・福音宣教省が「新求道共同体の道」神学院の院長、副院長任命

(2018.9.16 「カトリック・あい」)

 バチカンの福音宣教省が、日本の司教団との事前協議なしに「新求道共同体の道(ネオカテクーメナート)」の司祭を養成する神学院の東京への設置を一方的に通告して関係者の間に物議をかもしているが、同団体に所属する司祭が14日付けの自身のブログで明らかにしたところによると、神学院の名称は「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」で、院長にダビッド・シケル神父、副院長にアンヘル・ルイス神父が任命された、という。設置場所はどこか、すでに開設されたのかなどは、明らかにされていない。

(再録)

 ネオカテクーメナートは1964年にスペイン人信徒、キコ・アルグエイオによって始まった運動。キコは、ジプシーやマドリッドの社会から疎外された人々を対象に、片手にギター、片手に聖書をもって福音宣教を開始。多くの司祭や修道者たちの賛同を得て「共同体」として発展、現在は1万を越える「共同体」が世界各地に存在すると言われる。だが、典礼その他で創始者や共同体の方針、指導を優先する傾向もみられ、英ランカスター教区でそのミサ典礼に規制をかける動きなども出ている。

 ⇒ネオカテクーメナートの特徴とされているのは、小教区の信徒の信仰養成、信仰生活の刷新を基本目的とし、週に二回定期的な集会、聖書の勉強と黙想、分かち合い、土曜日の夜は共同体のための感謝の祭儀(ミサ)を行うこと。聖書解釈には原理主義的な傾きがあり、過度に禁欲的、一般社会から閉鎖的、信徒の義務(たとえば、収入の十分の一の月定献金の義務)に関して厳格、などの指摘もある。個人の内的な改心にアクセントを置くあまり、社会に開かれた実践的信仰に消極的、何事においても創始者や新求道共同体の方針や指導を優先する傾向が強く、地域の教会の宜教司牧の方針に耳を傾け、心を開いて、積極的に協力しようとする姿勢は乏しい、ともいわれる。主任司祭が新求道共同体のメンバーであり、その祭儀を小教区のミサとして位置づける時は、それについていけない一般信徒にとって苦痛となる。それは小教区の分裂をおこす引き金になりうる。事実、典礼がもとで 新求道共同体と主任司祭を含めた小教区共同体と対立してしまったケースは、世界のいくつかの小教区でみられる。

 日本では、ネオカテクーメナートの神学院が高松教区に設立されていたが、小教区に派遣されたネオカテクーメナート共同体の司祭たちが、独自の司牧を展開し、信徒たちの間に深刻な分裂をもたらした結果、日本の司教団が閉鎖を求め、2009年に閉鎖された。

 閉鎖を求めた理由として当時説明されたのは「現地の司教と東京にいる上長の双方に従属することが、大きな問題」「彼らは、活動している教区の司教に従いたいとは言うものの、それを全く実行していない。とにかく十分でも正当な方法でもない」「権威に関することだけでなく、行なわれるミサの方法にもある。共同体の司祭は、ミサで日本語を使うが聖歌などは異なる。彼らは全てキコ創設者の霊性に従うが、それは私たちの文化は心情からは全くかけ離れている」ということだった、と報道されている。

 さらに、日本の司教団は、ネオカテクーメナートの責任者に対し、活動を5年間停止して、その期間を「日本における活動を反省するためのもの」とし、「5年経過した後に、司教側はネオカテクーメナートと問題の議論を始めたい。私たちは、彼らに立ち去って、二度と戻るな、と言いたいのでは決してない。望ましい形で活動して欲しい。日本語と特に日本文化を学んでほしいのだ」としていた。

 だが、このような求めに対して、当事者であるネオカテクーメナートの責任者やバチカンの福音宣教省から、誠意のある説明が日本の司教団にあった、あるいは突っ込んだ話し合いがされた、とは伝えられていない。そうした中での、一方的ともいえる神学院の再設置は、自身がこの共同体のメンバーと言われる、福音宣教省長官の一方的な”強行”と見られてもしかたがない。

 日本の司教団は今年2月、これまで全国一本だった司祭養成の体制を、東京、福岡2キャンパスからなる一つの「日本カトリック神学院」によるものから、「東京、福岡の二つ東京、大阪両教会管区11教区、長崎教会管区5教区)諸教区共立神学校」という別々の二つの司祭養成の体制に変更することを決め、司祭養成は事実上の「分裂」状態になろうとしている。その中での、バチカン福音宣教省直轄の神学院設立という今回の事態で、小さな日本のカトリック教会共同体は、司祭養成という極めて重要な分野で、三つの体制が乱立し、「日本の一つの教会」の理想からかけ離れ、さらなる危機を迎える可能性がある。

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2018年9月16日