・「司教団は教皇を頭に『愛と平和と一致』の証し人に」-菊地大司教、パリウム授与式で

(2018.9.19「カトリック・あい」)

 菊地功・東京教会管区大司教(東京大司教)はさる6月29日に、世界の教会管区大司教に授けられる教皇の権威の象徴、パリウムを教皇フランシスコから受けていたが、17日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、駐日バチカン大使・チェノットゥ大司教による正式な授与式が、両大司教の共同司式ミサの中で行われた。

1801 パリウムは、管区大司教(メトロポリタン)の教皇との一致のしるしとして授けられるもの。この一年間に管区大司教として任命を受けた大司教は世界に30名で、そのうちの28名が6月29日、教皇ミサに参加し、箱に入れられたパリウムを受けて帰国していた。以前は、教皇が各大司教に渡す習慣になっていたが、教皇フランシスコは、パリウムを「管区共同体の一致と協力の証し」として各カテドラルで、教皇大使から授与することに改め、今回もそれに従ったもの。

 授与式ミサには管区司教団を代表して、さいたまの山野内被選司教が参加し、司祭、信徒も多く参加して祈りを共にした。

 (注・東京教会管区は、札幌、仙台、さいたま、東京、横浜、新潟の6つの教区から成る。トップは菊地大司教)

*菊地大司教によるパリウムミサの説教は、次の通り。(「司教の日記」より転載)

 さる6月29日、サンピエトロ広場で捧げられたミサの中で、教皇さまはこの一年間に管区大司教として任命された30名の大司教に与えるパリウムを祝福され、ミサの終わりに、当日共同司式に参加した28名の大司教に、パリウムを渡されました。私も当日、その28名の1人として教皇さまのミサで共同司式をし、箱に入ったパリウムをいただいてまいりました。

 その日はペトロ・パウロの祝日でしたが、教皇さまは、ミサの説教で「ペトロの生涯と信仰告白を観想することは、使徒の人生につきまとう誘惑について学ぶことでもあるのです」と話され、「ペトロのように、教会もまた、宣教のつまずきとなる悪のささやきに、常にさらされている」と注意を促されました。

 また「メシアであるキリストの業に参与することは、キリストの栄光、すなわち十字架に参与すること」と強調され、イエス・キリストにおいて「栄光と十字架は常に共にあり、それらは切り離すことができません」と説かれました。神の栄光は常に苦しみとともにあり、苦しみを避けて、安易な道をたどって栄光に達することはあり得ないと説かれました。

 この世において聖なる存在、善なる存在であるはずの教会は、残念ながら時にその道からはずれ、悪のささやきに身をゆだねてしまうことすらあります。

 ちょうど今、米国での聖職者による性的虐待問題の報告書など、教会が聖なる道から離れ、善なる存在とは全く異なる過ちを犯した問題が各国で明らかになっています。教会において、聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを、特に私たち聖職者は真摯に反省し、許しを乞い願わねばならない、と思います。

 教会が今直面する危機的状況は、単に偶発的に発生している問題ではなく、結局は、これまでの歴史の積み重ねであり、悪のささやきに身を任せて積み重なった諸々のつまずきが、あらわになっているのだろう、と思います。

 教皇さまを頂点とする教会は、結局のところ、この世における巨大組織体ともなっています。組織が巨大になればなるほど、その随所で権力の乱用と腐敗が生じるのは世の常であります。この世の組織としての教会のあり方をも、私たちは今、真摯に反省し、組織を自己実現のためではなく、「神の国の実現のために資する共同体」へと育てていかなければならない。そういう「とき」に、生きているのだと感じています。

 そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、許しを願いながら、その傷に癒しがもたらされるように、できる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。また同時に、各地で露見しているこれらの問題の責任を一身に受け、解決のために尽力されている教皇さまのためにも祈りたいと思います。

 教会は「キリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む存在」であるはずです。

 確かに現代社会の様々な現実を客観的に見るならば、私たちは「輝く光」の中と言うよりも、「暗闇」の中にさまよっている存在だ、と感じることがあります。それは特に、神が賜物として与えられた人間の命、神の似姿として尊厳を与えられた人間の命が、社会の様々な現実の中で危機にさらされていること。その初めから終わりまで、例外なく大切にされ、護られなくてはならない命が、危機にさらされている様々な現実を目の当たりにする時、まさしく私たちは「暗闇の中に生きている」と感じさせられます。

 その暗闇の中で、教会は「キリストの光を輝かせる存在」でなくてはならない。果たして、その役割を真摯に果たしているのだろうか。もし仮に私たちがその光を輝かせていないのであれば、私たちは真摯に自らを省みなくてはなりません。いったい何を恐れて光を輝かせていないのか。どのような困難が、私たちを光り輝く存在から遠いものにしてしまっているか。

 教会は「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」であります。確かに現代社会の様々な現実を客観的に見るならば、私たちは一致と言うよりも分裂の中に生きている、と感じることがあります。教皇さまがしばしば指摘されるように、現代社会には排除の論理が横行し、異質な存在を排斥し、時に無視し、自分を中心とした身内だけの一致を護ろうとする傾向が見受けられます。教皇さまは「廃棄の文化」という言葉さえ使われます。弱い立場にある人、助けを必要としている人に手を差し伸べるのではなく、そんな人たちは存在しないものとして、社会の枠から追い出されてしまう、捨てられてしまう…。

 そんな現実の中で、教会は「神との交わりのうちにおける一致を、その存在を通じて明確に示している」のでしょうか。残念ながら、教会の中にでさえ、不和があり、押しつけがあり、横暴があり、排除があり、一致を明確に示しているとは言いがたい現実があることは、否定できません。小教区の中における一致も重要ですし、とりわけ、聖職者の間での不一致は、大きなつまずきとなっています。一致を妨げているものはいったい何でしょうか。自らの欲望を優先させる利己的な思いは、その要因の一つであると感じることがあります。

 教会憲章は、全世界の司教と教皇との交わりを「一致と愛と平和の絆」における交わりである、と指摘します。

 教会が一致を明確に示す存在であるように、その牧者である司教団も、教皇さまを頭として、まさしく「愛と平和と一致」の証し人とならなければ、存在する意味がありません。

 パリウムを教皇さまからいただくことで、私は、ローマの司教との一致をよりいっそう自覚させられます。教皇さまの牧者としての導きに信頼しながら、私自身の言葉と行いが一致と愛と平和の絆の証しとなるように、心がけなくてはならないと思っています。

 教皇さまのためにお祈りいたしましょう。そして教皇さまと一致しながら、使徒団を構成する司教のためにも、どうぞお祈りください。さらには、聖性のうちにキリスト者の模範となるべく努力を続ける司祭・聖職者のためにも、どうぞお祈りください。

 そして私たち一人ひとりの存在が作り上げている教会のために、ともに祈りましょう。教会が、この社会にあって聖なる存在であるように、この社会に善なる道しるべであるように、そしてこの社会に対して一致の証しとなるように、聖霊が力強く導いてくださるように、ともに祈りを捧げたいと思います。

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2018年9月19日