*「期待はするが、実効があるのか見届ける必要」が自発教令に対する多くの人の反応ー(Crux 解説)

(2019.5.12 Crux Editor John L. Allen Jr.)

 多くの人々の反応は、このように表現できるだろう-一連の新たなルールに期待するが、実効があるのか、見届ける必要がある、なぜなら、過去の経験は、カトリック教会では、事実上の他の文脈で、法律は、それを守る意思と同じ程度の重要さしかないことを、示しているからだ。(注:自発教令の実際の効果は)「時がたてば分かる」ので、結論は出さずに、この自発教令について簡単に三つ指摘してみよう。

*教皇の大衆迎合主義か?

 バチカンが発表前日の8日に自発教令の内容について記者団に事前説明した際、記者たちは、性的虐待問題でいつもしているように、最も信頼のおける人物の話に注意を向けた。その人物は、マルタのチャールズ・シクルナ大司教、虐待問題で先ごろまでバチカンの首席検察官を務め、この問題で、その真剣な取り組みで“untouchableアンタッチャブル(無敵、妥協を許さない)”の評価を得、バチカンの”エリオットネス”(注:米財務省ーのち司法省に移管ーの酒類取締局捜査官。20世紀半ば、シカゴの巨大な勢力、アル・カポネの犯罪組織を壊滅するための特別捜査班のリーダーとなり、アル・カポネ逮捕に貢献した。本人の活躍を描いたテレビ映画「Untouchable」が全米で高視聴率をとった)とされている人物である。

 その評判が改めて見せつけられたのは、シクルナがイタリアの記者たちに囲まれ、イタリアの主要放送の一つのためにイタリア語で話した時だった。

 自発教令が求める核心の一つは、世界の全教区に、「虐待と隠蔽に関する『報告制度』を2020年6月1日までに設置し、自国の教皇大使に設置完了を通知すること」を義務付けたことだが、イタリアの記者たちは「イタリアの多くの教区がこの種のことについて現在、何らの措置もとっていないとすれば、このような義務付けが果たして実際に実行可能なものなのか」と、彼に疑問を投げかけたのだ。

 これに対してシクルナは「教皇が求められていること-明確さを欠いた教皇の願望ではなく、具体的な命令-を、各教区に確実に行わせる責任は、各国の司教協議会と各国駐在の教皇大使にある」と言明し、さらに「私は神の民に教皇を助けるようにお願いしたい。彼らに虐待を断罪する権利があるなら、それを実行するための制度を作らないことを断罪する権利もあるのです」と述べた。

 言い換えるならば、自発教令で命じられたことを実行するように司教たちに督促するように、高位の聖職者たちに訴えたのだ。彼は自分のことを話したのだが、自分の”ボス”が(注:世界の司教たちの)現実をどのように見ているかを示唆したものだ、と見る向きもある-教皇は、自発教令で司教たちに具体的な制度の構築をお任せになったが、世界の司教や教区の中には、この自発教令で示された方策の多くを採用しないところもあるだろう、ということを十分にご存じだ、と。

 発展途上地域のいくつかでみられるように、現地司教たちが「自分たちにはもっと緊急に対応せねばならないことがある」と考え、聖職者による性的虐待を「西欧の危機」と見ているのが、消極的対応の原因になりうる。あるいは、イタリアのいくつかの地域で見られるように、司教たちが情報公開の強い要請や、法的対応の脅威にさらされておらず、結果として、インセンティブが働かないこともある。

 だがいずれにしても、教皇は今回の自発教令で、(注:聖職者による性的虐待と隠蔽に対する)挑戦に打って出られたのだ。そして恐らく、少なくとも部分的に、従来の教会の委任では成し得なかったことを成功させるために”公的圧力”を考慮に入れておられる、と思われる。

*法人の賠償責任の差し迫った危険

 この規範が示されて間もなく、筆者は、ある年配のローマの専門家でとても鋭い人物と話す機会があったが、彼は「虐待問題で対応を誤った司教たちをやめさせるように見られるのを、バチカンが嫌がるように見えるのは何でだろう」とつぶやいた。それは、「法人の賠償責任に対する心配と関係があるのだろうか」と。米国人である彼のつぶやきは、バチカンが虐待スキャンダルに関する米国での訴訟にさらされていることを指したものだった。

 これまでに、米国の裁判所でバチカンを訴えようとする動きはいくつもあるが、皆、主権国家としてのバチカンが持つ「訴追免除」の壁にぶつかっている。一つの例外は、主権を持った機関の代理人が自己の義務を果たす中で、米国で人に害を及ぼした場合である。これまで、司祭がバチカンの”代理人”であり、そうした司祭の犠牲者は米国の法廷においてバチカンに従う、という弁明は、ほとんど不可能だった。

 もっと厄介なケースは、「司教は自身の権利において使徒たちの後継者であり、教皇自身は、たまたまローマ司教となった高位聖職者団の一員である、という神学的な組み立て」にもかかわらず、司教がバチカンの代理人だとされていることだ。司教たちは、結局のところ、教皇に雇われている存在であり、バチカンが一般信徒による委員会に対して、米国の司教たちが昨年、隠蔽に対して生命責任を果たすことを希望していることに異議を唱えたのは、教皇と顧問団のみが司教を管理監督する権限をもっているという理由からだ。

 バチカンが日常的に司教たちを解雇すると見られるようになれば、民事訴訟のとって予測できない影響とともに、米国の裁判所が「司教たちはバチカンの”代理人”だ」と結論するのを避けることはさらに難しくなるだろう。

 そうした考え方が、自発教令を巡る議論の中で今、誰かの念頭にあるのか明確ではないが、早晩、そのことを思案せざる終えなくなる、と考えた方がよさそうだ。

 

*終わることのない取り組み

 虐待スキャンダルの専門家の間で、今回の自発教令に関する主要問題になっているのは、これがもう一つの自発教令「Come Una Madre Amorevole (CUMA=愛情のある母のように)」とどう関係するのか、ということだ。CUMAは2016年に教皇が出され、虐待の訴えを隠蔽し、対応を誤った司教たちの扱いを示したものだ。

 今回の自発教令はCUMAにとって代わるものでないことははっきりしている。この教令が扱っているのは、訴えについての報告と予備捜査であり、その後に起こることは全て、現在の政策と法規によって対応されることに変わりがない。

  CUMAの一つの要点は、隠蔽行為を、行政的な救済措置を提供する代わりに、意図的に教会法の犯罪に関する条項の対象外としておくことと、としている点だ。この考え方の根拠は、被告人の適正手続きの権利保護、証拠の秘密保持要件、上訴の規定の保護を含めて、刑事訴訟は、しばしば、厄介で、時間がかかるーとくに虐待スキャンダルの扱いの明白な失敗が教区を炎上させ多様な場合にーというものだった。

 シクルナが8日の会見で指摘したように、今回の自発教令は、刑事犯罪について扱ったもので、それは、隠蔽についての訴えを受理するのに、対応の誤りだけでなく、悪意があることがその要件となることを意味する。それが、その要件を満たせない場合に、事実上訴えが受理されないという定めになってしまうのだ。報告が自発教令に従ったものであろうと、特定の対応を誤りの責任追及の引き金を引くことはないだろう、ということである。

 実例を挙げるなら、自発教令は確かに、前枢機卿で前司祭のセオドール・マカリックによる性的虐待とその他の誤った対応についての報告のケースには適用されるだろうが、マカリックの行為を知っていて、彼が高位の聖職に上っていく間、発覚しないようにした人物に関して、真相を明らかにすることまではできないだろう。

 言い換えれば、今回の自発教令は、多くの観察者が性的虐待スキャンダルから終わることのない取り組みの一つの最も大きい断片として考えていることー性的虐待の犯罪だけでなく、隠蔽に対する説明責任を関係者に果たさせる、ということーの実現に、大きな貢献をすることはないだろう

 自発協定が示した新たな規範の碑文がどのように刻まれようと、「成し遂げられた」という文字が入ることはないだろう。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

 

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2019年5月12日