まず、バチカンの報道官、イタリアのベテラン・ジャーナリストであるアンドレア・トルニエリ氏が1月10日に、メディア関係者に対して、この会議について過大に扱い過ぎている、まるで「公会議と教皇選出会議の中間」のような報道がされている、と苦労を呈した。
そして次は、会議招集者の教皇フランシスコ本人が、世界青年の日大会出席でパナマを訪問した帰りの機内での記者会見で「会議への期待は、少しばかり膨らみ過ぎのように感じています」と語り、「ガス抜きをする必要があります」と述べたことだ。
会見で、教皇は、この会議の狙いについてどう見ているかについて言及された。まず、虐待された子供たちが経験した「ひどい苦しみ」について司教たちに自覚を促すこと。次に、虐待の案件に対処する手順を司教たちが理解するのを助けること。そして、この問題と対処の手順についての自覚が「全ての司教協議会」に及ぶことを確実にすること。
ある程度の期待を盛り上げる努力は、完全に理に適っている。なぜなら、3日間の会議で世界を変えるのを期待することは、そもそも常識では考えられない。虐待問題に対処する努力は多くがバチカンではなく、それぞれの現地でされるものだ。成果の出る出ないは、「バチカンではなく、会議に参加した司教たちが戻ってからの、それぞれの地元での具体的な対応」によるのだ。
ここ何十年も、性的虐待の被害者たち、問題解決に全力を傾けて来た関係者たち、信仰を揺らがされている一般信徒たちは、激しい不満を募らせている。中でも米国の人々は、1980年代半ばから繰り返し性的虐待のスキャンダルを知らされ、”厭戦気分”が強い。2002年には問題を解決するとの約束を聞かされたが、その後、17年経ってもまだ心に痛みを起こし続けねばならない、ということは、多くの人にとって理解しがたいことだ。多くの善意の人々にとって、期待を萎めることは、否定、無関心、あるいは最悪の場合、隠蔽という形で黙認してしまうことに、つながりかねない。
では、2月の会議から現実問題として、何を期待すればいいのか?性的虐待撲滅のガイドラインで合意せねばならないとすれば、虐待の訴えへの対処を誤った司教たちをどの様に扱うのかについて真剣な議論が行われることが重要になる。だが、昨年10月の「若者シノドス」で性的虐待とからんで焦点となり、判断が持ち越された“zero tolerance”の扱いが特に緊急の課題となるように思われる。 10月のシノドスでは、最終文書に zero tolerance を書き込むことで合意寸前まで行ったが、アジア、アフリカ、それとイタリアなど欧州の一部の反対で、見送られた。
反対の表向きの理由は、教皇が招集される2月の会議の前にそのようなことを決めるのは時期尚早、というものだったが、実際は、司教たちの中に、いまだに「 zero toleranceは”過剰反応”だ」「アングロ・サクソンの世界では文化的に適当な対策だろうが、他の地域ではそうではない」と考える者がいたのは明らかだ。
そうした経過から、2月の会議は教皇にとって、zero toleranceがカトリック教会の「世界標準」であること明確にするのに適した機会となる。聖職者による性的虐待問題の文脈でzero toleranceの意味を考えると、教会は児童性的虐待について不寛容、となるだけでなく、一度でも未成年者に対する性的虐待が立証されれば、教会員は管理運営の職を永久に解かれる、聖職者であれば、聖職者としての地位をはく奪される、ということを意味する。
これは、米国のような西側国では標準的な慣行となっているが、地域によっては、それを守らない方が評価される所がある。よく知られた例が、インドのタミル・ナードゥ州出身のジョセフ・パラニベル・ジェヤパウルの事件だ。2004年から2005年にミネソタ州で働いていた時、14歳の少女二人に性的いたずらをしたとして訴えられたが、逃亡、実家に戻った。2010年にインドの教区によって留置され、2012年にインターポール(国際刑事警察機構)に逮捕され、米国に連れ戻され、有罪の宣告を受け、刑務所に入れられた。だが、インドに帰国した際、一年もたたないうちに、地元の司教がバチカンに嘆願して、ウータカマンド教区での教会活動に復帰が認められた。
このようなことは、2月で教皇は終わりにできる類のものであり、ご自身が繰り返し言明されているzero toleranceを支持する姿勢と合致する。
教皇は、昨年のペンシルバニア州大陪審の同州の聖職者による性的虐待に関する報告を受けた書簡で、こう述べているー「私は、世界の様々な地域でなされている努力と働きを承知しています…zero toleranceと、これらの罪を犯したり、隠ぺいしたりする者すべてに説明責任の義務を負わすことを実行するために。私たちは、強く求められていたこうした行動を起こし、必要な制裁措置をとるのを遅らせてきましたが、それらの措置が、現在、そして将来、弱い者を守る、より大いなる文化を保証する助けになると確信しています」。
道理をわきまえた人々は、2月の会議で教皇ご自身の公約が支持されるのを期待するのが「過大な期待」とは全く思われない、との見方に同意するに違いない。そして、教皇フランシスコも「過大な期待ではなかった」とお考えになるかどうか、間もなく判明するだろう。
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)
(2019.2.7 Crux Editor John L. Allen Jr.)
ローマ発ー聖職者による性的虐待に関する全世界の司教協議会会長たちによる会議が、21日から24日にかけて開かれる。我々は、この会議に過剰な期待を抱かないように、と最近、バチカンから二度にわたって”注意”を受けた。