・死刑に関する『カトリック教会のカテキズム』2267番の改訂に関する文書翻訳

2018年12月13日(木)、東京・江東区の日本カトリック会館で2018年度の「第2回臨時司教総会」が開かれ、死刑に関し述べる『カトリック教会のカテキズム』2267番についての、以下の二文書の訳が承認されました。

⒈.死刑に関する『カトリック教会のカテキズム』2267番の改訂 — 謁見における教皇答書

教皇フランシスコは、下名の教皇庁教理省長官に対する 2018 年 5 月 11 日の謁見において、『カトリック教会のカテキズム』2267 番の以下の新案を承認し、各国語に翻訳して前記カテキズムのすべての版を差し替えるよう命じた。

死刑 2267  合法的権威がしかるべき手続きを経た後に死刑を科すことは、ある種の犯罪の重大性に応じた適切なこたえであり、極端ではあっても、共通善を守るために容認できる手段であると長い間考えられてきました。
しかし今日、たとえ非常に重大な罪を犯した後であっても人格の尊厳は失われないという意識がますます高まっています。加えて、国家が科す刑事制裁の意義に関して、新たな理解が広まってきています。最後に、市民にしかるべき安全を保障すると同時に、犯罪者から回心の可能性を決定的に奪うことのない、より効果的な拘禁システムが整えられてきています。
したがって教会は、福音の光のもとに「死刑は許容できません。それは人格の不可侵性と尊厳への攻撃だからです」【1】と教え、また、全世界で死刑が廃止されるために決意をもって取り組みます。
この答書は、オッセルバトーレ・ロマーノ紙上での発表によって公布され、同日をもって発効し、よって使徒座官報(アクタ・アポストリチェ・セディス)に公表される。

教皇庁教理省長官 ルイス F. ラダリア枢機卿 バチカンから、2018 年 8 月 1 日、聖アルフォンソ・マリア・デ・リゴリの記念日に
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【1】教皇フランシスコ「『カトリック教会のカテキズム』公布 25 周年の集い参加者への
講話(2017 年 10 月 11 日)」(オッセルバトーレ・ロマーノ 2017 年 10 月 13 日号)

⒉ 死刑に関する『カトリック教会のカテキズム』2267番改訂についての司教への書簡

教理省 死刑に関する『カトリック教会のカテキズム』2267 番改訂についての司教への書簡

1.教皇フランシスコは、『カトリック教会のカテキズム』がヨハネ・パウロ二世により公布された際に発表された使徒憲章「ゆだねられた信仰の遺産」25 周年を記念する際の講話の中で、死刑に関する教えを改訂するよう求めました。それは、このテーマについて深められてきた近年の教義の発展をよりよく反映するためでした1。この発展の中心は主として、あらゆる人間のいのちに向けられるべき尊重を、教会がより明白に意識するようになったということにあります。この考えのもとに、ヨハネ・パウロ二世は「殺人者といえどもその人格の尊厳を失わないのであり、神自身がその保障を明確に約束した」2と断言したのです。

2.司牧者たちの教えや神の民の感覚の中で次第に支持されるようになってきた死刑に対する態度も、同様の考え方で理解すべきです。これまでの政治的・社会的状況において、死刑は共通善を守るために許容される手段と考えられてきましたが、今日においては重罪を犯しても人格の尊厳は奪われることはないという理解がますます広まっています。さらに国家が科す刑事制裁の意義への理解が深められ、市民にしかるべき安全を保障する、より効果的な拘禁システムが整えられてきたことにより、死刑は許容できないものと捉え、死刑廃止を求める新たな意識が高まっています。

3.この発展において、ヨハネ・パウロ二世の回勅『いのちの福音』の教えはとても重要です。教皇は、新たないのちの文化に向けた希望のしるしの一つとして、次のように指摘しています。

「死刑は、社会にとっては『合法的な防御』の一種だと見なされるにしても、死刑に反対する世論が明らかに強まってきました。現代社会は実際のところ、犯罪者に対して更生する機会を完全に拒むことなく、彼らが害を及ぼさないようにさせるやり方で、犯罪を効果的に抑止する手だてを持っています」3。

そして『いのちの福音』の教えは『カトリック教会のカテキズム』の規範版に取り入れられました。その中で死刑は、犯罪の重大性に見合った刑罰として提示されているわけではありませんが、もしそれが「不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道であるならば」正当化されます。しか
し現実には、「今日では……死刑執行が絶対に必要とされる事例は、『皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました』」(2267 番)。

4.ヨハネ・パウロ二世は別の機会でも死刑への反対を表明しており、人格の尊厳を尊重するとともに、現代社会が犯罪者から自己を防衛するための手段を有するよう求めました。それゆえ教皇は 1998 年の降誕祭メッセージの中で、「死刑を廃止するために……世界が一致して、緊急かつ適切な方策をとるよう」4望んだのです。その翌月、教皇はアメリカでも繰り返し述べました。「たとえ罪を犯した者であったとしても、人間のいのちの尊厳は決して奪われないという意識が高まっていることは、希望のしるしです。現代社会は、犯罪者2が回心する機会を永久に奪うことなく、自らを守る手段を有しています。死刑廃止に向けて皆が一つとなるよう、先日、降誕祭で訴えたことをもう一度繰り返します。死刑は残虐であり無益です」5。

5.死刑廃止に取り組む動きは、後継の教皇たちにも引き継がれました。ベネディクト十六世は、「死刑廃止を達成するためにあらゆる努力をする必要があるとして、社会の指導者たちに対しての注意」6を喚起しました。後に彼は、ある信者団体に向かって自分の望みを表明しました。「死刑廃止のため、また受刑者の尊厳と社会秩序の効果的な維持にともにこたえうる刑法の発展のために、多くの国で進められている行政と立法の取り組みを、皆さんの討議が後押しするでしょう」7。

6.同じ観点から、教皇フランシスコは、「死刑囚の罪がどれほど重大なものであったにせよ、今日、死刑は受け入れられません」8と再確認しています。死刑は、その執行方法にかかわらず、「必然的に残虐で、非人間的で、尊厳を傷つけるものです」9。さらに、「刑事司法制度の決定の不完全性と、誤審の可能性のゆえに」10、それは拒絶されるべきです。この観点から、教皇フランシスコは『カトリック教会のカテキズム』の死刑の項目を改訂するよう求め、「たとえ重大な罪を犯したとしても、死刑は許容できません。それは人格の不可侵性と尊厳への攻撃だからです」11と確認したのです。

7.教皇フランシスコによって承認された『カトリック教会のカテキズム』2267 番の改訂は、これまでの教導職と一致したものであり、カトリック教義の正当な発展を裏づけるものです12。新しいテキストは、『いのちの福音』におけるヨハネ・パウロ二世の教えの足跡をたどりながら、犯罪に対する刑罰として犯罪者のいのちを奪うことが容認されないのは、それが人格の尊厳への攻撃であり、たとえ重大な罪を犯したとしてもその尊厳は失われないからだということを確認しています。この結論に至ったのは、現代の国家において適用されている刑事制裁の新たな理解を考慮してのことです。刑事制裁は、何よりもまず犯罪者の更生と社会復帰を目指すべきです。最後に申し上げますが、今日の社会がより効果的な拘禁システムを有しているとするなら、罪のない人々のいのちを守るためには、死刑は不要です。

当然のことながら、公権には引き続き市民のいのちを守る義務があるのであり、それは教導職がつねに教え、『カトリック教会のカテキズム』2265 番と 2266 番で確認されているとおりです。

8.こうしたすべてのことは、カテキズム 2267 番の改訂が教義の真正な発展であり、教導職による以前の教えと何ら矛盾しないことを示しています。以前の教えは実際、共通善を守るという公権の主要な責任という点から見れば、刑事制裁が異なったかたちで理解されていた社会的状況の中で説明されうるのであり、犯罪者がその犯罪を繰り返さないように保障することがより困難な環境の中で発展してきたものなのです。3

9.改訂されたテキストには、「福音の光のもとに」13死刑が認められないとの理解が深まってきたことが加えられています。福音は実際、神の子が担い、清め、成就した被造物の秩序をよりよく理解する助けとなります。それはまた、一人ひとりに回心する時を与えてくださる主のいつくしみと忍耐強さへとわたしたちを招いています。

10.『カトリック教会のカテキズム』2267 番の新たな表現が望むのは、政府当局との敬意ある対話をもって、あらゆる人間のいのちの尊厳を認めるという精神性を奨励し、いまだに死刑が行われている国で死刑制度廃止を即刻実現できる状況を生み出すための、断固たる取り組みの力となることです。

教皇フランシスコは、署名者である教皇庁教理省次官に対する 2018 年6月 28 日の謁見において、当省の常会で6月 13 日に可決された本書簡を承認し、その公表を命じた。

ローマ、教理省より、2018 年 8 月 1 日、聖アルフォンソ・マリア・デ・リゴリの記念日に ルイス F. ラダリア枢機卿・長官 ジャコモ・モランディ大司教・チェルベーテリの名義大司教・次官

1 教皇フランシスコ「教皇庁新福音化推進評議会の会議参加者へのあいさつ(2017 年 10月 11 日)」(L’Osservatore Romano [13 ottobre 2017], 4)参照。
2 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音(1995 年 3 月 25 日)』9(AAS 87 [1995], 411)。
3 同、27(AAS 87 [1995], 432)。
4 教皇ヨハネ・パウロ二世「降誕祭メッセージ(ローマと世界へ)(1998 年 12 月 25 日)」5(Insegnamenti XXI,2 [1998], 1348)。
5 同「セントルイスのトランス・ワールド・ドームにおける説教(1999 年 1 月 27 日)」。「不必要に死刑に頼ることを終わりにしなければなりません」(「グアダルペの聖母大聖堂(メキシコ市)におけるミサ説教(1999 年 1 月 23 日)」[Insegnamenti XXII,1 (1999), 123])参照。
6 教皇ベネディクト十六世シノドス後の使徒的勧告『アフリチェ・ムヌス(アフリカの役割)(2011 年 11 月 19 日)』83(AAS 104 [2012], 276)。
7 同「一般謁見演説(2011 年 11 月 30 日)」(Insegnamenti VII, 2 [2011], 813)。
8 教皇フランシスコ「死刑に反対する国際委員会(ICDP)会長に宛てた書簡(2015 年 3月 20 日)」(L’Osservatore Romano [20-21 marzo 2015], 7)。
9 同。
10 同。
11 教皇フランシスコ「『カトリック教会のカテキズム』公布 25 周年の集い参加者への講話(2017 年 10 月 11 日)」(L’Osservatore Romano [13 ottobre 2017], 5)。
12 聖ヴィンチェンチオ司祭(レランス)『第一忠言書』(Commonitorium, cap. 23: PL 50667-669)参照。教皇庁聖書委員会は、死刑に関して十戒の教えを詳細に取り扱いながら、教会の道徳的立場の「洗練」について述べている。「歴史と文明の発展の歩みの中で、教会もまた、人間のいのちへの尊重によって、死刑と戦争に関する道徳的立場を洗練させてきました。いのちへの尊重は、絶え間ない聖書の黙想を通してはぐくまれ、次第に疑問の余地のないものとなりました。急進的にも見えるこの立場の根底にあるものは、あの変わることのない基礎となる人間学の概念、神の像として創造された人間の基本的尊厳なのです」(『聖書と道徳――キリスト者の行動の聖書的根拠(2008 年)』98)。
13 第 2 バチカン公会議『現代世界憲章』4。

 

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2018年12月14日