・東京教区・藤岡和滋師の葬儀/國枝夏夫師の訃報

【菊地大司教の日記より】

訃報:國枝夏夫神父様 ・・葬儀ミサは11月30日(金)午後1時半から東京カテドラル聖マリア大聖堂で

 東京教区司祭のペトロ國枝夏夫神父様が11月26日(月)、入院中の聖パウロ病院(八王子)で、老衰のため帰天されました。86歳でした。

 通夜は、11月29日(木)午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で。

 葬儀ミサは、11月30日(金)午後1時半から、同じく東京カテドラル聖マリア大聖堂で。

 私がケルン大司教区へ出張中のため、通夜と葬儀は岡田大司教様が司式されます。

 國枝神父様は、1932年8月5日の生まれで、1947年に受洗。1964年3月18日に司祭叙階を受けられました。その後、世田谷、築地、福生などの教会で司牧に当たり、特に60年代は学生指導司祭に専念されたそうです。その後、長期にわたり汚れなきマリア会東村山修道院でミサを担当され、2015年からは、入院生活を送られていました。

 國枝神父様の、永遠の安息をお祈りください。

 

藤岡師の葬儀、東京カテドラル聖マリア大聖堂で

 パドアのアントニオ藤岡和滋神父の葬儀が、11月26日(月)12時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われました。

 亡くなる直前まで、病と闘いながらも、関口教会の土曜日や日曜日のミサを担当し、また近隣教会のお手伝いに出かけていたこともあり、また今年の待降節も、すでにお手伝いの予約も入っていたこともあり、最後まで現役司祭を貫き通した神父様の通夜と葬儀には、300名を超える方々が、両日とも参列し、祈りをともにしてくださいました。

 また葬儀のあった月曜日は、もともとの教区司祭団の予定では、11月の死者の月に当たり、この一年になくなった司祭を追悼するミサを捧げる予定でした。その意向も込めて、多くの司祭が葬儀に参列してくださいました。

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 告別式の終わりには、司祭団が棺を囲み、いつものように「サルヴェ・レジナ」を歌いました。献花の後、藤岡神父様の棺は、後輩の司祭たちによって運ばれ、出棺となりました。

 なお納骨式は、年明けに府中墓地で行われる予定ですが、日程が決まり次第、お知らせいたします。

 以下、通夜の説教の原稿です。

 パドアのアントニオ藤岡和滋神父様は、11月21日の早朝、桜町病院で87年の人生に幕を下ろされました。その87年の人生のうち、60年以上を司祭として、教会のために、すべての人のために、そして神のためにささげられました。

 私は引退してからの神父様のことしか存じ上げません。ペトロの家で隠退生活を送られていた神父様とは、私が東京へまいりましてからこの一年間、朝のミサや、食事の時に、多少の時間をご一緒させていただきました。その中で感じたのは、神父様はなんとも頑固な方であったということであります。

 よく、ご自分は軍人の家庭に生まれた軍人のこどもであり、幼い頃は自分も軍人になるのだと思っていたとお話になっておられましたが、そのような自覚からも、その頑固さが生まれてきたのかも知れません。

 しかしその頑固さは、単に独りよがりの頑迷さではありませんでした。その頑固さは、自分に厳しく、他人には必死になって使えようとする生き方への頑固さであり、信仰に生きることへの頑固さでありました。

 神父様は、前立腺癌と戦っておられましたし、そのほかにもいくつもの病気を抱えておいででした。しかし、身体的な困難を抱えながらも、例えば関口教会の土曜夕方のミサや日曜昼のミサの司式を最後まで引き受け、近隣の教会からも、頼まれれば必死になってミサの手伝いに出かけておられました。この数ヶ月は、肉体的にも非常に厳しくなっていたと思います。時に、主任の西川神父様あたりが、休んだらどうだと勧めても、それはそれは頑固に、自らの務めを果たそうとされました。ペトロの家の毎朝のミサでは、本当に最後まで、聖歌を大きな声で歌われておりました。どんなに肉体的な困難を抱えても、司祭としての奉仕の務めを果たすことを最優先にし、必死にその頑固さを貫き通されました。

 何年か前の教区ニュースの司祭紹介で、ご自分でこう語られています。

 「若い時に入院をすることになり、最初は置いていかれるような気持ちになり焦りました。でも大きな手術をしたら、くよくよしなくなりました。何回か入院していますが、退院したら病人だということは表に出さないと決めています。退院した瞬間、自分は健康人だと言い聞かせ、そうなるのです。それ以来「『病』はすれど『病気』はせず」です。何事も自分で決めて、切り替えられる「チャンネル男」にもなったのもこの時からです。神父が教会で暗い顔をしていたら嫌でしょう?神父が教会で明るくニコニコしていれば、信徒も明るくなれると思うのです。

 全く最後まで、頑固にその生き方を貫かれたと思います。

 癌が進行し、肉体的にも精神的にも苦しみが増し、しかしそれでも入院を断りながら、在宅のケアでドクターから痛み止めをいただきながら、必死に司祭を生きておられました。わたし自身は11月17日土曜日の昼食の時に、最後にお話をしたと思います。入院を勧める周囲に耳を貸さず、それでも時間になると食堂には出てきて、しかし痛みと食欲のなさに苦しんでおられる様子でした。

 近寄って「大丈夫ですか」と声をかけましたら、「どうしちゃったんだろうねえ。食欲がなくて」と一言。「無理せず、お大事になさってくださいね」

 それが、私にとっての最後の神父様との会話でした。私は翌日、18日日曜の夕方には所用のため新潟へ出かけましたが、そのとき、神父様がやっと桜町病院への入院に同意されたと伺いました。

 そして病院の受け入れが整い、入院されたのが20日火曜日。翌21日朝には、御父のもとへ帰られました。あっぱれな司祭人生であったと思います。最後の最後まで、頑固に司祭として生きた、藤岡神父様らしい人生であったと思います。

 ヨハネの福音に、「私が天から降ってきたのは、自分の意思を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」という、イエスの言葉が記されておりました。

 司祭の人生は、まさしく自分のための人生ではなく、神の御心の実現のために奉仕する人生であります。

 イエスご自身が、神の意思の実現においては、妥協を許さない頑固な人であったと思います。司祭もまた、信仰の実践と神の使命の遂行にあっては、やはりおなじように頑固であらねばならないと思います。藤岡神父様の司祭としての人生は、まさしく主であるイエスに倣う、信仰における頑固さに満ちあふれた人生であったと思います。

 師である主イエスに忠実に生きた僕に、父である神が豊かに報いを与え、その懐にあって、永遠の安息を与えてくださいますように。

 

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2018年11月29日