・Sr 阿部のバンコク通信㉔ひとまとめに”外国人扱い”しないタイ社会の良さ

  タイ社会のおいて私たちは「外国人」ではなく日本人。台湾人、韓国人、中国人、ベトナム人、カンボジア人、ミャンマー人、パキスタン人…それぞれの国民で、「外国人」ではありません。「ファラン」=外国人はフランス人の意ですが、西欧、北中南米諸国の国名が分からない時、一般的に指してファランと言います。

  でも、こうした呼び方は別にして、タイ社会が、国外の人をひとまとめに”外国人扱い”しないことは嬉しい限りです。近隣諸国が陸続き、人とモノの流れの分岐点であり合流点でアクセスが良く、あらゆる国から千客万来。異なった文化と民族を受け入れるどほどに、心の領域と視野も広がります。異文化の受容に柔軟で、大らかなタイ社会はたしかに居心地がいい。

    各自の信仰についても同様。仏教国であっても其々に信奉する信仰を持っていて、仏教、カトリック、プロテスタント、イスラム、ヒンズー、シーク他、むしろ信仰を持って生きる事は人間の当然の在り様と受け止められていている社会、タイ駐在の日本人カトリック信者の皆さんも、信仰を表明して、伸び伸びと生活しておられます。

   ここタイには、アジア諸国の人々が共存する社会があり、活気に満ちた「協力、共生」を感じます。アジア通貨危機でタイ経済が低迷し、現地での商売に見切りをつける外資企業が相次いだ時期に、日本企業はタイに留まり、この国の経済と国民の生活を支え続けました。「困った時こそ、共に乗り切る仲間になってくれる日本が、本領を発揮するのです」と、現地の会社役員を務めるカトリックの友人が語ってくれました。

  汗だく埃だらけになって共に働き、創造する喜び達成感を味わう醍醐味を、国境、利害関係の有無を越えて体験している人々がいる。本当に嬉しく思います。

  人間社会の凄みと成熟は、多民族の共生から実現される、と思います。難民問題が大きく世界中の話題になっている今日この頃、「人が植え、整備された人工林よりも、雑木林は、確かに強い」-そういう人間社会を期待する気持ちを、改めて強くしている私です。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
2018年9月1日 | カテゴリー :

・菊地大司教の日記㉜吉祥寺教会で福音宣教講演会・9月、10月の予定など

 

*吉祥寺教会で福音宣教講演会

 8月25日の土曜日、午後1時半から、神言修道会日本管区の宣教事務局主催で、福音宣教について考える講演会が開催されました。宣教事務局長のディンド神父から依頼を受けましたので、当日、講演をさせていただきました。

 また参加者の方々には、そのまま、午後4時からの小教区のミサにご参加いただき、私が司式いたしました。

 なお当日は、名古屋の神言神学院で学ぶ神学生たち6名(そのうち二人は助祭)が、養成担当の暮林神父と一緒に参加され、講演の休憩時間に歌を披露したり、ミサの時に助祭の奉仕と侍者をしてくれました。

 また吉祥寺教会の聖歌隊の皆さんも、休憩時間に歌を披露したり、ミサの歌を担当してくださいました。感謝です。そして吉祥寺教会の信徒の多くの方が、プログラム進行に協力くださいました。ありがとうございます。

 神言会の宣教事務局とは、海外に派遣されている宣教師の会員を支援したり、来日する宣教師会員を支援したり。また地域の教会で、福音宣教への意識を高めるための様々な活動を行う事務所です。私自身も、その昔、ガーナへ派遣されていた当時は、募金を集めていただいたり、ガーナからのニュースを国内で配布していただいたり、帰国時には宣教地のお話をする機会を設けていただいたりと、様々な形で宣教事務局のお世話になりました。

 神言修道会では、各管区に規模の違いはあれど、宣教事務局があり、その中でも、ドイツと米国シカゴの宣教事務局は、宣教地への物資の提供なども行う非常に大きな組織となっています。

 さて、講演は、福音宣教の喜びについて、二つお話をせよ、とのリクエスト。

 一つ目は、主に第二バチカン公会議の教会憲章から、教会の本性としての福音宣教についてお話をし、さらに第二バチカン公会議の最後にやっと採択された「宣教教令(Ad Gentes)」の成立に神言会がどれほど関わり、今の神言会がその具体化のために務めていることをお話ししました。後半では、アドリミナの時にベネディクト16世から質問された「教区の希望」について、特に山形県新庄のフィリピン出身の信徒の方々の活躍について、お話させていただきました。

 参加してくださった皆さん、ありがとうございます。困難な道であっても、くじけることなく、勇気を失うことなく、「あなたをおいて誰のところへ行きましょう」の心意気を持って、福音を言葉と行いで証ししていきましょう。

 パウロ6世の言葉の通り、神様はご自分だけがご存じの方法で、愛する人類を救うに違いないのですが、かといってそのために召された私たちが、恐れや恥や誤った説によって福音宣教を怠るなら、果たして私たちの救いはあるでしょうか?忘れずに。

(2018年8月26日 (日) 司教の日記より)

*9月と10月の予定

まもなく八月も終わりですので、九月と十月の主な予定を掲載しておきます。なお個別の来訪者の予定などはここには記していませんので、予定が記載されていない日が必ずしも空いているわけではありませんので、ご来訪のご希望などがある場合は、必ず事前に教区本部事務局にご確認ください。

  • 9月2日  滞日外国人司牧担当者意見交換会
  • 9月3日  カトリック神学会 懇親会 (上智大学)
  • 9月5日  神の愛の宣教者会 ミサ (15時半)
  • 9月6日  常任司教委員会、社会司教委員会 (潮見)
  • 9月6日  平和旬間委員会 (関口、18時)
  • 9月7日  HIV/AIDSデスク会議 (潮見、15時)
  • 9月8日  マリアの園幼稚園お話 (予定、調布、10時)
  • 9月8日  財務担当者会議 (関口、14時半)
  • 9月9日  神言会JPIC講演会 (名古屋、13時半)
  • 9月10日 司祭評議会、司教顧問会、責任役員会 (関口)
  • 9月11日 健康診断
  • 9月12日~13日 東北巡礼
  • 9月14日 秋田の聖母の日 (聖体奉仕会、秋田)
  • 9月15日 宣教司牧評議会 (関口、14時半)
  • 9月17日 パリウム授与ミサ (カテドラル、13時)
  • 9月18日 カリタスジャパン委員会  (潮見、10時)
  • 9月18日 ロゴス点字図書館打ち合わせ (潮見、14時)
  • 9月20日 経済問題評議会 (関口、18時半)
  • 9月22日 聖ヨハネ会総会ミサ (小金井、10時)
  • 9月23日 松戸教会ミサ (10時半)
  • 9月24日 さいたま教区司教叙階式 (さいたま、11時)
  • 9月25日~26日 新潟教区司祭黙想会 (軽井沢)
  • 9月27日 ペトロの家運営委員会 (関口、14時)
  • 9月28日 聖園幼稚園保護者お話 (関口、9時半)
  • 9月29日~30日 新潟教区信徒大会 (秋田)
  • 10月1日 司祭評議会、社会部門連絡会 (関口)
  • 10月2日 カリタスジャパン援助部会 (潮見、13時半)
  • 10月3日 ペトロの家ミーティング (関口、8時半)
  • 10月3日 ロゴス点字図書館映画会 (中野ゼロ、19時)
  • 10月4日 常任司教委員会 (潮見)
  • 10月4日 グアダルペ宣教会ミサ (17時)
  • 10月6日 真生会館講演会とミサ (信濃町、13時半)
  • 10月7日 ケベック外国宣教会70周年ミサ (赤堤、11時)
  • 10月8日 鹿児島教区司教叙階式 (鹿児島、13時)
  • 10月10日 ロゴス点字図書館打ち合わせ (潮見、16時)
  • 10月11日 五日市霊園合葬墓祝福式 (五日市)
  • 10月12日 田園調布雙葉保護者講演会 (19時)
  • 10月13日 受刑者のためのミサ (麹町教会、14時)
  • 10月14日 こどものミサ (カテドラル、14時半)
  • 10月14日 聖心会ミサ (聖心会、17時半)
  • 10月15日 司祭評議会、CTIC運営委員会 (関口)
  • 10月16日~19日 カリタスアジア理事会 (バンコク)
  • 10月20日 ラテン語ミサ (カテドラル、15時)
  • 10月21日 目黒教会堅信式 (10時)、上野毛教会堅信式 (14時)
  • 10月22日 ペトロの家運営委員会 (予定)
  • 10月23日 カリタスジャパン啓発部会 (潮見、10時)
  • 10月24日~26日 東京教区司祭研修会
  • 10月26日 ロゴス点字図書館 法人理事会 (潮見、14時)
  • 10月27日 オスカル・ロメロ列聖感謝ミサ (カテドラル、10時)
  • 10月27日 海外宣教者を支援する会講演会 (ニコラバレ、13時半)
  • 10月28日 清瀬教会ミサ (10時)、師イエズス会ミサ (八王子、16時半)
  • 10月29日 HIV/AIDSデスク会議 (潮見、11時半)
  • 10月30日~31日 カリタスジャパン全国担当者会議 (潮見)

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(「司教の日記」よりご本人の了解を得て転載)

・三輪先生の国際関係論㉝教育、研究と金銭、アメリカと日本の場合

 フォード財団の理事長がある時、こう語った。「研究助成をした場合、その成果だけが必要。いかに金銭を使ったか、領収書の添付など、要求したりしない。それに対して日本では、公的な助成を受けた場合、1銭1厘まで領収書の添付が要求される」。

 あるアメリカ人学者も、私にこう訴えたことがある。相手は国際交流基金だ。研究助成金交付の公募に応じて、見事成功した。それを受け取る一種儀式めいたことがあり、財団の理事長に挨拶した。そして数年後、研究成果の報告書を提出した。アポイントを取って挨拶に伺った。

 「口頭で研究の概要をお話しするつもりだったが、びっくりしたことに、愛想よく迎えてくれたものの、研究成果の報告には全く興味を示さず、だらだらと世間話に終わってしまった」そうだ。随分と無駄な金を使っているのではないか、との印象を受けたという。

 教育の話は、もう50余年も昔になる私自身が体験したことである。プリンストンの大学院で勉学中、岳父が危篤、との電報で急きょ家族ともども帰国することになったが、為替の問題もあり旅費を用意することが出来ない。指導教授に相談すると、総務の事務員がやってきて、私の手に1000ドルを握らせた。「借用書を書きましょう」と言うと、「いいのです」との返事。

 「だってそうでしょう。わが大学は貴方に来てもらって勉学してもらっているのです。緊急なご帰国をお助けするのは当然のことでしょう」という説明だった。

 凄い。日本の文科省官僚に聞かしてやりたい金銭感覚だ、と感じたものだ。(2018・8・31記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・Sr.岡のマリアの風㉜9月の初めに:小さな道を歩もう-初心にかえって-

 8月を「聖母の被昇天」の祭日 一年の典礼暦の中で一番大きな聖母の祭日 を祝って終え、9月を、「聖マリアの誕生」の祝日で始める。東方正教会Orthodox Churchでは、9月は、新しい典礼暦の始まりである。

 聖マリアの「誕生」をもって始まる、新しい時。それは、「小さな道」とも言えるだろう。

 聖マリアの誕生の場は、伝統的に、エルサレムの、現在の「聖ステファノの門」の近く、聖アンナ教会があるところだったろうと言われている(諸説あるけれど)。それは、イスラエルの民の宗教の中心地、エルサレムで起こったとしても、当時、ほとんど人目に付かない、宗教の指導者たちの目からは隠された、「小さな」出来事だっただろう。

 7月、ローマの恩師、先輩たちと会い、ヨーロッパにおいても「マイナー」な神学分野であるマリア論の研究を、喜びと熱意をもって続けている姿を見た。また、ローマ出張の後に訪問したポーランドの共同体の姉妹たちの、素朴で力強い信仰と、聖母への、子どものように単純な崇敬を体験した。

 8月、本部修道院では、被昇天の聖母祭日 8月15日 を中心に、祭日前の「9日間の祈り」(ノヴェナ)と、祭日を含む「8日間の祈り」を、姉妹みなで祝った つまり、8月6日から始まり、8月15日で頂点を迎え、8月22日の天の元后聖マリアの記念日までその間、晩の教会の祈りの少し前に聖堂に集まり、聖母賛歌を歌い、聖母の被昇天の神秘に関する教会の伝統を、ゆったりと聞く 今年は特に、教皇フランシスコ、教皇ヨハネ・パウロ二世の講話、祈りを味わった。

 祭日、8月15日には、一時間の「被昇天の聖母の集い」を行った。修道院の長い廊下を通って聖堂まで、聖母像を先頭に聖歌を歌いながら行列し、聖堂では、各々バラの花(シスター手作り)を捧げ、聖母像に触れて祈る。共に「聖母の戴冠式の連祷」を歌う祈りの期間中の主日には、ミサにあずかった障がい者施設の利用者、その他の信徒の方々が ミサの後、それぞれ行列をして聖母に花を捧げた。

 最終日の8月22日、天の元后聖マリアの記念日には、聖堂の大きな聖母像に荘厳に戴冠し、九日間と八日間の祈りの中で捧げてきたものすべて(花、手紙…)を、聖母像の前に捧げた。

 聖母や聖人のご像や絵に触れたり接吻したりするのは、日本的な感覚ではないかもしれない。でも、本部修道院は、ポーランド、韓国、ベトナムの姉妹たちと共に共同生活をしている場。それぞれの国の信仰感覚-それは特に、「民間信心」の中に培われ、温められ、表現される-を共有することによる豊かさを、わたしたちは現に経験している。

 いわゆる「民間信心popular piety」については、教皇フランシスコがたびたび示しているように、パウロ六世の、使徒的勧告『福音宣教Evangelii nuntiandi 1975 -まさに、福音宣教に関する「座右の書」-48項に、簡潔だが深い要約を見ることが出来る。それをさらに、現代のわたしたちにも分かりやすく説明したのが、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜びEvangelii gaudium 2013 122 126項(「民間信心がもつ福音化の力」というサブタイトルがついている)だろう。

 付け加えれば、パウロ六世の文書自身、第二バチカン公会議の『教会の宣教活動に関する教令Ad gentes 1965 第2項の、次の要約的一節を深めたものとも言える:「地上を旅する教会は、父である神の計画に従って、御子の派遣と聖霊の派遣とに由来するのであるから、その本質上、宣教的である」。

 教皇フランシスコは、『福音の喜び』の123項で、第二バチカン公会議後の数十年間で「再評価」されるようになった民間信心に「決定的な弾みをつけた」のが、パウロ六世の『福音宣教』であると述べ、次のように要約している:「パウロ六世は、民間信心は『素朴で貧しい人々のみが知りうる、ある神への渇きを示していて』、『信仰告白が問われるときには、人々に自らをささげて、熱心に徳の頂点の至らせる力を与えます』と説明しています」。

 また、125項では、教皇フランシスコ自身の経験を 日常の分かりやすい言葉で表現している:「今、わたしが思い出しているのは、彼ら[貧しい人々]の強い信仰です。信条(クレド)の信仰箇条を知らなくとも、病気の子どものベッドの足元で熱心にロザリオを唱える母親たちのことです。マリアの助けを求めて、質素な家にともされたろうそくに心からの希望を寄せる人々、十字架のキリスト像に親しみを込めたまなざしを向ける人々のことです。神の忠実で聖なる民を愛する人なら、こうした行為は神的なものを求める自然な探求心に過ぎないという見方はしないでしょう。こうした信心行為は、わたしたちの心に注がれた聖霊が働く、み心にかなう生活の表れです(ロ―マの信徒への手紙5 章5節参照)」。

 本部修道院の「聖母賛美」の中で、聖母像に軽く手を触れる人、その顔をやさしくなでる人、何かを語りかける人、手を置きながら、しばらくじっと祈る人… 姉妹の中に、それを「外面的」とか、「迷信的」などと言う人はいない。どの姉妹も真剣。そして、おのおのの、聖母との対話を尊重し合う。そのようにして、賛美の時は深められていく。

 8月中提出の、日本カトリック神学院、神学2年生の「マリア論」レポートの採点をした。毎年のことだが、神学生たちのレポートが入った 版の封筒が届くと、緊張する。

 むやみに開けて、神学生たちのレポートを、その辺に散らばせておく気持ちはなれない。というわけで、結局、8月下旬まで、封をしたまま、作業室に置かれていることになる。採点をする日は、前日から「覚悟」を決め、作業室の机の上の整理をする。当日の朝、(少しは整頓された)作業室で、祈りながら封を開ける。

 なぜ緊張するか、といえば、神学生たちのレポートは、自分の授業を、ある意味で「映し出す」ものとも言えるからだ(少なくともわたしはそう思う)。わたしが伝えたかったことが反映されているのを見たら、素直に感謝。わたしの授業で欠けていたことが反映されているのを見たら、率直に反省、来年度のための参考とする。

 大神学校での授業、初めての年は、もしも落第点を付けなければならないほどのレポートがあったらどうしよう、と心配だった(自分もつい最近まで学生だったから)。しかしこれは杞憂に過ぎないことを、最初の年で分かった。

 点数を付けるというのは、付けられる方もだが、付ける方も、気分のよいものではない。どこまで、自分の好みではなく、客観的に評価できるのか。

 わたしは、採点のために決めた日は、他の仕事で中断せずに、一気に集中してレポートを読むことにしている。全部読んでから、一つ一つ読み直し、また全部読む。採点をした後で、「神学生たちに向けて」、全体的に評価できる点、全体的に欠けていると思われる点を示し、参考のためにアドバイスを書く。 一枚の、簡単なものだが、これがせめてもの、わたしの神学生たちへの感謝の気持ちである。

 今年の神学2年生のレポートも、わたし自身、教えられることが多かった。神さまは、一人ひとりを、ご自分の姿、似た者として造られた。その、一人ひとりが、こんなに違うということは、神さまがいかに、限りなく大きく、広く、深いかを教えてくれる。誰一人欠けても、唯一の方向に向かって歩んでいる「人類家族」の旅路に必要なものが、欠けるだろう。

 「独り言」の始めに戻れば…  わたしのしていることは、何と小さいのか、と、時々思うことがある。

 そういう時には「初心」にもどりたい。わたしの初心だけでなく、キリストの民の初心、そして、神の民の初心。 モーセは、イスラエルの民全体に思い起こす:「あなたの神、主は地上のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝とされた主があなたたちに愛情を傾けて、あなたたちを選ばれたのは、あなたたちがほかのどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたたちはすべての民の中で最も数の少ない民であった。しかし、主はあなたたちを愛誌、また先祖に立てた誓いを守られたので、主は強いその手であなたたちを導き出し、どれの家から、エジプトの王 ファラオの手からあなたを贖われた」(申命記7章6~ 8節参照)

 イスラエルの娘、ナザレのマリアは、だから、高らかに宣言する-「主は、身分の低いはしためにも目を留めてくださった」。「身分の低い者を引き上げ」、「飢えた人を良いもので満たす」主、力ある方が「 わたしに偉大なわざを行われた」と(ルカ福音書1章 48 、49、 52、 53節参照)。

 イエス自身、父である神が、「小さい者たち」にご自分を現してくださったこと、それが神の望みであることを知り、喜びにあふれる(同10章 21 、24節参照)。

 6月に訪問した、韓国の「マリアのけがれなきみ心」修道会の総長、Sr.Mにメールを書いた。わたしたちは小さなもので、小さなことしか出来ないけれど、その小さなことを、率直に、単純に、謙虚に積み重ねていきたい、それがマリアに倣う生き方なのだと思う、協力してくださいませんか、と。Sr.Mから、小さな力を分かち合って、よろこんで協力します、と返事が来た。

 父である神が、わたしに、わたしたち一人ひとりに託した「夢」。わたしたちは、その「夢」の実現の協力者なのだろう。そして、神の望みは、すべての人を、ご自分の永遠の命の中に招き入れることである。わたしたちは、神の「夢」を実現しながら、わたしたち一人ひとりの召命を実現していくのだろう。それは、わたしたち一人ひとりが、「わたしたち自身」になること-造り主の神が望んだわたしたちの姿になること-である。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年8月30日 | カテゴリー :

・Sr.石野の思い出あれこれ②ベトナム人シスターと日本にいた弟2人のこと

 ローマにベルギー系の女子修道会が経営するレストランがある。ウエートレスは皆シスター。シスターと言っても修道服を着ているわけではなく、思い思いの服装で働いている。

 常時3、4人のシスターがいるが、その中にベトナム人のシスターがいた。ベトナムで修道院に入り、ベルギーに勉強に行ったが、ベトナム戦争が勃発して祖国に帰れず、そのままベルギーに残った、と言っていた。

 ある日、そのシスターから「弟がフィリピンのマニラから日本に行ったのを知ったが、居所が分からず連絡の取りようがない、何とかしてもらえないか」と相談を受けた。

 突然のことで、どうしてよいか分からなかった。でも考えた。ベトナム人のボートピープルなら皆、同じ所にいるだろう、日本のカトリック教会はその人たちのお世話をしているはずだ、と。

 そこで東京の大司教様に手紙を出した。すぐに返事をいただいた。ベトナム人の係をしているシスターを紹介して下さった。早速そのシスターに連絡を入れた。

 ベトナム人の弟さん二人は倉敷に住んでいて繊維工場で働いていることが分かった。姉のシスターの心は燃えた。すぐにも倉敷に飛んで行きたい-そう思ったのは当然だが、彼女は心臓を患っていたため、飛行機での長旅は出来ない。せめて電話でも話せたら、と言うことで、そちらを試してみた。

 ある日、ローマから、彼らが働いているという工場に電話を入れてみた。返事が返ってきた。10年以上も会っていない姉弟は、多くのことは語らなかった。流した涙が多くを語っていた。

 声を聴き、言葉を交わした姉と弟は「会って直接話したい」という強い望みにかられた。難民として日本に入国したベトナム人が日本を出ることは難しい。そんなことは分かっていた。それでも何とかならないものか。彼らのその強い思いがまた、わたしの心を動かした。

 ちょうどローマ駐在の日本大使館に勤務していた日本公使と親交があったので、事情を話してみた。彼はすぐ動いてくれた。そして日本の外務省から2人のベトナム人に3週間の日本外滞在の許可を取ってくれた。こうして2人の弟は姉を訪ねてローマに来ることになった。

 2人がローマに着いたとき、空港まで迎えに出た姉は、弟をすぐに見分けることが出来なかったとか。翌日二人は姉に連れられてバチカン放送局にわたしを訪ねてくれた。二人並んで直立不動で「シスターは僕たちの命の恩人です」としっかりした日本語で言って最敬礼をした。

 小さな船に70人で乗り込み、波にもまれ、食べ物もなくなり、恐ろしい日々を過ごしていた。立派な船が何隻も近くを通って行った。いくら助けを求めても救ってもらえなかっ た・・・。「そんな中で日本の船が僕たちを助けて、マニラに連れて行ってくれた。『日本人はいい人たちだ』。そう思って日本に行くことを決めた 日本に行ったことを後悔していません」と話してくれた。

 一週間ほどローマに滞在して、彼らはまた日本に向けて出発した。その後、弟たちはベトナムの女性と結婚し、子供にも恵まれた。結婚式に招待されたが、行けなかった。その後も何回か文通したが、やがて音沙汰も絶えてしまい、今はどこでどうしているか分からない。ひたすら幸せを祈るばかりだ。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年8月27日 | カテゴリー :

・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑬清少納言・枕草紙の「良きもの」を想起させる一遍の詩

 イスラームの信仰に真摯に生きようとした14世紀の大詩人ハーフェズが、イスラームでは禁じられている酒(葡萄酒)を実際飲んでいたのか、あるいは詩的創造におけるシンボルとして用いるだけで現実には飲んでいなかったのか、その問題との関連で、500数編(ガザルという短形式)からなるハーフェズの詩集の中から一遍を全体として紹介する。

 因みに、ガザルという短形式の詩は、短文2つを単位とし(ベイト)、5~15個のベイトから構成される。以下のガザルの場合、ベイトは9つである。

 「恋 青春 ルビー色の葡萄酒 親しき友との交わり 気ごころの合う友との絶えまなき酒の宴 甘き唇の乙女 楽しい調べ 立派な同席の人たち 評判の従者たち 永遠の命を与えるという泉もうらやむほどの清き細身の乙女 満月も妬むほどの魅力的な美しさとやさしさ

 天国の宮殿にあるかのような楽しき宴 周りの庭はまるで平安の郷の庭園のよう 宴の同席の輩は皆心正しき人 従者は礼儀正しく 友は秘密を守り 人の成功を願う人たち 口にしみこむような しかもまろやかで美味しい花色の葡萄酒の杯

 美しい娘の赤い唇を肴に ダイヤのような葡萄酒を話のタネにして 美女の目配せは 剣が知性を裂くがごとく 美女の黒髪は心を奪うために網を広げているよう ユーモアで細やかに 美しき言葉を紡ぐひと

 ハーフェズのように 寛大な施しを与え 世界を明るくするひと ハージ ガワームのように こうした寄合を楽しく幸せと思わない人 こうした交わりを求めない人たちに 人生は禁じられたもの」

 これまで紹介してきたハーフェズの詩句の断片は、軒並み神への恋の道における苦悩・苦痛を歌い上げたものであったが、この詩のように恋と酒、良き友、人生を賛歌する詩も少なくない。青春の頃、神との幸せな出会いの時、また良き庇護者を得たときに読まれたと思われる。これを読めば、ハーフェズが現実に恋や酒に全く疎かったとは考えにくい。ハーフェズのこういった詩に接すれば、詩人が葡萄酒の味を全く知らなかったとは到底考えにくいが、いずれにしても今となっては永遠の謎である。

 ハーフェズの詩一遍全体を紹介したついでに、この詩に出てくる2人の個人名について述べておく。

 一人はハージ ガワームである。シラーズを中心とするファール地方の宮廷の有力な大臣で、王の信頼暑く財政をまかれていた。ハーフェズを庇護し、ハーフェズもこの大臣を讃嘆して歌った。ハーフェズが有力者を讃嘆して歌うのは他に例がないではないが、多くはない。ハーフェズにとって幸せな時期であり、それが詩歌に反映されている。しかし権力者がずっとその地位にとどまるわけではないから、庇護も永遠ではない。ハージ ガワーム、そのハーフェズへの庇護も例にもれなかった。

 もう一人は詩人自身である。ガザルという詩形式では、詩人が自らの名を挿入するのは珍しいことではなく、ハーフェズのガザルにはほぼすべてに詩人の名前が、大方最後かその前の行(ベイト)に言及される。

 最後に一言、この詩は、ハーフェズよりも二世紀半早く日本に生きた才女、清少納言の「枕草紙」の「良きもの」を想起させないであろうか。

(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)駒野欽一(元イラン大使)

・Dr.南杏⼦の「サイレント・ブレス⽇記」㉓宗派超えた灯篭流し-この川だけの⾵景

 夏の猛暑がわずかに⼩休⽌を⾒せた8⽉17⽇の⼣暮れ時、東京・多摩東部の調布市を流れる野川の川辺を訪ねた。

 野川は、東京都のほぼ「真ん中」に位置する国分寺市東恋ヶ窪の湧⽔を源とする延⻑約20キロの川だ。国分寺から南東へ流れ、世⽥⾕区内で多摩川へと合流する。途中、調布、⼩⾦井、三鷹の三市にまたがるエリアは、野趣に富む都⽴公園「野川公園」として市⺠の憩いの場となっている。

 この河川については、⽇本⾃然保護協会の⻲⼭章理事⻑が、「それは東京に息づく貴重な『緑と⽔』の景観である」と書いておられる。ただ、その知名度は、都⺠の間でもあまり⾼くないと⾔えるだろう。

 ⾒聞の狭い私⾃⾝も、近隣市に住みながら野川を訪れるのは初めてである。

 暮れ合いの時分に慣れぬ川辺に下りた⽬的は、「灯籠流し」の⾒物だった。⽕を⼊れた灯籠を慰霊のために⽔⾯へ流す灯籠流しは、⽇本各地で⾏われている。全国的に⾒れば、広島市の原爆ドーム対岸にある元安川で開催される「ピースメッセージとうろう流し」や桂川・渡⽉橋で⾏われる「京都嵐⼭灯籠流し」などはつとに有名だ。多摩の住宅地を流れる⼩さな川で⾏われる灯籠流しなど、新聞やテレビなどで報じられる機会もない。

 しかし、野川の⼣べは記憶に刻まれる時間となった。今年で17回を数えるという野川灯籠流しは、他所で⾏われている同様の催事とはまさに趣を異にしていた。なぜなら、ここでは灯籠を川に流して物故者を追悼するという⾏事そのものが、キリスト教をはじめとする地域のさまざまな宗教の聖職者たちが参加する形で営まれていたからだ。

 午後6時半過ぎ、調布市を流れる野川・御塔坂(おとうざか)橋の近く。草茂る川辺にずらりと集まったのは、カトリック調布教会の神⽗、調布市神職会の神主、調布市仏教会の僧侶、⽴正佼成会の⼥性信者、築地本願寺ら雅楽奏者たちだった。本願寺の奏者が雅楽を奏でたのに続き、教会の聖歌隊が賛美歌を歌う。神主は祝詞を、僧侶は経を唱えていく……。

 ⽔の犠牲者の慰霊のために、もともとは多摩川で⾏われていた供養祭を野川に会場を移して今年で17回⽬。2011年からは東⽇本⼤震災の犠牲者追悼
も追記するようになったという。

 各宗教の祈りが続く中で、灯籠に⽕が⼊れられ、次々と川⾯に放されていく。家名⼊りで先祖の供養を託された灯籠、両親の名前や、亡くなって間もない愛する⼈の名を記した灯り、ペットの名前で揺れる灯籠……。

 この⽇、野川に流された灯籠は約1000基にのぼった。カトリック調布教会の聖歌隊が歌う「花は咲く」を聞いて、⽬尻を押さえる参加者の姿がとりわけ印象的だった。

 俳句で「灯籠流し」は、秋の季語だという。川辺には夏の終わりが近づきつつあることをほのかに感じさせる⾵が吹いていた。

 午後7時30分。⼀連の⾏事を終えて、⼈々は野川を後にする。聖職者たちは互いにあいさつを交わし、参列者たちとともに、おだやかで平和な⼼持ちで帰路についていった。先に紹介した⻲⼭⽒の表現をお借りするとすれば、「それは東京に息づく貴重な『祈りと⽔』の景観だった」と⾔えるだろう。来年もまた、同じ場所で、同じ景⾊を⽬にしてみたいと感じる⼣べだった。

 (みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり⽅を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が、7⽉12⽇に⽂庫化されました。クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた⻑編⼩説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中)

2018年8月25日 | カテゴリー :

・三輪先生の国際関係論㉝「献花」は降伏文書調印の9月2日がふさわしい

   国民統合の象徴として天皇皇后が先の戦争での死亡者の慰霊を見事になされたその直後に、内閣総理大臣とは言え、一政治家が献花する、というのは、彼の憲法改正とか、もろもろの政治的アジェンダを考えると、いかにも不適切である。

    それは終戦記念日とは切り離して、降伏文書調印記念日である9月2日にするのがふさわしい。降伏文書の調印は1945年9月2日、東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で日本と米英ソ中の連合国との間で行われた。そして、翌日の3日に、昭和天皇は歴代の天皇の霊に、これで戦争が終わった、と報告されたのである。(2018.8.15記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・菊地大司教の日記㉛「本当の強さは『謙虚さと優しさ』という徳のうちに」-終戦と聖母被昇天の日

2018年8月16日 (木)聖母被昇天祭@関口教会

 8月15日は終戦の日であるとともに、聖母被昇天祭です。そしてもともとは初代教会時代の殉教者であるタルチシオ-わたしの霊名-の記念日。8月15日は、8世紀くらいから聖母被昇天の日として祝われていたようですが、教義として決定されたのは1950年のこと。

 昨日の聖母被昇天祭は、関口教会の晩6時のミサでお祝いしました。当初の予定ではルルドの前で行うはずでしたが、暑さもある事と台風のために風が強く、断念。聖堂で行いましが、韓人教会と共催であったので、カテドラルの聖堂も一杯でした。思いつきましたが、来年以降は、まずルルドの前でお祈りをして、聖母行列で聖堂に入り、ミサにしたらどうでしょう。

 ミサの最後には、霊名のお祝いの花束も頂きました。感謝。ミサ後には関口会館で納涼会。楽しいひとときを、集まった皆さんとともにしました。

 以下、聖母被昇天祭ミサの説教の原稿です。

 聖母被昇天祭の8月15日は、戦争のない平和な世界について思いを巡らせ祈る日でもあります。

 かつての戦争で生命を奪われた多くの方々、敵味方に分かれた双方の軍隊にいた人たち、一般の市民、戦場になった地で巻き込まれてしまった多くの方々。理不尽な形でその尊厳を奪われ、暴力的に命を失った多くの方々への責任から、私たちは逃れることはできません。「戦争は人間のしわざ」だからです。

 過去の歴史を振り返り、その命に対する責任を思う時、私たちの選択肢は、同じ過ちを繰り返さないという決意を新たにする道しかあり得ないと思います。

 はたして私たちは、いま、どのような道を歩もうとしているのか。あらためて、国家間の対立を解決する手段は武力の行使ではなく、対話でしかないことを、世界の政治の指導者たちが心に留めてくれるように、祈りたいと思います。対立や孤立ではなく、対話と協力の道を選び取る勇気と英知が、国家の指導者たちに与えられるよう、聖霊の照らしを祈りましょう。

 さて、聖母被昇天祭に当たり、私たちの母であり教会の母であるマリア様について、少し考えてみたいと思います。

 教皇フランシスコは、聖母マリアは祈りと観想のうちに、密やかに生きる信仰生活の姿を示しているだけではなく、その霊的な土台の上に、助けを必要とする他者のために積極的に行動する力強い信仰者の姿の模範でもあると指摘されます。

 使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、次のように記しています。

 「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です。・・・教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)。教皇はそう記しておられます。

 その上で、先ほど朗読された聖母讃歌(マグニフィカト)に、その「優しさと愛情の革命的な力」を読み取ることが出来ると、教皇は指摘されています。「革命的な力」です。

 聖母マリアの人生を見れば、それは決して弱さのうちに恐れているような生き方ではありません。それどころか、神から選ばれ救い主の母となるというすさまじいまでの人生の転換点にあって、恐れることなくその運命を受け入れ、主イエスとともに歩み、その受難の苦しみをともにしながら死と復活に立ち会い、そして聖霊降臨の時に弟子たちとともに祈ることで、教会の歴史の始まりにも重要な位置を占めるのです。これほどに強い存在はありません。まさしく、「革命的な力」であります。

 しかし聖母マリアは、あくまでもその強さを誇ることなく、謙虚さと優しさのうちに生きて行かれます。ですから謙虚さと優しさは、弱い者の特徴ではなくて、本当に強い者が持つ特徴です。

 教皇フランシスコの言葉は、現代社会が優先するさまざまな価値観への警鐘であることがしばしばですが、ここでも、いったい本当に力のあるものはだれなのかという、この世の価値基準への警告が含まれていると思います。今の世界では、いったいどういう人が強いものだと考えられているのか。その判断基準は本当の強さに基づいているのか。聖母マリアの生き方を見ると、本当の強さとは、謙虚さと優しさという徳のうちにあるのだとわかります。

 私たちの世界は「謙虚さと優しさ」に満ちているでしょうか。残念ながらそうとはいえません。それよりも、自分たちが一番、自分たちこそが強いと虚勢を張って他者を排除し、困難に直面する人や助けを必要とする存在に手を差し伸べるどころか、不必要なものとして関心を寄せることもない。そんな価値観が力を持ち始めてはいないでしょうか。

 この世界は人間が支配している、自分たちがすべてを決めることができるのだ、などと思い込み、世界の創造主である神の前で、謙遜さを忘れてはいないでしょうか。賜物であるいのちの価値を、役に立つのか立たないのか、などという自分たちの都合で決めることができるかのような傲慢さに満ちあふれていないでしょうか。

 「自分の重要さを実感するために他者を虐げる」のは、本当に強い者の徳ではないと、教皇は指摘されているのです。しかし現実の世界は、「自分の重要さを実感するために」、弱い立場にある者、対立関係にある者、意見を異にする者、生き方を異にする者、社会の中の少数派を、排除する傲慢さに満ちあふれていないでしょうか。

 教皇ヨハネパウロ二世も、聖母マリアの讃歌から、困難に直面する人、とりわけ貧しい人を優先する教会の姿勢を学ぶべきだと、回勅「救い主の母」で次のように指摘されていました。

 「マリアの『マグニフィカト』には、貧しい人たちを優先する教会の愛が見事に刻み込まれています。・・・救いの神であり、すべての恵みの源である神と、貧しい人たち、見下げられた人たちを優先させる神とを分けて考えてはいけない」

 この言葉を受けて教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記しています。
「自分の生活における選択のために他の事柄により注意を払っているので,貧しい人に対しては距離をおいているなどと、だれもいってはなりません。・・・貧しい人と社会正義に対し心を砕くことを免れている人は、誰一人いません。(201)」

 聖母マリアは、ただ単に祈るだけの動こうとしない人ではありませんでした。聖母マリアはエリザベトのところへ手を貸しともにいるために、急いで出かけたのです。福音宣教におけるマリアという生き方とは、すなわち、深い祈りという霊性に支えられながらも、つねに行動することをいとわず、困難に直面する人のために手を貸すためであれば待つことなく即座に そのもとへ出かけていく、生き方であります。

 私たちも「正義と優しさ、観想と他者に向けて歩む力」に満ちあふれたいつくしみ深い聖母の生き方に、少しでも倣っていきたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(「司教の日記」よりご本人の了解を得て転載)

・三輪先生の国際関係論㉜「進歩」とは何か-敗戦記念日を前に思う 

 猛暑の夏、今年も早8月、敗戦記念日が近づいている。その年私は旧制中学校の3年生だった。

 郷里長野県松本市の郊外今日の松本飛行場の近くに突如建設された軍需工場で、勤労奉仕に携わっていた。工場は東京の芝浦タービンの松本工場といい、飛行機の過給機を一環生産していた。市内の男女の中等学校から我々3年次生が動員されて、同年輩のプロの少年工に混じって、旋盤など工作機械を操っていた。

 工場が立ち上がってから半年は経っていただろうか、毎日15、6台の完成品が、東京に送られるようになった。しかし、中島飛行機だったと思うが、そこからの報告によると、実際に使用できたものは1台も無い、という日が何日も続くのだった。つまり毎日不良品、いわゆる「お釈迦」を生産し続けていた。それが、「動いた」という報告になった時、工場内の天井近くにそのニュースが掲げられると、熟練工も少年工も、そして我々中等学校生徒等も皆一緒になって、万歳をしたものだ。

 8月15日が来た、工場は閉鎖され、我々は学校に復帰できることになった。松本市には陸軍第50連隊の兵舎があったから、武装解除を確認するため占領軍としてアメリカ兵が進駐してきた。50連隊の将兵はテニアン島で玉砕してしまっていた。あとを継いだ長野県出身の兵士等は第150連隊を形成していた。

 進駐軍は我々の県立松本中学校にもきた。軍事教練関係の小銃「38銃 などを収めた武器庫を閉鎖廃止させるためであった。京都帝国大学でインド哲学を専攻したと聞いていた、我々の英語教師の英語が役立ったようだった。

 2年後の1947年春、入試に成功し、地元の旧制官立松本高等学校の理科1類に進学した。我々は旧制で3年の高校教育を終える最後のクラスに当っていた。日本政府はマッカーサー司令長官のもとで進行する占領政策に対応しつつ、平和国家、文化国家の建設を目指していた。

 1947年4月の入学式で校長がした訓示は肝に銘じた。「君達が勉学し卒業するまでの3年間に君たち一人ひとりに国庫は10万円を費やすのです。その恩を忘れることの無いように」と。しかし、現場の教室には、それなりに曖昧さがあった。

 軍国主義教育のもとでは、例えばドイツ由来の「地政学」も教科のうちだったが、それは「侵略の学問」として当然削除された。新たな意味づけを持って「倫理学」が開講されていたが、戦前の「修身」教育のようにはいかない。担当教授は苦労したろうと思う。「当たり障りの無い内容に」ということだったのだろうか。講義には、アメリカ人にとっての英雄、ジョージ・ワシントンが取り上げられた記憶がある。

 そして開講一番、宿題が出された。「来週までに『進歩』についてエッセーを書け」というものだった。今日の大学生は「進歩」についてどんなことを書くだろうか。敗戦から2年目の1947年4月、私は当惑した。体験的にしか考えることが出来なかった私にとって、「進歩」は難題だった。「進歩」を見たことが無かったからだ。

 そこで、英語に智恵を借りようとした。進歩はprogress。語源的には「前に進むこと」とある。「前」とは何か、「後ろ」とどう区別するのか。今にして思えば、「前」は、何か絶対的「善」に向かうこと、と定義できたのだろうが、「絶対的善」などというものを想定することが出来なかった当時の私は、困惑した。

 我々の世代にとって、その難しさは際立っていたはずだ。何故かといえば、我々の身近な日常生活で「進歩」を「見たこと」がなかったからだ。一日が暮れ、一日が明ける。毎日が同じように明け、終わるのだった。

 小学校に入学した年から中学の3年生まで、盧溝橋事変で始まった日中戦争が、6年生の時には真珠湾攻撃で太平洋戦争へと拡大し、中学3年生の時に原爆とソ連の参戦に耐えられず 日本政府はポツダム宣言を受諾して連合国の軍門に下った。

 徹底した軍国主義支配の時代で、昨日と今日の間に変化はなかったのだ。占領下の日本の国土に教育上の自由はなかった。マッカーサー司令部の求める教育上の変革があったはずだが。倫理学の先生自身、占領軍の顔色を伺っていたかもしれない。むろん知らずしらずのうちに、であったろうが、先生ご自身きちんと我々を納得させる模範答案を用意しかねていたということも十分ありえたのではないだろうか。

 それから71年がたった。私もそれなりに思想を深めたと言えるだろう。 「進歩」とは絶対的価値を前提としたとき成り立つものだと言い切れるだろう。たとえば「平和」。あの屈辱と希望がないまぜになっていた敗戦の日に夢みた「二度と戦争の無い、平和」こそが、その絶対的価値だ。

 あの日から、どれだけそれに近づくことが出来たのだろうか。いや後退してしまったのだろうか。「進歩」は有ったのか無かったのか… 今ならはっきりわかる。悲しいことだが。(2018年8月1日記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)