・東京カトリック神学院の再出発ー4月から東京と福岡に神学院

(2019年4月10日 (水) 菊地東京大司教の日記より)

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 4月3日は11時から、東京カトリック神学院の開校ミサでした。「開校」と言っても、神学院は以前からそこにありましたし、建物もそのままです。

 もともと1929年に「東京公教大神学校」この地に創立されており、それが1947年に「東京カトリック神学院」となって、この上石神井の地にありました。九州の福岡には、1948年に創立された「福岡サン・スルピス大神学院」がありました。長年にわたり二つの神学校を持つことへの負担について、また日本全体の福音宣教と司牧というビジョンに基づいて話し合いを進めた司教団は、教皇庁福音宣教省の認可(2008年11月18日付)を得てこの二つを合同し、それぞれを「二つのキャンパスとする一つの神学院」として、2009年4月1日に「日本カトリック神学院」が開校しました。

 合同したことは良かったのですが、同時に問題も見えてきました。これについて、詳しい解説が中央協のホームページにありますが(こちらのリンク)、問題となった部分を引用します。

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『一つの神学院に二つのキャンパスという体制は、東西間に見えない壁があった日本の教会の交わりのために、また、交流が少なかった二つの神学院の伝統や教育法の融合のために有意義でしたが、一つの神学校とは言え、遠距離間に二つのキャンパスがあることで、予想以上に問題が生じました。

 たとえば、

 ・神学生が6年のうち2回キャンパスを移動するので、養成者と神学生との関わりが希薄化し、また、霊的同伴が一貫してできない。また、すべての学年で3学年離れている神学生同士が、6年間を通じて一度も生活を共にすることのない状況になってしまった。

 ・各キャンパスが平均20人以下の人数の場合、各キャンパスでの共同体を構築する能力が低下している。

 ・教員(講師)が遠方から来るため、集中講義が多くなり、教員と学生の負担が大きい。

 ・二つのキャンパスの運営のため経費がかさむ。また、神学生と教師の移動にかかる時間と費用が大きい。

 ・各キャンパスに最低5人の養成者が必要で、全体で10人の養成者の確保が容易ではない。

 そのため、6年経過した2014年4月から、二つのキャンパス制の養成上の弱点を改善するため、二つのキャンパス制を見直し、キャンパスの統合を検討することになりました。そして、ほぼ4年をかけて縷々検討し審議を重ねました。』

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 そういうわけで、このたびあらためて東京と福岡に神学院を持つことになり、東京は、東京教会管区(札幌、仙台、さいたま、新潟、横浜、東京)と大阪教会管区(名古屋、京都、大阪、高松、広島)、福岡は長崎教会管区(福岡、長崎、大分、鹿児島、那覇)の諸教区による、「諸教区共立神学校」として福音宣教省の認可をいただきました。

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 ちょうどバチカンの教皇庁聖職者省が、2016年12月8日に『司祭召命の賜物~司祭養成の為の基本綱要~』と言う指針を新たに示したこともあり、それに沿って日本の司祭養成の綱要も作成されました。今年はまた、司祭養成がこれまでの哲学2年、神学4年の都合6年からから、予科1年が最初に加わり7年と変更になる節目の年でもあります。その意味で、新たな一歩として、神学院は踏み出しました。なお東京教区からは、新たに松戸教会所属の田町さんが予科生として入学しました。

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 開校ミサは、前田枢機卿が司式し、私が、風邪でほとんどかすれた声でしたが、ささやくように、説教をさせていただきました。以下、当日の説教原稿です。

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 「教会は、いままさに危機的な状況に直面しています。残念ながら、教会が聖なる道から離れ、善なる存在とは全く異なる過ちを犯した性虐待の問題が次々と明らかになり、日本でも同様の事例があることも、明らかになっています。

 教会において聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを真摯に反省し、私たちは被害を受けられた方々に、また信頼していた存在に裏切られたと感じておられる方々に、心からゆるしを請い、願わなくてはなりません。

 教会が今直面する危機的状況は、偶発的に発生している問題ではなく、長年にわたり悪のささやきに身を任せて積み重なってきた諸々のつまずきが、いまあらわになっているのです。虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

 そのような危機的な状況の中で、カトリック教会の司祭養成課程は、ある意味で注目を集めています。教会の内外から、司祭の養成には神学や聖書学の勉強だけではなく、カウンセリングの技能習得が不可欠だとか、性に関する知識を深めるべきだとか、聞こえてくる声には様々なものがあります。それはそうなのかも知れません。

 先ほど朗読された福音には、湖で網を打っていたシモンとシモンの兄弟アンデレに対してイエスが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたことが記されていました。

 福音を告げしらせる者になるようにとの呼びかけに応えた二人にとって、それからの3年間ほどに及ぶイエスとの生活は、まさしく神学校での養成の期間だったのかも知れません。イエスと歩みをともにした弟子たちが、イエスの受難と死の時点で完成した福音宣教者となっていたのかと言えば、そうではなかったことを私たちは知っています。弟子たちは復活の出来事を体験し、聖霊を受けて強められ、福音宣教者としての完成を目指して生涯にわたる旅を続けました。

 すなわち養成期間の終了は、その完成を意味していません。神学院の養成課程をすべて無事に終了したからと言って、その時点で私たちは完成した司祭となっているわけではありません。

 司祭の養成は、神学院と名付けられた専門の学校で、ある一定量の知識や技能を身につけることによって完成するものではなく、生涯をかけて完成を目指して歩みを進める旅路であります。確かに、神学院修了時に完成した司祭が輩出されるべきなのだとするならば、あれもこれも神学院の課程に詰め込むべきだという考えは理解できます。でも司祭養成は、生涯をかけての旅路であり、神学院はどちらかと言えばその旅路を歩む術を身につける場であります。どうしたら、道を外れることなく、主にしたがって生きていくことができるのか、その道を見いだす術を身につける場であります。「私に従いなさい」と常に声をかけてくださる主の呼びかけに、耳を傾ける術を身につける場であります。私たちは、常に未熟な存在であることを心にとめて、謙遜のうちに歩みを進める術を身につけておかなくてはなりません。

 昨年の世界召命祈願の日にメッセージの中で、教皇フランシスコは、「わたしたちは天から呼びかけている(神の)そのことばを聞き、識別し、生きなければなりません。そのことばは、わたしたちの能力を活かし、わたしたちをこの世における救いの道具にし、幸福の充満へと導いているのです」と述べられています。すなわち「聞き、識別し、生きる」ことが、召命を全うするために不可欠だと指摘されます。

 その上で、まず聞くことについては、「主のことばと生き方に心の底から耳を傾ける心備えをし、自分の日常生活の隅々にまで注意を払い、さまざまな出来事を信仰のまなざしで読み解くことを学び、聖霊からもたらされる驚きに心を開く必要があります」と言われます。

 また識別については、「わたしたち一人ひとりも霊的な識別、すなわち『人が、神との対話において、聖霊の声に耳を傾けながら、生き方の選択をはじめとする根本的選択を行う過程』を経て初めて、自らの召命を見いだすことができます」と言われます。

 さらに生きることについては、「福音の喜びは、神との出会いと兄弟姉妹との出会いに向けてわたしたちの心を開きます。しかしその喜びは、ぐずぐずと怠けているわたしたちを待ってはくれません。もっとふさわしいときを待っているのだと言い訳をしながら、窓から見ているだけでは、福音の喜びは訪れません。危険をいとわずに今日、選択しなければ、福音の喜びはわたしたちのもとで実現しません。今日こそ召命のときです」と指摘されています。

 私たちは、司祭職の中で使徒であり福音宣教者としての立場を忘れないために、旅路を歩み続けなければ成りませんが、そのときに常に人々の声に耳を傾ける人間であることが必要です。それは、私たちは一人ではなく、いつも人々から支えられているという謙虚さを身につけるためです。神学院の生活が、他者の声に、とりわけ弱い立場にある人の声に耳を傾ける術を身につけるものとなりますように。

 また神学院の生活が、良い指導者に恵まれて、神の御旨を識別する術を身につけるものとなりますように。そして神学院の生活が、自らの弱さを自覚させ、より一層神の助けと聖霊の導きに身をゆだねる謙遜さにおける勇気を身につける場となりますように。

 東京カトリック神学院の新たな出発の上に、聖霊の導きと助けをともに願いましょう」

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(2019.4.12 カトリック・あい)

 今年2月にカトリック中央協議会のホームページに掲載された司教団のこの問題についての説明の中で、菊地大司教の日記に掲載されなかった個所は以下の通りだ。どうして、2神学校体制の問題点を踏まえて「キャンパスの統合」が4年以上の検討されたのに、「統合」とは反対の、このような結果になったのが、上記の引用では、残念ながら全く理解しがたい。理解のため以下に、大司教の日記にある司教団の説明の、上記の引用に続く、後半部分を掲載する。きわめて情けない話だと思うし、ここに日本の司教団が抱える”連帯と協力””sinodality”の問題の本質が隠れているように思われるが、どうだろうか。判断は読者諸兄にお任せしたい。

 「‥‥そのため、6年経過した2014年4月から、二つのキャンパス制の養成上の弱点を改善するため、二つのキャンパス制を見直し、キャンパスの統合を検討することになりました。そして、ほぼ4年をかけて縷々検討し審議を重ねました。検討を進める中で、神学校は1箇所に設置すべきであるとの意見が次第に強くなり、具体的に東京にするか福岡にするか、という議論になりました。しかし、種々の理由により合意に達することができませんでした。

 その主な理由は次の通りです。

  1. 東京教会管区と大阪教会管区の司教団は知的養成を上智大学との提携で行いたい考えであるが、長崎教会管区の司教団は神学院の中で統合的な養成をスルピス会の養成方法に則って行うことを望んでいる。

  2. それぞれの地域に神学校が必要であること。神学校はそれぞれの地域の教会にとっていわば魂の役割をし、召命促進や教会生活の支えになり、無くなれば教会全体にとって大きな損失になる。

4.二つの諸教区共立神学校への移行

 上記3.に挙げた理由により、2017年度第1回臨時司教総会中の「司教のみの会議」(2017年9月28日)で、長崎・福岡・鹿児島・大分教区の司教から、教会法第237条に基づいて、4教区による諸教区共立神学校(Inter-diocesan Seminary)設立の意思が表明されました。この4教区(この時点で那覇教区は態度保留)の申し出をうけて、司教協議会が管轄する全地域のために2009年に設立された「日本カトリック神学院」は、新たに二つの諸教区共立神学校による体制へ移行することとなりました。

 あらためて日本16教区の司教の意向を確認した結果、東京キャンパスに設置される諸教区共立神学校は、東京教会管区の6教区(札幌、仙台、新潟、さいたま、東京、横浜)と、大阪教会管区5教区(名古屋、京都、大阪、広島、高松)によって設立し、福岡キャンパスに設置される諸教区共立神学校は、長崎教会管区5教区(長崎、福岡、大分、鹿児島、那覇)によって設立されることになりました。

5.二つの諸教区共立神学校設立の認可

 2009年の2キャンパス制の日本カトリック神学院の設立は日本カトリック司教協議会によって総会の中で承認されましたので、同じようにあらたに二つの諸教区共立神学校制へ移行することが、2018年度定例司教総会において(2018年2月20日)承認されました。この決定を受けて、教皇庁福音宣教省長官に最終的な認可を申請することになります。

6.共通の養成綱要

 おりしも教皇庁聖職者省が2016年12月8日に出した『司祭召命の賜物~司祭養成の為の基本綱要~』の規定によると、各司教協議会の管轄する地域にある神学校は、この司祭養成のための基本綱要(Ratio Fundamentalis Institutionis Sacerdotalis)を基準にして作成された国ごとの綱要(Ratio Nationalis)によって運営されることを求めています。よって日本の司教団も、日本の教会に見合った司祭養成の綱要を作成し、二つの神学校はその綱要に基づいて、それぞれの地域の状況を考慮に入れながら、具体的に適応していくことになります」。

 

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2019年4月12日