再発見することでもあります。この季節に教会が特に勧める「祈り」「断食」「施し」の三つの行為は、愛の三位一体のようになり、神様と私たち信仰の本質に近付けさせてくれる意義深い信心業になります。これらを通して、私たちは恵みの変容的な力にあずかり、神様から遠ざけている重ね着を脱ぎ捨て、神様の愛の光を身にまとうよう招かれています。

 かつての子供の頃、忍耐力を試すような儀式のように思っていた「十字架の道行き」の信心業は、主イエス・キリストの足跡と苦しみをたどる深い黙想へと進化してきました。各留(場面)は、神様の深淵な愛の側面と人間の苦しみを映し出す鏡となり、キリストの苦しみ、ひいては今日の世界の苦しみとの深い交わりを招いて
いるように思えます。

*断食と施し―祈りの二つの翼

私たちが断食するのは、主イエスの体験を分かち合い、自分の意志を強め、物質的な糧だけに頼らず神様への信頼を深めるための手段だけではありません。私たちが断食をするのも、他の人々に与えるためです。聖アウグスチヌスが教えるように、「断食によって自分から取り去るものは、施しに加えなさい」(“Sermons onthe Liturgical Seasons: Fathers of the Church”/教会の教父たちの典礼季節に関する説教集(拙訳))。今日、私たちが断食のために使わなかった食費を「愛の献金」”に入れることをよく勧められています。

 また、「断食と施しは祈りの二つの翼です。それらは神に達するための飛翔を容易にしてくれます」(『説教206――四旬節について』:Sermones 206, 3, PL 38,1042)と聖アウグスチヌスが教え、イスラエルの民に対する主の問いかけを思い起こさせてくれます―「私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。飢えた人にパンを分け与え/家がなく苦しむ人々を家に招くこと/裸の人を見れば服を着せ/自分の肉親を助けることではないのか」(イザヤ書58章6-7節)

*復活祭への旅

四旬節が聖週間と復活祭に向かって進むにつれて、主イエス・キリストの受難、死、そして御復活の物語は、私たちに深い希望と新たな命の約束を与えてくれます。ラザロの復活は、この希望を力強く物語っています。「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。/生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない』」(ヨハネ福音書11章25-26節)。この言葉は、キリストの復活によって私たちに約束された永遠の命について思い巡らすよう私たちを招き、この賜物に相応しい生き方をするよう私たちを励ましています。

 四旬節は、祈り、断食、施しの呼びかけと共に、私たち個人的にも共同体的にも内省と回心のための神聖な時を与えてくれます。これは、自分の弱さと向き合い、赦しを求め、神との関係を深める旅です。四旬節を旅するとき、神様が与えてくださる変容的な恵みに心を開き、主イエス・キリストに従うより良いキリスト者となるよう、私たちを形作っていただけますように!

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

2024年3月3日

・愛ある船旅への幻想曲 ㊲3月に二つの女性の日ー人間として、当たり前に、自然に生きたい

 春の訪れを感じる3月、日本には女性のために制定された日が2つある。3月3日の『ひな祭り』と3月8日の『国際女性の日』である。

 『ひな祭り』は、日本において、幼い女子の健やかな成長を祈る節句の年中行事である。女の子が生まれて初めて迎える”初節句“は、ひな人形の前で縁起物満載の祝い善を囲み家族全員で祝う日本独特の習わしである。我が家も2人の娘のひな人形を選ぶために「あの作家さんの人形がいい、いや、こちらのほうがいい」と、生まれたすぐに相談せねばならなかった。お節句にも日本人として先ずは形から入るのである。

 『国際女性の日』は、国際婦人年である1975年3月8日に国連で提唱され、その後1977年の国連総会で議決された。日本ではまだまだ認知度が低い『国際女性の日』であるが、私の地域の女子高校生たちはジェンダー格差に関する考えをまとめ、新聞に発表している。

 ある女子生徒は、「女の子のおもちゃはぬいぐるみ、男の子はミニカー。幼少期から刷り込まれる男女差が積み重なり、成長後の進路選択や収入格差にもつながっている」ことから「性別による文系・理系選択の差」をテーマに選び「男子は理系、女子は文系」といった傾向の不思議さから「理系のほうが平均年収は高いと知り、進路選択の理由を考えることが、男女の収入格差を縮めることにつながるかもしれない、と思った」と言う。

 ある高校では、校歌の歌詞の中に男女差があると思われるような表現の箇所は歌われていない。一部とはいえ校歌を歌わないことに賛否はあるが、昨年発行されたその学校の創立100周年記念誌で「(該当の歌詞は)性による人間の在り方の決めつけや役割の固定と受け取られかねない」と記し、男女平等の理念を示した上で、女性解放運動に参加したこの女性作詞家は、本校の措置をおおらかに受け止めてくださるのではないか」と結ばれている。

 別の高校では、「女性国会議員を増やす方策」をテーマにし、高齢男性ばかりの国会議員に違和感を持つと意見し、「海外では女性議員がたくさんいるのに日本にはほとんどが男性。社会の男女
格差を知るほど、女性であることがこの社会で不利になるのでは感じ、社会に出るのが怖くなる」とした。

 若い世代のジェンダーを巡る問題への関心の高さと率直な意見を知り、ジェンダー平等を目指して取り組みを進める教育現場に変化があることがわかる。教育現場では変わりつつある男女平等の理念を
学ぶ生徒たちだが、ポーズばかりで変わらない日本社会の現状に不安を持っていることも確かだ。

 このように、変わりつつある若者の世界にカトリック教会は対応できるだろうか。宗教が、これから先も、現代社会と遊離し続ければ、宗教組織としての共同体の“形態”が確立できない状態に陥るのではないか、と私は危惧しているのだが、いかがであろうか。

 先日、今年から社会人になる大学院生と話をしている時、地方のカトリック教会への感想があった。「この教会に感じるのは、イデオロギーが強すぎる、ということなんですよね。」と、率直な的を射た感想に私は驚き、そして喜んだ。彼には、「毎週熱心にミサに与る信者たち」とは別な観点が、しっかり備わっている。そして、何よりも、彼から揺るがないカトリックの信仰を持つ自分に誇りを持
っていることを感じた。

 彼の家庭は曽祖父の時代からカトリックであるが、身内にいらっしゃる高齢司祭からさえも、教会に行くことを強制されたことがない、という。私は感動した。今までに聞いた「親戚に司祭や修道者がいらっしゃる知り合い」の話とは、随分と違いがあったからだ。

 宗教には、マニュアルからの”圧力”は必要ないのかもしれない。だが、どこの組織も「マニュアルに従ったほうが活動しやすい」という事実があることも承知している。カトリック教会はその傾向が今や一層強くなっている、と感じている。

 私が知る教会のトップ集団(と本人たちが思っている)は、女性信徒からの自分たちの意に沿わない意見や質問には、手っ取り早いのだろうか、位階制度を駆使して話し合いもなく胸に突き刺さるパワハラを持って、それを封じようとする。その言葉の後ろには「女(性)は意見を言うな」があると思われる。普段から、そう感じさせる意識があることを、私たち女性は知っている。

 なぜ、教会トップ集団の方々は、自然でまともな対応ができないのだろうか。これが、カトリック教会での生き方とやり方なのか、と思わざるを得ない言動が近ごろとみに増えている、と感じる。「人間として考え、人間としての言葉と行動を持って、人間の私たちに丁寧にお示しください」とまで言わねばならないようである。

 現実の社会で生活している私たちは、日々そこにある大小の問題に試行錯誤の連続である。自分自身で考えねばならないことが山ほどであり、マニュアル通りにいくことは、ほぼないに等しい。世の中は変わっていくし、自分の考えも変わるし、相手の考えも変わる。一番身近な家庭生活も毎日、万事順調とは言い難く、そうかといって納得がいかないことに、「はいはい」と安易に従うわけにはいかない。「とことん話し合うのが夫婦円満、家庭円満の秘けつ。そこに、大喧嘩は付き物」というのが私のこれまでの人生から導き出した生活信条である。

 それでも、相手の言い分、置かれている立場を知り、どう変化するのかを予想しながら、相手を認めていく努力をし、たまに力を抜いて相手を見たら、怒っている自分が馬鹿らしくなる時があるわけだ。とにかく、相手を知るためには頻繁に会話を重ねる必要があり、そこに「嘘と言い訳」という”飾り”を私は求めていない。私自身ありのままの私を相手に知ってもらうことで、私自身が私を知る
ことにもなっているのだ。

何度、自分の至らなさに気持ちが落ち込んだことか。こんな私であるから、未だに人生損をしているようだが仕方ない。しかし、人間として、互いの心に共通の「愛」があれば、問題も短時間で丸く収まり、信頼関係も、より深まるだろう。それを教え学ぶのが、カトリックではないのだろうか。

 故松下幸之助氏は、「人間の本能は自然に備わっているもので、これをなくすることは絶対にできません。これを無視した政治、経済、宗教は、ムダであるばかりではなく、かえって人間を苦しめることになります」と語っておられる。人間としての本能を生かせないシステムは成り立たない、ということ、その上で人間の本能をコントロールする人間の理性がうまく機能すること、が人間の幸福につながる、と言われているのだ。

 私たちは、人間社会で人間として生きている。人間として「当たり前に」自然に生きていきたい。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年3月2日

・Chris Kyogetuの宗教と文学 ⑪「金銭的豊かさ」と「幸福」ーアマルティア・セン経済学から

1 はじめに

 2024年2月22日、日経平均株価の終値がバブル絶頂期の1989年12月29日の3万8915円87銭を上回り、史上最高値を更新した。新NISAも始まり、今後は、そのような株価対策に効果があったかのように、しばらく株価は動いてくれると思う。というのも、やはりヨーロッパと比べると日本株の方が安定しているし、バブル崩壊、リーマンショックの引き金となった不動産の懸念事項が今回は見当たらないからだ。次にとても言いにくいが「戦争」も株価を好調にさせている一つでもある。東日本の震災や、今までの中東の戦争、ウクライナとロシアの戦争にコメントを述べていた企業も、今回のガザ地区のことにはコメント述べない企業が多いことでそれは明確に表れている。(これらは陰謀論ではなく、第二次世界大戦の株価の動きを見ていたら戦時中の株価の基本ぐらいは抑えられるとは思う)

 私はこのことについて専門家ではないので深く言及するつもりはないが、今後の生活を考えるのなら投資を学び、資産を増やすことを考えることは、「日本」でやっていくのなら致し方がないと思う。しかし、それでも貧困の問題がなくなることはないし、何年か後に、この政策に上手く乗れなかった人達への批判が始まる前に少し考えたいな、と思ったので、今回のコラムで扱うことにした。

 

2 アマルティア・センとcapability approach(潜在能力アプローチ

 アマルティア・センというインドの経済学者でハーバード大学の教授は、文学と明確な接点は無いが、彼の提唱した経済学は、文学でもテーマになっている「解放と自由」と「幸福追求」の要素が詰まっている。経済学の中でも高度な数学論理学を使う厚生経済学社会選択理論の権威者で、適応選好やcapability approach(潜在能力アプローチ、)、「人間の安全保障」などの概念は現在日本でも高校の公民の授業で教えられることがある。

 インドのカースト制の中に生きていて、9歳の頃にベンガル飢饉によって狂乱した人たちを見て衝撃を受け、研究した。大学に通える身分でありながら貧困に目を向けた彼は、貧困の定義を「貧困は基礎的潜在能力の欠如した状態である」とした。1998年にノーベル経済学賞を受賞するが、それまでは「大きな経済がうまくいくことによって人々が幸福になれる」とされてきたのを、センは「人間の幸福」に着目をし、「個人が自由に自己決定できることが重要だ」としたのだ。

 アマルティア・センの研究は主に経済学の分野に属するものであるが、人間の幸福と個人の自由の重要性を認識する、より広範な視点が盛り込まれている。

 貧困に対する研究はさまざまなものがあるが、マーガレット・サッチャーは「貧困は人格の欠如」と指摘した。また、貧困層に対するアプローチについてもさまざまな研究が行われており、対策は「寄付」なのか、それとも生き方を変えることなのかについて、現代でもさまざまな意見が錯綜している。

 100年前の作家ジョージ・オーウェルは自身も貧困を経験し、「貧困とは未来を握り潰すことだ」と述べています。彼は小説「ウィガンの波止場への道」で失業や貧困層のストレスについて触れ、「体に良い野菜を選ぶよりも、嗜好性があるものを選んでしまう」という内容で問題の本質に迫っていた。人は不足を補うために行動してしまう傾向があるからだ。「貧困においては正確な判断ができなくなる」という点は何世紀も前から研究が行われており、現在でも多くの大学で議論が続いている。

 アマルティア・センの経済学は、それを経済学の視点から考察し、選択の制約に苦しむ貧困問題に焦点を当てている。経済投資の観点から見ると、アマルティア・センの経済学は時代遅れな側面もあるのかもしれないが、今回は倫理の視点から注目することにした。彼の経済学は、経済の指標の向上だけでなく、個人の自由や機会の平等にも重視し、それを通じて包括的かつ持続可能な経済成長が可能であることを示唆している。アマルティア・センの経済学は、経済成果だけでなく、人々の生活の質や幸福の指標にも焦点を当てていた。経済が繁栄しているように見えても、格差や貧困が未だに存在する社会では真の成功とは言えないのだ。経済の健全性を評価するためには、経済成長率や株価の上昇だけでなく、より包括的な視点を持つ必要がある。

 

 

3 ケインズ経済学と日本

 

 資本主義の利点については、効率的な資源配分、競争による革新や効率改善、個人の自由や所有権の保護などが挙げられる。また、ケインズ経済学の理論に基づいた政策が「昭和」時代に夢を実現する手助けをしたとされる。この時期の成功した政策の一つは、財政政策だ。ケインズは、景気刺激策や公共投資を通じて経済成長と雇用創出を促進するために財政政策の活用を提唱した。また、不完全競争市場の理論も重要である。

 ケインズは、「市場が完全競争でない場合、価格や賃金が柔軟に変動しない」と主張し、需要を刺激することが雇用と生産に対して良い影響をもつとした。そして、失業者を支援するために積極的な政府の財政政策と需要管理の重要性を強調し、完全な競争市場ではなく、不完全な市場環境で経済がどのように機能するかを考え、景気循環や失業などの問題に対処するための政策を提案した。これには「産業政策」、大規模な公共事業やインフラ投資、経済成長と雇用の拡大、日本銀行の独立、効果的な金融政策の活用などが含まれる。さらに、自動車や電力などの製造業は貿易政策において強さを増し、国際的な協力の増加に貢献した。

 では、欠点は何だったのか、一つはインフレーションリスクである。ケインズ経済学は「需要刺激を通じて経済を活性化させる一方、それが長期的にはインフレーションを引き起こす可能性がある」という批判があった。二つ目は、政府の実行能力である。ケインズ経済学は「政府による積極的な介入を必要とするが、政府の実行能力には限界があり、効果的な政策の実施が難しい」とされることがある。

 次に「共産主義」とは、貧困の解決において政府の役割を重視し、国家による経済・社会管理を中心とした政治体制を意味する。共産主義では、資本主義の私有財産制を否定し、生産手段の共有化や平等な資源分配を追求する。共産主義の下で行われる政治では第一が「国家」になるのに対して、資本主義、及びケインジアン経済学の政治の第一は「市場」である。共産主義とケインズの政治との違いは、経済・社会の仕組みや役割分担の観点で異なる。共産主義では政治の役割が大きく、経済活動の中心的な調整や貧困の解決を国家に委ね、ケインズの政治では市場経済を前提としつつ、政府の介入を通じて経済の安定と公共の福祉を追求する。

 日本において、資本主義と福祉、救済がうまく働かなくなった原因として、資本主義の基本的な原則である「利益追求」と社会的な問題に対する十分な福祉がうまく回らなかったことにある。そこに、市場の限界も見られる。昨今に見られる福祉の不足や救済は市場の限界を越える課題であり、市場のメカニズムだけでは解決しにくいなどが見られる。そして最後に難易度の高いのが政治的な意思決定の問題である。福祉や弱者救済は社会的な公共財であり、政府の役割が重要であるが、政治的な意思決定は様々な利益や価値観が絡んで複雑なものになっている。

 

 

4 幸福と経済学

 

 経済学は、どこまでの幸福を考えるものなのか。そもそも経済学というものは、幸福そのものを直接的に扱う学問ではない。経済学とは多義に説明することは困難だが、資源の配分や経済活動の分岐に焦点を当て、人々の行動や選択に関与する経済的要因を研究したりする。

 アマルティア・センの経済学は、経済学に単に賃金による幸福だけでなく、他の要素も着目することになった。日本は犯罪率が諸外国よりも低く、学歴不問でも最低賃金の水準に伴い、仕事を選ばなければ最低限の生活が凌げるのかもしれないが、それはあくまでも賃金による保証の一面に過ぎないのだ。

 幸福を考える際に個々の主観的な感情や要素にも大きく依存するが、貧困による苦しみを「甘え」や「怠惰」と片付けてしまってはならないのだ。センはインドのカースト制度に焦点を当てたが、日本ではどうすべきなのか?

 ひとつ候補を挙げるのなら「発達障害」への対応が考えられる。報告件数の増加は、ソーシャルメディアを通じての認知度の向上と、障害を特定するための敷居の低さが影響している、と言われている。京都大学名誉教授の河合俊雄氏は、「発達障害が焦点を浴びる以前は、自傷行為や過食の相談が多かった」とメンタルヘルスの問題をめぐる状況の変化を示唆している。

 日本では、昭和の時代に比べて、『主体性』の必要性が高まっている。その時代には、男女の社会的役割分担、結婚や出産に関する期待、個性よりも協調性の重視がより広まっていた。地域社会は主体性によって繁栄し、終身雇用と社会規範への適合が普通だった。しかし、こうした力学は変わりつつある。発達障害はさまざまな症状を示すが、共通の特徴は主体性が弱いこととされる。

 1995年に内閣府が出した障害者白書には「障害は個性である」という肯定的な見解があったが、私たちは、しばしば個性と主体性を混同してしまう。「主体性」とは、個人が自分の意志、信念、思考を持ち、それらに基づいて行動する能力や傾向を指す。主体的な人は、自分の価値観に従って目標を追求し、自分を表現することができる。

 一方、「個性」とは、その人独自の特徴や特性を指す。一人ひとりを他人と区別するものであり、創造性や表現力に大きな役割を果たす。 個性が幾ら才能溢れて輝いていても、「主体性」が社会の抑圧や貧困により圧迫されるのであれば、それは自己の主体性を欠如させ、自己決定すら奪っていく。よって主体性を重視することは、アマルティア・センが提唱したケイパビリティの理論と繋がっていくだろう。これは一個人の心の治療だけにとどまらず、包括的に経済と社会も取り組まなければならないのだ。

最後に

 洗礼を受けた信徒は「信徒使途職」に就いている、とされている。社会の中に福音を広めることが広義な意味での「召命」になっているが、その際に経済のことも外せないのは、イエスが貧しい人を救ったことに倣うだけでなく、主が「正しい天秤、正しい重り、正しい升と正しい瓶を用いなさい」(レビ記19章36節)とモーセに告げているように、感情まかせに表層的な捉え方でイエス・キリストに倣うのではなく、経済学の観点などを用い、公正な社会の実現や貧困や不平等への取り組みと関連付けることも、重要になってくる。

 「発達障害」を例に出したのは一例に過ぎないが、「貧しさ」とは金銭的な貧しさだけではなく、相対的貧困があるように貧困とは何を指すのか、定義つけることがより一層複雑になっている。しかし、それを忘れたかのように、信仰で全て解決するような「嘘」をつくようなこともしてはならない。

 「金銭的豊かさ」と「幸福」、それを天秤にかけることは容易ではない。その苦しみこそ、痛感しておくことなのだ。

 あくまでも倫理を外さずに今回の話を終わらせるとするなら、私達も富んでいるのであり、また貧しいのかもしれない。ここまでの話の流れで、自分はどちらの立場にいると思えるのか、それによって体感は違ったはずだ。自分は貧しいのか、それとも豊かなのか。しかし、対極にいる存在は、いずれ自分自身がなる「鏡」なのかもしれない。

 例えば、私達は成功したとしても、子供がもしかしたら貧しくなるのかもしれないし、障害を持つのかもしれない。大学まで行けば成功のように認識しているが、突然、我が子が障がい者になるかもしれない。今、自分が綺麗な家に住んでいるとして、スキルを物凄く身につけたとし、ポジティブに頑張ってきたとする。そして、愚痴を言わずに頑張ってきたことを誇りに思えるかもしれない。

 だからと言って、愚痴を言う人間を批判することは本来ならできないはずだ。何故なら、もしかしたら自分の勉強した本を運んでくれた人や、印刷した人は愚痴を言いながら作ったのかもしれない。その中には、見えない「貧困と労働」があるのだ。私はこのことについて、大多数に向ける言葉と少数に向ける言葉と分けている。誰かが困っていたとして、叱咤激励をすることは、友好関係上あり得ることかもしれないが、大多数に向けて貧困に対して決めつけることは、あってはならないことだ。しかし残念ながら、世の中はそのような「専門家」で溢れている。

 もしも、今夜お祈りすることがあるのなら、そのことを考えながら何を行動すべきか考えながら祈ってほしい。

 イエスに倣うこと、それが苦しくても私たちにとって幸福であるように。

*注

・「ウィガンの波止場への道」:正式には「失業者や貧乏人は、食料を買うとき、オレンジや人参といった身体に良いものを買って食べればよいのに「美味しい味」だけを求めてしょうもないものを購入して食べる」

・「鏡」:コリントの信徒への手紙1・13章12節に「 私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には… 今は一部分しか知りませんが、その時には私が神にはっきり知られているように、はっきりと知ることになります」とある。

(Chris Kyogetu)

2024年3月1日

・カトリック精神を広める③ 若かりし頃の恩人たち

 筆者が物心付いたころ、家族は既に離婚していて、姉2人は母親が引き取り、筆者は父親に引き取られた。だが、その実の父親がある日、養育を放棄して、借りていたアパートの部屋から、筆者を一人残して出奔してしまった。慌てたのは、アパートに住む隣人たちである。警察が呼ばれて、児童相談所に預けられることになった。ここで行き先が決まり、小平にある東京サレジオ学園に行くこととなった。

 カトリックとの関わりは、この時からである。筆者が小学1年の時の話である。学園を運営しているサレジオ修道会は、聖ドン・ボスコが創始した、カトリックの青少年教育に特化した修道会の一つで、 「ドン・ボスコ(1815~1888年)の原点は、イタリア統一運動と産業革命のただ中で、誰からも相手にされずにいた少年刑務所の青少年であり、ひどい労働条件の下で働いている青少年、また仕事もなく悪に染まっていく路上の青少年だった。彼はこの目の前にある現実から出発し、永遠の視点から一人ひとりの幸せを実現しようとした。

 日本では第二次大戦後の混乱の中にあって、身寄りがない子供や、子供を養育できない家族の子供を引き取り、子供の教育を
施したのが東京サレジオ学園である。サレジオの名前は、聖フランシスコ・サレジオから取られている。「熱意あふれる司牧者、慈愛の教会博士として有名な聖人で、人々への深い愛情と柔和な聖性は、聖ドンボスコにも大きな影響を与えた」という。

 現在、サレジオ会の学校は世界130か国にあり、日本では、工業高等専門学校が1つ、中高一貫校が3つ、小中一貫校が1つ、6つの幼稚園、筆者がいた東京サレジオ学園を含め3つの児童福祉施設がある(https://salesio.jp/about/education)。

 本稿は、筆者の生い立ちを書き並べるために筆を起こした訳ではなく、一切身寄りのない筆者が接した大人たちから、いかに恩恵を被ったか、そのことがいかに情操面で良い思い出を作ったかを言い表したいためである。

 まず、なんと言っても、六本木にあった「ニコラス」というイタリア料理店に感謝申し上げたい(1954年誕生の老舗店で、日本で初めてアメリカンスタイルのピザを提供した店として有名。現在六本木店は閉店、新橋、横浜馬車道、品川に店がある)。

 中学生の頃、毎年のクリスマス期間中に、六本木の店まで学園在校生100名ほどを、バスに乗せて招待し、ピザなどを振舞ってくれた。店への招待が難しい場合は、料理人を学園まで派遣し、パンに温かいソーセージを挟んだホットドックを振舞ってくれた。

 以来イタリア料理が好きになった。筆者は当時、聖歌隊に所属し、薄暗い店内でクリスマスソングを歌った記憶がある。ボトルをわら(トウモロコシの皮)で包んだ「キャンティ・フィアスコ」というワインも置いてあり、店内はイタリア一色の雰囲気。当時六本木で羽振りを利かせていたようで、「東京アンダーワールド」(角川出版、著者:ロバート ホワイティング、翻訳:松井 みどり)では、ニコラス創立者のニコラ・ザペッティのことを、東京のマフィア・ボスと呼ばれ、夜の六本木を支配した男と紹介している。

 彼は、「東京のヤミ社会、日本の暗部と深くかかわったこの男は、マフィア牛耳るイースト・ハーレムに産まれ、ボロもうけをもくろみGIとして東京に上陸した。つぎつぎと闇のベンチャーで成功するニコラのもとには、ありとあらゆる人種が集まった…政治家、ヤクザ、プロレスラー、高級娼婦、諜報部員」などなど。力道山とも関わっていることにも言及している。大儲けしたが故に、罪滅ぼしとして、学園への慈善事業を行ったのだろうか。

 イタリア系アメリカ人だけではない、日本の蕎麦屋さんの組合の有志が、学園にやってきて、全校生徒にそばを振舞ってくれたこともある。だしの風味が効いていて、当時はこんなにおいしい食べ物があるんだと思ったものである。この時の味を超えるそばには、今に至るも出合ったことがない。

 食べ物だけではない。学園の近くには、学芸大学があり、幼児教育を学ぶ若い女学生さんが、学園に慰問にやってきて、歌を教えてくれたこともある。この時に教わった「どじょっこ」の歌などは、今に至るも忘れないでいる。「女心の唄」で250万枚のレコードを売った歌手として、当時大人気だったバーブ佐竹氏が、慰問に来てくれたこともある。重い機材を学園に運び込み、低温の美声を披露してくれた。

 学園卒業後は、昼間働き、夜は定時制に通ったが、勤めた会社は温度計を作る精密機械会社で、大学出たての社長の息子が働いていた。彼は、筆者が「大学に行きたい」と言うと、数学を教えてくれた。まだ、新婚ほやほやなのに、家に招き、数学を教えてくれたのだ。

 社会では、いろんな方々が、ボランティアをしているが、子供にとっては、日常の生活から離れるために、記憶に仕舞い込まれ、いろんなときに思い出されて、そうだ、あの時はこんな美味しい物を施してくれた、いろんな歌を教えてくれたと思い出され、自分も、施されるだけではなく、施す側に付きたいと思うことにもなっている。筆者がレジ袋等のごみ問題から、社会を変える運動に携わっているのは、サレジオ学園を始め、そんな恩人たちのお陰と思っている。

横浜教区信徒 森川海守(ホームページ:https://www.morikawa12.com)

2024年2月29日

・“シノドスの道”に思う⑨ シノドスをドイツの視点から考える(その3)

 前回、2026年3月までにシノドス評議会を準備するためのシノドス委員会を設立すること、そして、信徒組織であるZdKの側は、それをすでに総会で承認・批准したこと、あとは司教側が司教協議会総会でそれを承認・批准することが必要であり、その総会が2月に開かれる予定になっている、と述べました。

 

 

*バチカンからの手紙により中止

 

 ところが、開催前の土曜日夕方に16日付けのバチカンからの手紙が届きました。そこには、「シノドス委員会の規約を、司教協議会全体として承認・批准するための投票を行わないように」、また「バチカンとの話し合いを優先させるように」と書いてあったようです。(この点については「カトリックあい」の「シノドスの道」2月21日付けでも報告されていますのでご覧下さい。)

 というわけで、報道によると、今後のドイツのシノダルな改革は、バチカンが進めている「世界シノドス」を優先して、その次にドイツ固有の司教協議会と信徒組織ZdKによる「シノドスの道」を継続させていくことになるようです。「ローマの世界シノドスとドイツのシノドスの道は教会発展のため同じ方向をむいているのだが」とベッティンク協議会議長は残念がっていますし、ZdK議長も怒り
を隠していません。

 司教たちと信徒組織が一緒に考え決定して進めようとした改革案が、教皇とバチカンの承認を得ることができなかった原因については、前回この稿で、聖職者と信徒の「共同統治」がカトリック教会の秘跡的構造に合致しないこと、また「一致の乱れ、委員会の合法性、運営資金などの問題」として述べましたが、もう少し詳しく見てみます。

 

 

*シノダルな取り組みの歴史

 

 前回、最後の中見出しに「秘跡的構造とシノダリティ(共働性)のせめぎ合い」と書きましたが、まずシノダリティに関して。ドイツにおいてシノダル(共働的)取り組みは2019年から始まったわけではありません。東西ドイツの再統一は1990年ですが、それ以前に、第二バチカン公会議の決定を実行するために、1970年に聖座の承認を受けた規約に基づいて1971年から75年にかけてビュルツブルクで「共同シノドス」を開催しました。

 共同というのは、司教、司祭に修道者、特に一般信徒も加わって開かれ、シノドスの審議と決議がなされたようです。最初の総会集会には司教58人、司祭88人、修道司祭30人、一般信徒141人が参加しました。その第7集会では司牧的奉仕、信徒の評議会と共同責任についての文書など採択されました。その後のドレスデンでの司牧シノドスも同様に信徒の参加があり、教会の宣教は全信者の共同責任によって何ができるかが議論されました。

 これらは教会を革新的に発展させるものでした。というのも、後の1983年改訂の、現行の教会法典(CIC)で教区や小教区レベルでの司祭評議会、経済問題評議会、司牧評議会等が規定されることになったのです(Can.492ー514)。司教協議会とカトリック信徒委員会との共同評議会も、司教と信徒の相互作用を促進するために設立され、その双方の代表者たちによる協議会もでき、年に2回開
催されることになり、さらにそれらが徐々に発展して、現在の司教協議会とZdKとの関係につながっていき、今回のシノドス委員会の設立に至ったのでした。

 

 

*ローマはドイツの願いを却下

 

 以上のように、ビュルツブルクとドレスデンのシノドスにおける司教、司祭、信徒、修道者の関係・交流は多くの信者を前向きに奮い立たせる体験であったので、こういった「共同シノドス」を10年毎に開催する権利を与えられるように教皇に申請したところ、この願いは却下されたのでした!

 こういったバチカンの姿勢は、キリストの意思に適うものなのか根本的に検討されるべきでしょうが、「秘跡的構造」とは何なのか、前回は簡単にしか述べませんでしたので、もう少し丁寧に見てみます。

 

 

*教会統治の権能のあり方

 

 教会におけるさまざまな権能・権限・権力のあり方について。ドイツのシノドス文書を参考して述べます。1983年の現行の教会法典では権能は二つに大別されます。「叙階による権能」すなわち秘跡を執行する権利と、「統治の権能」です。統治の権能には3つ、すなわち「行政的(executive,administrative)」「立法的(legislative)」「司法的(judicial)」が含まれます。(このほかに統治とは異なりますが、「教える権能(magisterium)」があり、これも司教等が有するとされます。)

 教会法典第129条(1)に「神の制定に基づいて、教会が有する裁治権とも呼ばれる統治の権限を有する者は、法の規定に従って、聖なる職階に叙された者である。」さまざまな権限が教区では司教
に、小教区では司祭に一元的かつ排他的に集中しているのが現実です。三権分立ではありません。聖職者による君主制であり、独裁的な組織構造です。これを神学的観点から見て「秘跡的構造」と呼んでいるために、「そうなのですね」と納得してしまっていた、といえます。司教たちの働きは「福音的な奉仕」というよりも、「支配」に傾きやすいものだったのです。

 

 

*信徒も参加できるはずでは?

 

 しかし、続く教会法典第129条(2)に「信徒は、法の規定に従って、この権限の行使に協力することができる」ともあります。神の民の個々人の平等性、教会法典第208条「すべてのキリスト信者は、キリストにおける新生のゆえに、尊厳性においても行為においても真に平等である」との規定を、もっと重視するなら、また聖職者主義を無くそうとするなら、もっと権限を委任、移譲することが可能なはずです。

 教会統治のあり方があまりにも一元的になっているために、信徒の多くは教会運営から疎外され、批判も反論もできないまま、信徒はやる気を無くし、教会から去っていく人が多いのだと思います。

 

 

*位階的交わりが秘跡的構造と呼ばれ

 

 さらに「秘跡的構造」について、『教会憲章』によると、「教会自体がキリストにおける秘跡」であり、「神との交わり及び全人類一致のしるしであり道具である」という。「しるし」であるだけでなく「道具」になっていなければならない。そしてイエス・キリストが、信者の間に現存する「しるし」として「司教職の秘跡性」が述べられ、さらに世界の司教団がその頭であるローマ司教である「ペトロと共に、ペトロのもとに」一致していること、そのことが見えるものとなっている点が、秘跡的構造だということでしょう。

 しかし、信徒については、聖職位階である牧者のもとで意見を述べる権利を持っているが、「教会がそのために定めた機関を通して、キリストの代理を務めている人々に対する尊敬と愛とをもって行わなければならず」、キリスト教的従順をもって牧者に従いなさい、とあります(37項)。信徒には、あくまでも従順を求め、「共同統治」など論外、ということになります。

 

 

*参考投票権と議決投票権

 

 次に、司教と信徒の「共同統治」は不可であるという点。前にも紹介した国際神学委員会による『教会の生活と宣教におけるシノダリティ』68、69項を見ますと、先にも述べたように、すべての人に意見を述べる権利はあり、また審議する権利は今でもある。投票においては「参考投票権」は与えられている。だが、その後の「議決権、議決投票権」は、基本的には信徒に与えられていない。牧者に固有の統治する機能については、「シノドス、集会、委員会は合法的な牧者なしで議決することはできない。シノダルな過程は、ヒエラルキー的に構成された共同体のハート(心臓部、中心)で生じなければならない、となっています。

 例えば、教区において、識別・相談・協働を共同で行なうことによる決定・議決(decision‐making)と、使徒性とカトリック性の保証者である司教の権限のうちにある議決の行使(decision‐taking)とは区別される必要がある。物事を成し遂げるのはシノダルな仕事であるが、決定・決議は役務者の責任である」と。

 ドイツとバチカン当局とのやり取りで、全面的な議決権を有するシノドス委員会・評議会を設立することは、現行の教会法典では許されていない、というのは、以上のような理由からでしょう。早急な法改正が求められている、と言えます。

 最後に、バチカンに対してドイツ司教協議会のベッティンク議長が「司教と信徒の共同体は司教たちの権威を弱めるものではなく、むしろ強めるものである」と反論しているのは、至極当然当だと思います。「共働の中でこそ、司教の実力も発揮される」というべきでしょう。

(ドイツ司教協議会www.dbk.de ドイツカトリック者中央委員会www.zdk.de カトリック系メディアWorld Catholic News, The pillar等参照)。

(西方の一司祭)

2024年2月29日

・故森司教の言葉・再掲 ④日本社会の隠れた悲惨さ  

   日本を訪れる宣教師や修道者たちは,異口同音に「日本は、他の宣教地と比較して、素晴らしい国だ」と賛美する。表面的にみれば、その通りかもしれない。

 経済的には豊か、食べ物は豊富、そして生活は便利で快適である。人々の資質も、温厚で、礼儀正しく、勤勉である。また幼い頃から集団生活に馴らされて育ってきているため、我慢強く、自分の権利・主義主張をあまり表に表さない。デモなどは極めて稀である。また子供たちは、18歳まで法律で守られており、義務教育は徹底し,大半が高等学校や大学に進む。貧困のため幼い頃から働かざるをえない発展途上国の子どもたちと比べれば,遥かに幸せである。さらにまた乳幼児の死亡は少なく、平均寿命は世界一である。それは、経済の向上、治安の安定、医療技術の発展、生活環境の整備、社会福祉の浸透等々によって、もたらされたものである。

 こんな日本社会を見て、宣教師たちが日本社会を肯定的に評価するのは、当然である。しかし、日本社会は、その内に深い闇を抱えてしまっているのである。それは、外部の者にはなかなか分かるものではない。

 その一つの証しが、鬱に覆われる人と自殺者の数である。

 鬱に覆われる人は、6人に一人とも言われてしまっている。また自らいのちを絶ってしまう人は、一時期より減少はしたが、自殺率(人口10万単位)の国際比較をみると、旧ソ連邦の国々を除くと、日本は、あいかわらず、先進国の中では上位にある。

 この数字を2003年以降のイラクの民間人の犠牲者の数と比較してみれば、日本の悲惨さがさらにはっきりと見えてくる。

 民間調査団IBC〈Iraq Body Count〉によると、イラク攻撃が始まった2003年から2010年までの7年間の民間人の犠牲者つまり死者の数は10万人近くになるという。ところが、その7年の間では、日本では30万近くの人々が自ら命を絶ってしまっているということになるのである。つまり、混乱するイラクを悲惨な社会というならば,日本は、それ以上に悲惨な国ということになるのではなかろうか。

 日本社会をそのような状態に追いやってしまった元凶は、経済的な発展と利益を最優先にしてしまう価値観とその論理にある。それをそのまま受入れて走り出し,国全体が、その論理にそって社会全体を組織化し、〈日本株式会社〉と揶揄されるほどに、一つにまとめてしまったことにあるのである。それが、人の心を蝕み、日本社会に大きな歪みをもたらしたのである。

 家庭も学校も地域社会も、本来は、人間一人ひとりを支え助ける役割を負っているものである。ところが、それが、利益と効率を目指す競争の論理に蝕まれて、本来の機能を果たせなくなってしまったのである。

 そのため、家族の絆は希薄になり、地域社会での人と人とのつながりも弱まり、弱者は、軽視されたり無視されたりして片隅に追いやられるようになってしまったのである。すべての自殺者の背後に見えてくるものは、人間としての尊厳を無視された絶望と支えを見失った人間の孤独である。

 今の日本社会が必要としている福音は、「天の父は、一人でも滅びることは望まれない」という、人間の尊さを訴える愛の福音と柔和なキリストとの出会いである。

 (故森一弘司教・2017.3.1記)

2024年2月29日

 ・神様からの贈り物⑧「打ち明けた弱さが、誰かの生きる力になる」

 先月コラムの話題としてあげたカレン族の村での体験を、引き続き書かせていただきたい。

  私は、K神父と引率者の一人として出会った。「神父」はカレン語で「パド」なので、このコラムではK神父のことを「パド」と呼ぶことにする。パドは男子校の校長先生であり、大学で教えることもしていた。柔和な笑顔と朗らかな笑い声が印象に残っている。

  パドは、村に来ることを「心の洗濯」と表現した。村で心をしっかり洗い、真っ白にしてから日本へ戻る、というのを大切にされていた。

  何より印象深かったのは、村での最後の分かち合いだった。パドは、自分の深刻な病気について私たちに打ち明けられた。「神父」という立場の人間が、自分の苦しみを赤裸々に語られたのは、私にとって驚きだった。その晩は様々な思いが浮かび、なかなか眠ることができなかった。

  翌朝、きれいな冬晴れの空の下、皆で食事をした。その後、パドは、一人で歩いていた私にそっと寄り添い、聖堂の前でこんな話をされた。「麻衣はたくさん苦しんできた。とても、つらかったと思う。けれども、それはきっと誰かの役に立つはずだ。それは誰なのか今は分からないけど、もしかしたら、それは麻衣の子供かもしれない。だから、希望を持ってほしい」。当時の私は信じられなかった。でも、パドの弱さを分かち合ってもらったことで、「前向きになろう」と思ることができた。

  数年後にパドに再会したのは、彼のお通夜でだった。献花の順番を待つ私は「次に会うのは天国だ」と寂しく感じ、「永遠に順番が来なければいいのに」と思っていた。でも、パドの顔を見た時、はっとした。とてもキリッとした清々しい表情に見えたからだ。パドの希望の言葉を思い出した時、こう感じた。「生きるとは、誰かのために自分を分け与え、その人の糧となって生かすことなのだ」と。

  20年前に体験した村での思い出は、色鮮やかで、まぶしいくらいの輝きを放ち、セピアや白黒に色褪せることは決してないない。「麻衣の経験は、きっと役に立つ」というパドの言葉も、決してきらめきを失わない。私が書く文章も、ささやかながら誰かの糧となりその人を生かせるよう、精進していきたい。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2024年2月29日

・Sr.阿部のバンコク通信 (86)「どんな状況に置かれても、主への信望愛の力で前進したい」

  「ハングする」「フリーズする」という言葉を普段に耳にするようになって久しい。複雑な人間関係、社会組織、高度なAI依存の中でコンピュータやスマホよのうに、私たちの頭も心も体も、麻痺した様に痺れ、思う様に動かなくなることがあります。
 些細なひと言で、自分の全てが奈落の底に堕ちたり、信頼していた友人との関係に亀裂が入り、立ち直れないほどの大打撃を受けることもあります。突然、大切な人を失う喪失感…。壊滅的な自然災害の打撃に大きな苦しみと悲しみ、争い、殺し合うほどの人間同士の争い今日も続いています。

 何という悲しい現実、ロザリオを握りしめて祈る手に、怒りを交えた力が入ります。と同時に、人間の優しさ、人々が差し伸べる心身の慈しみが、苦しみの渦中に凄いエネルギーで癒しと命への励ましをもたらしているのを、感じます。

 地震で被災した現場に、弾丸が飛び交う戦場に、微笑みが生まれるほどの出来事が… ニュースでは流れませんが日々起こっているのです。

 人間には創造主が備えてくださった治癒力、再起動し、立ち上がる生命力があるのですね。この心身のからくりの見事さに本当に感じ入って、心底身震いしてしまいます。

 人生に起こる様々な出来事は、機械のようにリセットし、再起動する、という訳にいかず、悶々と悩み、落ち込むこともあります。でも人には、命と共に備えられた「土壇場に発揮する力」があります。鍼灸治療でツボ(経穴)に針を刺すと体内からモルヒネが出て、痛みを和らげるように、窮地に立ち、苦しみの渦中で発揮される力を信じたいのです。

 何でもありの人生です。創造主にあやかり、どんな状況に置かれても、「死と復活の主」への信仰と希望、愛する力で自分をリセットしながら前進したい-そんな意気込みがこみあげてくる、今日この頃です。

 晴佐久神父様の『きっといい日』より一言いただいて… 「愛読者の皆さんどうかお元気で」❣️(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員、写真はSr.阿部の自筆の言葉)

2024年2月4日

・愛ある船旅への幻想曲 (36)「竜年の日本、この国は、教会はどうなっていくのだろう」

 日本では、1月1日夕に能登半島を中心とした地域で大地震が発生し、津波警報から避難を呼びかける絶叫調のアナウンスがテレビから流れ、震源地から遠く離れた場所に居る私の心臓と身体は硬直状態になった。

 愛猫を抱いたまま何が起こったのか茫然とする自分がいた。被災地の方々のショックは如何ばかりか。2日夕には羽田空港で旅客機と海上保安庁機の滑走路上での衝突のニュース速報が流れた。

 新年早々日本は、どうなっているのか。神様に伺いたいのである。そして、時間が経つにつれて不安と恐怖は苛立ちへと変わる。この寒空の下、着の身着のまま避難された方々のため、そして事故に遭われた方々のために国、首相の迅速なる対応を願わずにはいられない。

 人間社会は行政で動き、政治家が絡んでくる。最近、政治家はさまざまな分野で国民からの信頼は失墜続きであり、自分のためにあったらしい組織は崩壊している。それでも被災地への支援に関して、国そして行政からの指導を待たねばならない。この状況下で国民は、よく従っていると思う。

 行政と政治家のつながりは切り離すことのできない関係だ。それゆえに、政治家としての力量がある人を国民は選ばねばならない。国民の声に耳を傾ける姿勢を持ち、筋道を立てて丁寧な説明からの回答ができ、国民・人命を第一に考えるまともな?人を私たちは責任をもって選ばねばならない。

 カトリック教会はどうだろう。カトリック教会は、信徒が司教を選ぶことはできない。「共に歩む教会」を目指すために”シノドスの道”を歩くように教皇フランシスコは世界の教会に訴えておられるが、世界代表司教会議総会の第一会期総括文書からは、現代の状況を認識したうえでの前向きな議論ができているのか疑問を覚える。

 昨年、”突然”起きた大阪高松教区合併劇に関しても、信徒にとっても由々しき事態であろうに、”上”の方からの一方的な、体のいい言葉(文章)で、満足な経過説明もないまま、決定事項が発表された観がある。一般社会ではありえない”権威主義”的なやり方がなされ、「これぞカトリック社会」と思い知らされた信者も少なくないだろう。

 教会の”伝統”である位階制度を黙認する司祭、助祭、修道者、そして信徒がいることに驚くが、それに疑問を持つこと自体がカトリック信徒ではないと蔑視される。今回の合併劇が物語っているのは、「教会には、まともな?信徒は必要ない、いらない」ということではないのか。

 聖職者による性的虐待に関しても、私のまわりの、聖職者に”好意的”な信者の方々の多くは、「性的虐待があったことなど、教会から知らされていない」「私は何も知らない」「たまたま、でしょう」などまともに対応しようとしない。その一方で、まとも?な信者たちからは、「教会で性的虐待が一例でもあるなら、大問題。そんな場に自分を置くことはできない」「司祭という特権で信徒に虐待をする行為は絶対に赦せない」、さらには、「一つ一つの問題を解決するまで教会には行かない」との声も聞く。

 性的虐待問題に象徴される教会の信徒たちの二極化の根本にあるのは、聖職者への思い、ひいては自分と教会との繋がり方の相違だろう。人間は立場や生き方が違えば、互いを分かり合うことが難しいことも承知しているが、性的虐待で信頼を損ねた教会の姿を直視する勇気は、違いを超えて持たねばならない、と思う。

 社会の流れの中で、教会の良き点、悪しき点も知っていることが教会を愛するためにも必要ではないか。何よりも、教会は苦しんでいる人たちに寄り添わねばならない。決して自分のためだけの教会にしてはならない。

 今や宗教界にもAIを取り入れる時代である。若者が語るAIへの興味は半端でない。今年の『世界広報の日』の教皇フランシスコのメッセージは1月1日の『世界平和の日』と同様に”人工知能“をテーマとされている。教皇は、社会の変化をいち早く汲み取りAIにも識別をしながら、カトリック教会の未来に向けて考えておられる。

 ITによって世界が繋がり、大きく変動する中で、カトリック教会はこのままでは、そうした変化から取り残されてしまうだろう。信徒の教会離れが加速する今、教会のありようについて、AIの答えを聞きたいものだ。AIに私の質問の意図が分かり、まともな?答えが返ってくるだろうか。

 養老孟司さんが書かれた『まともな人』は、私の愛読書である。養老先生も、どんな人が「まとも」であるか分からないけれど、有名人の具体例を挙げて感想を述べておられる。しかし、そのことについても確信はない、と言われる。この正直さが、私は大好きだ。

 『まともな人』を読んで、心にいくらか余裕ができた。それなら次は、「当たり前」について考えようと思う。言い換えれば、「まともなこと」と言い換えてもいい。でも、「まとも」とは何だろう。「まともな人」とは、どういう人だろう… 私は、「私のまとも」?で生きているのだが。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年2月4日

・Chris Kyogetuの宗教と文学⑩「宮沢賢治の『よだかの星』ー灰の水曜日に」

 「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼(やけて)死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい」(「よだかの星」宮沢賢治より)

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(あらすじ) よだかは醜い鳥として生まれ、みんなから疎まれていた。鷹にはよだかと自分の名前が入っていることで「戒名」を押し付けられ、明後日の朝までに名前を変えていなかったら殺すと脅してきた。よだかはそれによって、殺されることの恐怖を覚え、また自分も餌となる虫を食べていることに嫌気をさした。居場所を探して飛び回るが、それでも彼を受け入れてくれるところは無かった。最後は、よだかは星になって、今でも輝いている。

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 賢治は法華経を信仰し、元は浄土真宗の信者だったが、どれほど彼の宗教観がこの作品に影響があるのかは分からない。仏教では、生まれたことへの苦しみを超越するために修行を重ねることが重要であり、誕生時の状況や環境は過去の業(因果)の結果とされる。よだかの星も、生まれながらの醜さや他の星々からの虐待を通じて、運命に抗いながら居場所を探し求めた。

 仏典によると、ネパールのカトマンズ盆地の東方の山中に「ナーモブッダ」という有名な聖地がある。ここはブッダがブッダとして生まれる「前世」において、お腹を空かせた虎の母親に自分の生命を投げ出して与えたという話がある(純粋贈与)。前世のブッダは自分に身体に対する執着を捨て去ることができたとされる。そこで「食べられるもの」と「食べるもの」の区別さえ消失している。「よだかの星」の構想は、この話の影響は無意識下でもあったのかもしれない。

 また、仏教では苦しみから解放されるためには、執着や欲望からの解放が必要とされる。よだかの星は周りからの差別や虐めに苦しむことで、物質的な欲望や世俗の価値観からの解放を迫られた存在として描かれている。

 よだかは、「はちすずめ」や「翡翠」の兄でありながら、醜かった。その上、心優しく、緩やかに「食事」をするという不浄を受け入れようとすることができなかった。居場所を求めるも、太陽や星々に拒否されてしまうが、最後は星になる。

 鷹から名前を戒名することを命令され、殺意を向けられてしまうが、不条理な殺生を受け入れられなかったよだかは、名前だけは「神様」にもらったものだと言って、星になった。これは、単なる自己犠牲と思われがちだが、鷹の命令に背いてまで彼は神から預かった名前を守ったのだ。それはカトリック信者で言えば「洗礼名」とも言えるのかもしれない。

 神の価値観と人の価値観の摩擦がこの作品には見られる。本来ならよだかも祝福されるべき存在であったが、彼には苦しい摩擦だけが訪れた。よだかは自分の生きていくための殺生を拒むことや、自ら命が尽きるまで飛び続けて星になってしまったことから、自死ともとれ、非暴力による攻撃力の高さとしても評価されているが、それ以前に鷹のような存在がまず「定め」と言って非暴力的に差別することは日常にある。

 

 今年、2024年は2月14日に「灰の水曜日」を迎えるが、その前日に多くの信者が「赦しの秘跡」(告解)を行うだろう。きっと多くの聖職者たちが「赦しの秘跡」の素晴らしさなどを語るのかもしれないが、私は8割の聖職者を信じることができないのかもしれない。現に、この秘跡の機会を”利用”され、強姦された女性信徒が、訴訟を起こし、その裁判が始まっている。

 私はそれを知った際に「そういう神父はいても不思議じゃない」というような経験が、私にもあった。さほど大したことがないことではあるが、だからと言って、これに関しては通報することはしなかった。

 私たち女性は、「神父は女性経験が少ない」「女性に慣れていないから」と等という理由に、デリカシーの無い発言や態度に色々と我慢していることがある。赦しの秘跡は教会によって個室でない所もあるが、色んな話を聞きすぎて、妄想を抱いている神父、というのが存在する。

 「職業病だ」と”同情”する意見もあるが、しかし、それらに理性をおいて一線を保つことも覚悟の上で神父になったはずだ。女性というのは、カトリックに限らず、女であるのなら、そう言うことは免れないので、目を瞑っていることが多い。

 「いちいち軽い『言葉』や多少、触れることを気にしていられない」というものも確かにある。だから、それが一線を超えて自分を傷つけていて、「異常だ」とすぐに気づけないことが多い。どこから「異常」が始まっていて、どこまでなら黙るべきなのか、気のせいなのか… すぐに被害を報告できない、というのは確かにあることだ。

 

 これからの灰の水曜日から自身を省みるとするのなら、信者に「赦しの秘跡」を勧める前に、私たちに「信仰かが遠のいている」と説教をする前に、赦しの秘跡の根本を見直すべきだ、と提案したい。

 例えば、教皇フランシスコが2014年2月19日の一般謁見での説教で、「迷える羊に対して善き牧者である私たちが、主になさるように、両肩に人々の魂の重荷を担う準備が整っているべきなのだ」と語っておられる。もっと、掘り下げたいが、長くなるので割愛する。

 生きる上で、「よだか」のようにこの世との摩擦は必ず訪れる。確かに、聖職者にも「書き味が悪いペン」がいたとしても、そういう存在も回心し、再起できる場所というのも理解はできるが、「秘跡」に不正を混ぜてしまうことは、矛盾でしかない。他の宗教や宗派にも真理があるというように、カトリックの教理が正しいかどうか、というのは問わないとしても、私達はイエスの名前を使って体系づけられたことに同意したことを、忘れがちである。

 自分自身の洗礼名に始まり、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書18章20節)とあるように、イエスの名前を深く意識することを忘れてはならない。

 イエスキリストの存在は、シニファン、シニフィエのように単にシンボルや言葉の意味だけで説明できるものではない。彼の存在は、人々の信仰、経験、そして奇跡的な出来事により深く根付いていく。そのため、あらゆる言葉や概念に閉じ込めることはできない。イエスキリストの存在はシンボルや言葉の枠を超えているのだ。それには、心をどうしておくべきか、それこそ聖書に書かれてあるだろう。

 

 よだかは、自分の名前を守ろうと星になった。神様からもらった名前だからだ。これには魂の尊厳と神への忠誠心すら感じさせる。どんなに見た目が醜くても自分にも「小さな光のカケラ」があると、よだかが太陽に言ったように、誰しもそのような魂の尊厳がある。

 よだかの死について、よだかをバカにした鳥たちや、存在を拒んだ星々達は悲しむことはない。残念ながら、そういう人たちは、悲しまないのだ。そういう人たちから奪われたものは取り返すことができない、と私は思っている。けれども、その悲しみや死は心優しい読者を傷つける。非暴力の攻撃性というものは、愛してくれる人に大きな傷を与える。自死というものはそういうものだ、ということも隠喩としてあるだろう。

 鷹のようにならず、よだかの綺麗な心のように生きること、守り抜いた神様からもらった「名前」のようなものを人は誰しも持っている。それを賢治も訴えているように思う。それには、童話として架空の死を通す必要があったのかもしれない。

 

 遠くの訴訟や、会ったことのない人間が、どこかで苦しんでいる、ということを自分の痛みのように感じる必要はないのかもしれない。それでも、イエスの名前を使う限り、イエスは私たちに何かを求めていることを忘れてはならない。他者というものは「架空」のようにも思えるが、キリスト者は他者を宗教的に感じて、イエスの愛と正義を実践しなければならない。

 イエスが望んでいることは何なのか、自分自身の小さな光のカケラを探さなければならない。四旬節の始まりである灰の水曜日のこの日は、信者たちが過去の過ちに反省し、聖体拝領を受ける。

 灰の十字を受けることで、自分自身の罪や過ちを認識し、赦しを求めるが、学び直し、皆様が去年よりも気づけることを。

(Chris Kyogetu)

2024年2月4日

・カトリック精神を広める ②「あなたはUFOを信じますか?」

 最近、UFO 未確認飛行物体 (Unidentified Flying Object )の話題がかまびすしい。皆さんはUFO を信じますか?

 一昔前のかつての少年なら、誰しもUFOを信じていたのではないだろうか。かく言う私も、若いころはUFOを信じていた。当時、公的機関がUFOのことを公けにすることはなく、好事家の間でひそひそ話のような塩梅で、口伝で広まったぐらいだった。

 だが最近では、2023年の8月、米国防総省(DoD )が、UFOとUAPに関する目撃情報を一般公開するホームページを立ち上け、米空軍などによって撮影されたUFO UAPの動画をアップするようになった、ということで、随分話題になっている。

 UFOと言わず、UAP 未確認空中現象( Unidentified aerial phenomenon )と呼称しているところが面白い。「未確認飛行物体」ではなく、「未確認空中現象」なのだ。一部に正体の知れない未確認のものもあるが、大方は航空機など既知の人工物、流星、蜃気楼などで、遠方のサーチライトや自然物(天体・雲・鳥など)の誤認だ、と報告されている。

 そもそも、「地球外生命体」が地球を訪れることは可能なのだろうか。我々が住む銀河には少なく見積もっても100個以上の居住可能な惑星があるという。しかし、その距離が問題である。地球から一番近い惑星でさえ、光の速さでいっても数十年以上かかる。常識的に考えても、地球を訪れることは不可能であろう。「未確認飛行物体」ではなく、「未確認空中現象」と言っているのは正しい。

 だが本当のところ、宇宙には我々人類と同じような知的生命体は存在しているのだろうか。かつてアメリカのドレイクという人が、私たちの銀河系の中に地球か、それ以上の文明をもった宇宙人が現在どれくらいいるのかを表す一つの式を考えた。

 「ドレイクの宇宙文明の式」と言われるもので、(文明の数)=(銀河系で毎年誕生する星の数)×(惑星系をもつ星の割合)×(そのうち生命に適する惑星の数)×(その中で生命が生まれる惑星の割合)×(文明をもつ宇宙人に進化する割合)×(文明の寿命)この式の中で、生命に適する惑星の数がいくらあっても、生命が生まれる割合は相当低いのではないか、と思う。

 最近読んだ「生物はなぜ誕生したのか: 生命の起源と進化の最新科学」 (ピーター・ウォード , ジョゼフ・カーシュヴィンク著=河出文庫) によれば、地球では、35億年前に生命が誕生してから、種の50%以上が大量絶滅した事件が5度といわず10回も起こっている、という。

 その一つが、6500万年前に起きた、いまもクレーターの跡が残るメキシコのユカタン半島に落ちた直径が15kmもある小惑星の衝突である。この衝突では、当時、地球を我が物顔に闊歩していた恐竜をすべて根絶やしにしてしまっている。全恐竜が絶滅した6500万年前、その時、人類の祖先はどこにいたのだろう。

 ネズミのような哺乳類の一つとして、自分の何十倍もある恐竜の足元で逃げ回っていた、という。人類の祖先は、小さい故に絶滅を免れたのだ。そのような全生命体の半数以上が死に絶えた事象が10度もあった、というから驚くではないか。全地球が凍結し、地球が雪の玉、全球凍結(スノーボールアース)になったことは一度や二度ではない。その度に、人類の祖先は存続し続けた。単なる偶然というべきか?

 生命が居住可能な惑星はいくつもあって、地球はその一つに過ぎない、と多くの宇宙生物学者が言う。しかし、この本の著者のピーター・ウォードは、「現在の地球にいる動物や高等植物のような複雑な生物が進化するには、様々な条件が必要になるという点は決して軽視できない。地球のような生命は多分唯一無二ではないにせよ、非常に稀である」と言っている。

 これが「レアアース仮説」で、「仮に宇宙に微生物が溢れているとしても、地球の動物のような生物を生むほどの進化が起きる条件を備え、環境の安定した時代が長く続くような惑星は間違いなく稀である」とウォードは言う。

 そしてこう続ける-ダーウィン以来、生物は長い年月をかけて徐々に、一直線的に進化してきたと思われてきた。しかし、そうではなく、生命は、メキシコ、ユカタン半島に落ちて恐竜を絶滅に追いやった小惑星のような、「たびたび恐ろしい事象に直面し、それをくぐりぬけ、最終的に今日見られる生物相に辿り着いた。試練は時に進化を大幅に加速させ、時に生物を絶滅の淵へ叩き込んだ。私たちはすべて、その嵐をかいくぐってきた生き残りである」と。

 

*宗教上からUFOを考えてみる

 カトリックでは、宇宙を創造された三位一体の神、イエス・キリストが人間になって、アダムとイブが犯した罪を償い、十字架につけられて死に、葬られ、3日目に復活されたと信じられている。宇宙に人類と同じ生命体がいたらどうなるだろうか。同じく、その星でも、その生命体での救い主となって十字架に付けられて死ぬのだろうか。

 そんなことはあり得ない。イエス・キリストが被った苦しみは並大抵での苦しみではない。新約聖書には、十字架に付けられて死ぬ前の日の木曜日の夜、園で、これから自分の身に起こる十字架上での苦しみを思って、血の汗を流されたという。

 私は断言する。180億年前のビッグバンから始まったこの宇宙は、魂を持つこの地球上の人類のためだけに造られたのだ、と
。天空にあまたの星々が輝くこの宇宙は、神様が人類のために用意されたものだ、と考えるとわくわくするではないか。毎夜、天体望遠鏡で星を見る筆者の習慣は止みそうにない。

(横浜教区信徒 森川海守)=ホームページ:https://www.morikawa12.com

2024年1月31日

・”シノドスの道”に思う ⑧シノドスをドイツの視点から考える (その2)

 昨年10月の「シノドスの道に思う⑤ドイツの視点から(その1)」の続きです。

 「カトリックあい」の「シノドスの道」の欄でもドイツ・シノドス批判の記事が少なくとも二つ紹介されました。一つは、「シノドスの進め方がエリート主義的であり、全信徒を含んでいない」というもの。もう一つは、「シノドス委員会や2026年春までに設立しようとしている『シノドス評議会』はこれまでのカトリックの教会観を壊すものであり、カトリック教会の秘跡的構造と一致しないので承認しがたい」というものです。

 シノダリティ(共働性)を、どのように教会にもたらすのか(回復するのか)という点から見て、重要だと思われる経過を簡単に見ていきたいと思いますが、その前に、ドイツの司教協議会と共に”シノドスの道”を歩んでいる一般信徒の組織、「ドイツカトリック者中央委員会」(ZdK)について少し紹介したいと思います。

 

*ドイツ・カトリック者中央委員会(ZdK)について

 ZdKの活動は、①ドイツ社会と教会において、公的にカトリック者の関心事を代表する②教会とカトリック者の使徒的行動に示唆を与え、さまざまな働きをコーディネートする③教区レベルを超えて教会の行政的事柄の決定に参画し、また司教協議会に助言する④「ドイツ・カトリックの日」などのカトリック者のイベントなどを共に主張する⑤カトリック者の関心と働きを海外でも、また国際レベルでも行ない、発信する-などです。

 メンバーはおよそ230人、そのうち97人はドイツ・カトリック組合の作業チームから選ばれ、84人は各教区の信徒連合から約3名ずつ選ばれ、45人は個人として選ばれた人たちです。

 

*「シノドスの道」と司教協議会の関係

 ドイツ司教協議会とZdKは、2019年に承認・採択した「シノドスの道の規約」に基づいて4つのテーマで審議と決議をしてきました。この規約によると、シノドス集会で議案が審議されたあと、第11条で「ドイツ司教協議会の参加メンバーの3分の2以上を含む参加メンバーの3分の2以上の賛成で決議となる(議案の通過)」とあり、さらに「シノドス集会で可決した決議案は、それ自体としては法的効果を持っていない。法的効力を持つためには、司教協議会と個別教区司教の権威が法的規範を公布し、それぞれの権限の範囲内で教導権を行使することが必要である。」と定められています。

 「シノドス集会」が「シノドスの道」の最高議決機関ではありますが、実際には司教協議会と個別の司教の権威、権限の下にあるのです。

 

*「シノドスの道」は第2段階へ:シノドス委員会の設立

 批判され、問題とされているのは、主に、以下のことです。

 2022年9月にシノドス集会で採択された実行文書「シノダリティ(共働性)の持続可能な強化:ドイツのカトリック教会のためのシノドス評議会」によると、これまでの「シノドスの道」の歩みをさらにシノダル(共働的)なものにするための審議と決議の場となる「シノドス評議会を2026年3月までに立ち上げること、そしてその準備をする「シノドス委員会」を新たに作ること、となっています。委員会は27人の教区司教、同数のZdKのメンバー、そしてシノドス集会から選ばれた20名で構成されます。

 委員会の目的は、まず、シノドス評議会を2026年3月までに準備することですが、同時にこれまでのシノドス集会で決議されたことを実践していくこと、また諸団体との関係を深めながらシノダリティの概念の理解を深めることにあります。

 

*「シノドス評議会」とは 

 「シノドス評議会」とは、先の実行文書によると「助言し決議する団体として、教会と社会の大きな発展のために助言し、司牧計画や将来の展望、一司教区だけで決めることのできない経済的、財政的事柄の決断をすることにある。評議会の委員構成はシノドス集会のメンバーの比率に合わせ、決議した事案はシノドス集会と同じ法的効力を持つ」とあり、バチカンなどから出されている批判は、「この評議会が、司教協議会の権限を上回る機関になるのではないか」、それゆえ、「司教たちと一般信徒の<共同統治>を含むシノドス評議会モデルはカトリックの教会観と一致しない、カトリック教会の秘跡的構造と一致しない」というものです。

 

*シノドス委員会で決議はされたが・・・

 2023年3月のシノドス集会で、シノドス委員会を設立することが決まり、11月に第一回の設立集会がエッセンで開かれ、シノドス委員会の規約と議事進行規定が決議され、その後のZdK総会で圧倒的多数の賛成で、規約が採択されました。ただ、最終的に効力を持つには司教協議会総会の決議が必要なため、2月にアウクスブルクで開かれる総会がどのような展開となるか注目されています。

 

*“一致”の乱れ、委員会の合法性、運営資金などの問題

 総会で問題とされそうなのは、シノドス委員会の規約で、投票・議決に関する条項に「この規約で何か他のことがない限り投票数の単純多数で議決される。シノドス委員会の最終投票(決選投票)では投票数の3分の2の多数で議決される」とある点です。

 これまでのシノドス集会の「ドイツ司教協議会の参加メンバーの3分の2以上を含む参加メンバーの3分の2以上の賛成で議決される」と比べると、司教優位から、司教も一般信徒も同等の投票に変わっており、4名の(保守的な)司教が委員会から外れてしまったため、司教たちとZdKとのパワーバランスが信徒優位になったと理解されています。

 保守派とされる4名の司教は、これまでのシノドス集会で、シノドス評議会やシノドス委員会の規約について反対票を投じただけでなく、自らシノドス委員会から手を引きました。司教団の“一致”が壊れた、とも言えるシノドス委員会や評議会に「合法性」はあるのか、という疑問も持たれているのです。

 司教4名の退出で、委員会の運営資金の調達にも支障が生じています。ドイツの全司教の承認がなければ、ドイツ司教区連盟(VDD)から運営資金が出せないことになっているからです。

 

*秘跡的構造とシノダリティのせめぎ合い・・・

 教会が「秘跡的な構造」であるというのは、『教会憲章』で、教会は救いの「目に見える秘跡」となるように神は望まれたが、その中で聖職者と一般信徒との間に区別を定め、司教たちの教導の下に司祭や一般信徒がいる、「共同統治」は「カトリック的でない」という見方でしょう。

 しかし2022年8月にドイツ司教協議会が出した、世界シノドスのための報告書の「権威と参加」の項に、「私たちは私たちについてだけ決議されることを望んでいない、私たちと共に決議されることを望んでいる」とあり、翌9月のシノドス文書にも、「人間の諸権利なしの人間の尊厳は、ただの要請にすぎない」とあります。一般信徒に一票を与えることなしに尊厳はあるのか、ということです。同年2月のシノドス文書には「教会のシノダリティ(共働性)は、司教たちの団体性以上のものだ」とあります。改めて、シノダリティの定義が問われていると言えるでしょう。

*ドイツ司教協議会www.dbk.de ドイツカトリック者中央委員会www.zdk.de
シノドスの道www.synodalerweg.de など参照      

(西方の一司祭)

 

2024年1月31日